三月二十日 真夜中
三月二十日 真夜中
体がだるい。でもあたりがなんだか温かい。私は重たい瞼を開き、何とか視界を確保する。
仰向けになっている私の目の前に飛び込んできたのは、古びた木目の天井。室内は明かりに照らされ、ゆらゆらと揺れている。ここはどこだろう? あの世?
「お、目ぇ覚めたか?」
そう言って、私の目の前に見知らぬ顔がにゅっと現れる。
「ひえ!」
驚き、私は横に転がって逃げ、立ち上がろうとしてしりもちをつく。あたふたとしてると左手を掴まれ、さらに私はパニックになる。
「きゃあああああ!?」
「お、オイ落ち着けって! 人間だから落ち着け! 怪しくないから!」
そう言っている人物をよく見ると、ぶかぶかの黒いパーカーに、黒っぽいぶかぶかのカーゴパンツ。要は全身黒づくめ。おまけにあたりを照らしているロウソクの光の加減で、ちょうど表情がわかりづらい。
……これで怪しくないわけがない。
「はなせ! はなせ変質者!」
私は怪しすぎるこの人物から逃れようと手を振り回す。しかし、そいつは一向に私から手を離そうとしない。あまりにしつこいので、私はそいつを蹴り飛ばそうと足を振り上げる。
「うお、あぶね!」
相手はそう言いながらたやすく私の足を掴む。
「しまっ……!」
慣れないハイキックなんか繰り出して、おまけに掴まれたもんだから、私は態勢を崩し、その場に倒れてしまう。
「アグレッシブな女子だな……!?」
そう言う人物の表情がやっと見える。中学生くらいだろうか。その少年は何やら顔を真っ赤にしている。しかし、視線は私を見ていない。というか、私の下半身に……。
そこでやっと私は気づく。今日スカートをはいていたことに。顔が熱くなるのを感じながら私はそいつに罵声を飛ばす。
「し、死ねええーーーーーーー!!!」
「へぶん!?」
掴まれてないほうの足で、今度こそパーカー男の側頭部に蹴りを叩き込んだ。男は横ざまに倒れ込み、泡を吹いている。
「はあ、はあ、……し、死んじゃったかな?」
やばい、仕方ないとはいえ、人を殺してしまったかもしれない。どうしよう、どこに埋めよう?
「い、いや、正当防衛だし、警察に正直に言えば罪には問われないかも……。」
「ど、どこが正当防衛だよ……この暴力女……。」
「ひ!?」
私は後ずさり、壁際まで下がる。パーカーを着ていた男はよろよろと立ち上がる。
「い……てて……。ま、まさか命の恩人に蹴りかます奴がいるとはな……世の中いろんな奴がいるぜ……。」
「い、命の恩人?」
あまりに気が動転していて、忘れていた。そうだ、私はあの時、早苗を悪霊から守って……!
思い出すだけでも鳥肌が立った。全身を舐めまわされているかのようなあの不快感。忘れようと思っても忘れられるものではない。いや、それよりも……。
「早苗は、早苗は無事なの!? ここはどこ!? アンタは誰!?」
「お、おいおい。質問は一個ずつにしてくれよ……えっと、まずあの幽霊は無事だ。アンタらが襲われてたから、僕があの悪霊を退治した。それから、ここはあの橋の近くの神社。今はもう使われてないから勝手に借りた。アンタの家知らないから、適当な場所で休ませようと思ってな。それから僕の名前は龍斗だ。」
龍斗と名乗った彼は、肩をすくめるような動作をする。
「……つーか、元気じゃねえか、アンタ。とても憑り殺されそうになってたとは思えないぜ。」
……なんかムカつくな。と思った。命の恩人だか何だか知らないけど、すごく馴れ馴れしい。それに、悪霊を退治したと言った。触ることもできないはずの化物を、どうやって追い払ったのか?
私はまだ、この男に不信感を抱いていた。
「……あんた、何者なの?」
男は、その質問に対して、少しだけにやっと笑う。でも、別に不敵でもなんでもない。むしろ微笑んだ、という表現の方が正しいのかもしれない。
「名乗ったろ? 龍斗だ。 ついでに言うなら、退魔士なんてのもやってる。あ、今は鬼喰いだった……まあ、どっちにしろ見習いみたいなもんだけどな。」
そう言って男はフードを取る。男にしては少し長い髪の毛。癖があり、少しぼさぼさとしている頭髪に、薄い茶色気味の瞳。少し整った顔立ちはどこか幼さを残している。歳はおそらく同じくらいだろうか。
「……早苗に会わせて。」
「元気な子だな……まあ、ピリピリしててもいいことないぜ? 甘いモンでも食って落ち着きなよ。」
そう言って少年はポケットからポッキーを取り出す。
「……いらない。」
「心配すんなよ、毒なんか入ってないさ。……ポリポリ……な、平気だろ?」
そう言ってなお私にポッキーを突きつける。……まあ、断る理由もないか。私は彼が持つ袋から一本引き抜いて頬張る。
「ポリポリ……で? 早苗は無事なんでしょうね?」
「心配性め……大丈夫だってば。ほら、歩けるか?」
「当たり前……!?」
さっきはパニックになっていたけれど、冷静になって自分の体を動かそうとすると、随分疲労が溜まっていたことに気付く。歩こうとしてふらつき、その場に膝をつく。
「無理すんな。ほら、肩貸してやるから。」
「いらない! 自分で歩けるし。」
「そう言うのは立ち上がってから言えっての。……ほら、行くぞ。」
少年は私の手を取り、そのまま肩にのせる。
「こら! どこ触ってる!」
「スカートのベルトだよ。バランスとりやすいからな。つかあんま暴れんなよ。」
なんだかこの少年といると調子が狂う。初対面の人の前ではおとなしいはずの自分が、こいつには普通に罵声を飛ばしていることに若干驚きつつも、私は龍斗と共に橋の下に向かう。
驚いたことに、橋の下の、あたりに生えていたはずの草は焼け焦げ、土が露出している。若干の焦げ臭いにおいが橋の下の空気を満たしていた。
「な、何よこれ……。」
私は茫然としていた。何をどうしたらこうなるの? これだけの焼け焦げた跡があるってことは、少なくともかなり大きな火が上がっていたはず。なのに、騒ぎになった様子もない。草が焦げてる以外に、さっきとはほとんど様子が変わっていない。
「愛里ちゃん!」
そう言って私の方に飛び込んでくるのは早苗。私に抱き着こうとして、それが無駄だったことを思いだし、代わりに身を乗り出して私を質問攻めにする。
「愛里ちゃん、大丈夫!? 痛くない? 体に変なところはない? ごめんね、あたしのせいで、あたしのせいで……!」
「だーいじょぶだってば! 早苗こそ、平気?」
「うん、この人のおかげで。」
早苗が龍斗の方を見るので、私も隣にいるこいつの方を見る。龍斗は少し照れくさそうにしながら、おう、と一言言うだけだった。
「へー、嘘じゃなかったんだ。ありがとね、龍斗。」
「嘘だと思ってたのかよ!? ヒッデェ!」
からかってみたら、やっぱり面白い反応が返ってきた。思わず笑ってしまうと、少し不機嫌そうに龍斗が抗議する。
「くそう、完全に僕で遊んでやがるな、お前……。」
「お前って言うな。名前で呼びなさいよ。」
「自己紹介もしてない奴の名前なんか知るかよ! エスパーじゃねえんだぞ?」
あ、そう言えば名乗ってないや。なんだか可笑しくなってきた。
「あはは、そうだったそうだった! 私は愛里。桃園愛梨だよ。」
「へえ、そう。」
「聞いといてその反応? ひっど!」
「うっさいな。どうでもいいだろ。そもそも最初に名乗んなかったから悪いんだろ。」
「む・か・つ・く・~!!!」
とりあえず思いっきり腹にパンチしておいた。油断してたのか、思いのほかきれいに決まった。しまった、やりすぎたか。
「おふぉ、おま……!」
「……ふん、ばーか。」
「愛里ちゃん……?」
早苗が不思議そうに私の方を見ていた。
「ああ、ごめんごめん。こんなやつ放っておこう? それより、早苗が無事で良かったよ。そう言えば、あの後どうなったの?」
私はうずくまる龍斗をほっといてその後の経緯を聞く。
「その人、教えてくれなかったの? うーんと、あの後すぐにその人が来て、魔法みたいに手から炎出して悪霊をやっつけたよ。」
「手から炎?」
私はちらりと龍斗の様子を窺う。彼はいまだに腹部を抑えて地面に情けなくうずくまっている。
……火炎放射器でも持ってたのかな? とてもじゃないが、手から炎を出す人間なんてにわかには信じられない。あるいは手品師か。
「で、アンタはなんで私を助けてくれたわけ?」
「……おぉう? ちょっとまって……おなか痛い……」
「なっさけな……。アンタそれでも男?」
「愛里ちゃん、殴っといてそれはあんまりだよ。」
なんて言いながらも早苗は少し笑っている。確かに、と思うと同時に私も笑っていた。龍斗はその様子に少しだけむっとしたようだが、むくりと立ち上がり、彼の事情を話し出す。
「さっきも言ったように、僕は退魔士の見習いだ。だから依頼を受けて、報酬をもらって鬼……まあ、今回は悪霊だったけど、とにかくそいつらをやっつけるのが仕事だ。」
「報酬……?」
その言葉に私は眉をひそめる。そんなものは払った覚えはないし、そもそも依頼なんてした覚えもない。
「ホントは前払いなんだ。いろいろトラブルが起きやすいからな。でも今回は緊急事態だったからな。後払いでもいいかな、と。」
「ちょっとまって! 報酬? そんなの聞いてない! そもそも、アンタに依頼なんてした覚えはないわ!」
あの状況で助けに来てくれたことには感謝しているが、あとから現れて報酬を払えとか、納得できるわけがない。
「そりゃな。依頼主は愛里じゃない。そっちの幽霊だからな。」
「え?」
私は驚いて早苗の方を見る。早苗は少し俯き気味になりながら龍斗の足元を見据えている。
「……確かにアタシは昨日、退魔士を送ってもらえるように連絡しました。でも、今回の依頼はその、そういうことじゃなくて……。」
早苗は言いにくそうに、チラチラと私を見ながら、龍斗に話し続ける。
「今回の依頼内容は、まだ言ってない、です。」
「? でもあんた、僕が来た時に『誰か助けて』って言ってなかったか?」
「あ、アレは依頼じゃなくて……」
龍斗は少し厳しい顔つきをしている。早苗はどもりながらこう言い放った。
「あ、アレは! ただのお願いです!」
「……ぷ」
あはははは、と龍斗が笑い出す。私も早苗もぎょっとして龍斗を見る。
「ははは、『お願い』か! そんな言い分は初めてだ! 今まで『お前が勝手にやったんだろ』とか、『聞き間違いじゃないのか』とかごねてた連中はいたけど、なるほどな! いっそ清々しい!」
あははははと笑い続ける龍斗に、私たちは困惑するだけだ。なにが面白いのかわからないし、なんかツボに入ってる彼になんと声をかければいいのか。
「いや、オッケーオッケー。それならしょうがない。確かに、お願いって言ってたな、そう言えば! ははは、素直でよろしい!」
そう言って龍斗は改めて早苗の方を見る。
「じゃあ、改めて聞こうか。君の依頼は何? 僕に、何をしてほしいんだ?」
早苗は、少し言いよどんだ後、なにかを決意するようにまっすぐに龍斗を見つめる。自分の決意を吐き出すように、言葉を発する。
「あたしを、今すぐ退治してください。」