6.10. 戦乙女ブリュンヒルド、小人たちに己の身体を差し出すこと
(ずいぶんと重苦しくなったな)
戦乙女ブリュンヒルドは嘆息した。
イドゥンについては仕方がない――彼女は最もフェンリルと仲が良かった。お互いにまだ年若く、しかし幼いというほどではなく、相応に世界のことを知り、己の無力さと無念さを悔いながらも、前向きだった。単にふたりとも活発な性格で気が合ったからというだけかもしれない。ともあれ、とにかく仲が良かった。その仲が良かった友が死んだ。
「フェンリルが生きている可能性はないのか?」
この第七世界ニダヴェリール――地下空間に広げられた蟻の巣のような空洞が縦横無尽に繋がる地下世界――まで地下通路を通って到着してから、ヘルがそんなふうに問いかけてきたのに対し、首を振って返したのを思い出す。
「《銀糸》が崩れたのは、所有者の肉体が事切れたからだ」
ブリュンヒルドはそれを偽ったりはしなかった――死んだものは死んだのだ。それは事実だ。かつて、アース神族の主神である〈絞首台の主〉はそれを認めなかったが、ブリュンヒルドは死と――死ねばもはや何も取り返しがつかないのだということに目を背けるつもりはない。
もっとも確実に死んだといえるわけではなかった。というのも、フェンリルは亡者だからだ。
亡者という歪な生命だったからできること。彼の身を亡者ではなく、本来の遺伝子情報が取るべき形に戻そうとしていたならば――本来の遺伝情報に基づいた形質に戻る過程であの〈魔狼〉の身体は崩れて臓腑もその動きを止め、《銀糸》は一時的に機能不全に陥って止まるだろう。もし《聖剣グラム》に代表されるような三剣とそこに呪力を供給する〈世界樹〉の根があれば、それも可能だ――いや、道具と力があったところで、知識がなければそれも活用できない。ブリュンヒルドでさえも魔法については半端な知識しかないのだ。そうでなければ、ブリュンヒルドはフェンリルと別れるあのときに彼をその〈魔狼〉の楔から解き放ってやることができたはずなのだ。
ともかくとして、フェンリルは死んだ――そのはずだ。その結果として、イドゥンは〈第七世界〉の地下世界でさえも照らすはずの黄金の笑顔を曇らせており、塞ぎ込みっぱなしだ。幸い、途中の地下通路の道が複雑であり、フェンリルが火の国の魔人スルトを一度は撃退したこともあってか、〈第七世界〉まで逃げると炎の魔人たちの追っ手はなかった。宿や食料もブリュンヒルドの交渉の結果、小人族たちに融通してもらっており、その交渉を続けなければいけないことと天井が低いことを除けば、現状に不満はない。
(とはいえ、このままではいられないだろうなぁ)
実をいえば、ブリュンヒルドにとってはこのままでも構わない。というのも、彼女とシグルドの使命は災厄の一柱である〈火竜〉の封印であり、それは現在進行形で成功し続けているからだ。〈第七世界〉の外に出て無駄な危険を晒すことはない。
だがこのままここにいては、イドゥンやヘルが駄目になってしまう気がした。
「ブリュンヒルド、もうお仕事に行くの?」
小人族たちからあてがわれた部屋はみっつで、ひとつはヘルとエリヴァーガルとヨルムンガンドが、もうひとつはブリュンヒルドとイドゥンが、残りのひとつはシグルドとウルが使用している。地下に掘られた空洞を利用した小人族の部屋であるため、天井は低く、手狭で土臭くはあったが、アースガルドの炎で照らされている昨今の気候を考えると、ひんやりと冷たい洞穴は悪くはない。おまけに洞穴内には地熱を利用した温泉も湧いているので、これまでの戦闘の疲れとともに、昨今の仕事の汚れも落とせるのでありがたい。
「そうだね、ヘルのところへ戻ってて」
「うん………」
少年のような高い声で応答したのは寝台の上で丸まっていたヨルムンガンドだ。スリュムヘイムまではほとんどの期間をヘルととともに過ごしていた〈世界蛇〉は、第七世界ニダヴェリールに来て以来、ヘルのもとから離れたがるようになってしまったので、たまにこちらの部屋に居させてやっている。その恍けた表情に影差すのは、フェンリルの死があるのだろう。あるいはヘルの状態が不安定だから、単純に近づきたがっていないだけか。相槌にも、どこか悲しそうな、不安そうな色が取れた。
ヨルムンガンドの身体を救い上げて肩に乗せ、その頬を突ついてやる。蛇は黄金色の瞳をぱちくりとさせたが、表情の変化はよくわからない。
薄い木の扉を開き、ブリュンヒルドの上背でもぎりぎりの高さの通路を通って隣の部屋へと向かう。幸い通路では小人族たちに出会わなかった。
隣の部屋をノックしても返事はなかったが「入るよ」と告げてからブリュンヒルドは扉を開ける。土の上に毛皮が敷かれた寝台の上にヘルが腰掛けているた。彼女の視線は己の左手を確認しているらしかった。訪問者のほうを一瞥したが、すぐに手甲へと視線を戻してしまう。
「ヨルムンガンドのこと、よろしくね」
と蛇の身体を預けると頷いてくれたので、無視はされてはいないらしい。だが睨むような視線は厳しい。ブリュンヒルドは肩を竦めて部屋を出た。
まだ他の生物と意思疎通を初めてから間もないヨルムンガンドのことはよくわからないが、ヘルはイドゥンと違ってフェンリルの死を察知した直後もそれほど大きな動揺は見られなかった。彼女にとってフェンリルは血を分けたきょうだいではあるが、長い間ほとんど互いを知らずに育った他人のような関係である。であれば、こんなものかもしれないと、最初ブリュンヒルドはそんなふうに済ませていて、ヘルのことには注意を払っていなかった。
だが時間が経るにつれて、彼女の精神は加速度的に磨耗していっているらしかった。表情は曇り、口数は少なくなり、うつむき気味になっていった。
血の繋がった間柄の相手が死ぬということが心にどれだけ影響があるのか、少なくともブリュンヒルドは実感としてそれは知らない。きょうだいと似たような存在なら、ブリュンヒルドにもふたりいる。名前とその立場だけ知ってはいるが、お互いに深くは知らないという点で、ヘルとフェンリルの間柄によく似ているかもしれない。その「きょうだいと似たような存在」が死んだとすれば、ブリュンヒルドはどう感じるだろう――自問してみたが、よくわからない。両方とも、殺しても死なないような存在だからだ。
少なくともヘルにとってフェンリルは、どれだけの距離と時間を置いてもきょうだいだった――そういうことか。
フェンリルのことを別にすれば、ヘルのこの様子は〈第七世界〉に来てからのブリュンヒルドとのやりとりが影響しているのかもしれない。正確には、ブリュンヒルドの「仕事」が、だ。
〈第七世界〉には街だの都市だのといった区分がないらしく、縦横無尽に繋がっている横穴の接続は複雑だ。それでも何度か行き来しているうちに、ある程度道順は覚えられるようになった。それに基本的に広い場所に出る穴ほど大きくできているので、広場に出るのであれば、大きい道大きい道へと進めばよいのだ。
ときどき小人族たちとすれ違うと、囁き声とともに下卑た笑いが交わされるのがわかった。ま、仕方がないことだ、と髭だらけのもじゃもじゃの面を横目で見ながら思う。小人族は男女の性差が薄いため女でも男のように見えるのだが、間違いなくあれは男だろう。
広場には天井に複数の綱が張られてそこからいくつもの燭台がぶら下げられているので明るい。子どもが作るようなドーム状の建造物があるが、あれらはどうやら横穴に掘られた部屋とは別の家々らしい。もしあれらが一般的な――つまり父親がいて、母親がいて、子どもがいるような家であれば、教育には良くなさそうだな、と思う。幸いにして窓はないが。
中央へと向かうと、高く土が盛られた場所――集会場か何かなのだろう――に既に小人族たちは集まっていた。彼らはブリュンヒルドが近づいてきているのを察知しても騒ぎ出したりはせず、敢えて無視するかのような態度を取っていた。騒ぎ立てるのはみっともないと思っているのだろう。その程度の自尊心はあるというわけだ。
台の上に乗ると、周囲を小人族たちに取り囲まれた。隙間なく詰めているのは、逃さぬようにということか、それともできうる限り最前線に立ちたいと思っているためか。既に彼らが興奮していることは、視線を髭からさらに下げればわかった。ブリュンヒルドがここに来てから着ている薄布をただ巻きつけただけのような服を脱ぎ捨てると、小人族たちはもはやその場に留まっていたりはしなかった。彼らも下半身の下穿きを脱ぎ捨て、ブリュンヒルドにその小さなものを押し付けてきた。
〈第七世界〉に留まる間、ブリュンヒルドの身体を彼ら小人に自由にさせるというのが、滞在費用としての対価であり、ブリュンヒルドがなす仕事だった。