三月二十日
三月二十日
桃園愛里。私の名前。でも、私は愛って言う字がなんとなく嫌いだった。両親は仲が悪く、親戚から聞いた話だと、当時大学生だった両親のデキ婚で生まれたのが私らしい。
デキ婚とは、できちゃった結婚。子供ができたから結婚する。それ自体は別にかまわないけど、でき『ちゃった』って言い方にどうも違和感を感じてしまう。ほんとは作りたくないのに、できちゃったから仕方ないね、結婚しよう。みたいなノリだったのかと思ってしまう。別にすべてのデキ婚がそうとは思わないけど、少なくとも私は仕方なく、愛の無い関係で生まれてしまった子供だった。
両親の不仲は大体私の話が原因。やれ高校はどこに行かせるだの、金かかるから行かせないだの、給食費なんぞ払うなだの、じゃあアンタが弁当作れだの。そんなとき、決まって私はその場から逃げ出す。私の家に、私の居場所なんてない。
この日も、私は家から逃げ出して、近くの河川敷をぶらぶらとしていた。来年から中三になるけど、高校は進学する気はない。というか、おそらくさせてもらえない。どうせまた嫌な顔をするに決まってる。卒業したら、親戚の和菓子屋さんでお手伝いとして住まわせてもらうつもりだ。従姉妹の友里さんなら、嫌な顔せずに迎えてくれるだろうし。
私はなんとなく、川の上流の方に向かってぶらぶらと歩く。何もないけど、こうして川を見ながら歩くのが好きだ。この時だけは、私は退屈な世界から逃れて自分の世界に浸れるから。
昼下がりの河川敷をふらふらと歩く。スカートの中に風がふわっと入り込んできて、少し冷えるけど、お構いなしに歩き続ける。どうせこの辺の河川敷に人なんかいやしないし。
家から五キロくらいは歩いてきただろうか。前方に大きな橋が架かっていて、その下にはいつも私の友達がいる。せっかくだ、彼女のとこによって行こう。どうも今の私は心中穏やかではない。
「やっほー、早苗。元気だった? って、そんな聞き方もおかしいか。死んでるのにね。」
橋の下で私がそう話しかけると、その場の空気が少しずつ冷たくなっていくような感じになる。いつものことで、そして相手が彼女だから平気なのだけど、この感覚はなかなかぞっとするものがある。
「あ、愛里ちゃん。いらっしゃい。また遊びに来てくれたの?」
そう声がし、目の前の空気がゆらゆらと揺れる。しばらくすると、揺らめいた空間の中から白っぽいワンピースを着た、私と同い年か、少し歳下くらいの幼い顔をした少女が現れる。
「うん、ちょっと散歩がてらね。」
「うふふ、そうなんだ。……また、ご両親、喧嘩した?」
鋭いな、さすが早苗。
彼女は私の悩みを全て打ち明けられる唯一の友達。なんでも地縛霊らしく、長いことこの橋の下で過ごしているようだ。両親が喧嘩して逃げ出したい時や、良いこと、やなことがあったとき、私はここに来る。何かあれば早苗のところに行き、起きたことや思ったことを彼女に話している。初めて会ったのが小六の春だから……かれこれ二年くらいだろうか。そんなことを繰り返していたので、彼女はすっかり私のことを知り尽くしている。両親以上に。
「まあ、ね。今度は何だか私をどこかに預けたらいいんじゃないかみたいなこと話してたし。ほんと、アイツら死ねばいいのに……。」
「愛里ちゃん、そんなこと言っちゃだめだよ。簡単に『死ね』とか。あたしが悲しくなる……。」
「……うん、そうだね。ごめん。ちょっとショックだったんだ。今までは喧嘩してても私がいなくなればいいみたいなことは一切言ってなかったんだけどね。なんだか今回の喧嘩の内容がさ、私を厄介払いしようとしてるみたいでさ……なんか、悔しくてさ……。」
早苗が私の頭にそっと手を乗せようとして、引っ込める。早苗はとても優しい子だ。私を慰めようとしてくれてる。でも、彼女は幽霊。私に触ることはできない。それでも、私の方をじっと見つめてくれる。
「……あたしは、愛里ちゃんの気持ちは分かってあげられないけど、つらいんだろうな、ってことはわかる。でも、あたしは幽霊だから、愛里ちゃんのためにしてあげられることなくって……その、ごめんね……。」
早苗は悲しそうに俯いてしまう。私はあわてて早苗に言葉をかける。
「ううん、いいの。早苗にこうやって気持ちを話してるだけで、私はずいぶん楽になってるからさ。ね、だからそんな顔しないで?」
そう告げて私も早苗の頭に手を伸ばす。もちろん、触れることはできない。でも、お互いの気持ちが通じ合っているのを感じる。私は何だかうれしくなってくすりと笑う。早苗も、私につられて少し笑顔になる。
「……ねえ愛里ちゃん。あのね、あたし、愛里ちゃんに伝えなくちゃいけないことがあるの……。」
「? なに、伝えなくちゃいけないことって?」
早苗がどもりながら話を続けようとしたときだった。
あたりの空気が一気に冷え切ったように感じられた。そして同時に、橋脚の暗がりからうごめく何かが現れる。
そいつはまるで影からにじみ出るようにして地面をはいずり、少しずつ集まり、膨れて、小動物くらいの大きさにまでなる。でも、それが何なのかはわからない。不定形の、まるで液体のような、例えるならスライムみたいにグネグネと形を変えて、私たちの前に現れる。
「オ……ォォ……オ……。」
「な、何? アレ……。」
私は気持ち悪い形のそれを見て恐怖する。思わずその場から逃げ去ろうとする。
いや、ダメだ。早苗は地縛霊だから逃げられない!
「愛里ちゃん、逃げて!」
早苗の声に反応するかのように、化物は彼女目掛けて勢いよく暗闇から飛び出してくる。
「キャッ!」
「早苗!」
明るみに出たそれを見ても、やはり黒い影の塊のような外見で、そんな生き物は見たことがない。もしかしたら、これは……。
「愛里ちゃん! 何してるの逃げて、こいつは『悪霊』だよ! 負の感情につられてやってきたの! 今逃げれば間に合うから早く……!?」
影の化物は叫ぶ早苗を飲み込むように覆いかぶさる。早苗はその影の中でじたばたと暴れて逃れようとしている。
負の感情が、こいつを、悪霊を呼び寄せた?
じゃあ、こいつを呼び寄せたのは……。
私?
「私のせい……?」
この影を呼んだのは、私? なのに、私は友達を見捨てて逃げるの?
たった一人の、大切な親友を見捨てるの?
そんなこと……。
「逃げろだなんて……。」
そんなこと!
「そんなこと、できるもんか!」
私は、その悪霊に向かって突進する。体当たりをかますつもりで思い切り走っていく。影に向かい、全力で体をぶつける。しかし。
「あぐっ!」
悪霊も幽霊だ。当然、私が触れることなんてできないのだろう。私は影を通り越し、河川敷の草に転がる。
「うぅ……苦しい……やめて……!」
早苗! このままじゃ……!
「やめろおおおーーー!!!」
私は影の中に飛び込み、早苗を守るように覆いかぶさる。触れることはできないけれど、少しでも影と早苗を密着させたくなかった。
「あぐうあ!? うああああ!」
その時、私の体が震えだす。全身から少しずつ力が抜けていくような感覚を覚える。
影の怪物に精力を吸われているみたいに、どんどん体から力が抜けていく。
「愛里ちゃん! だめ、どけて! 憑り殺されちゃう!」
早苗が悲痛な叫び声を上げる。が、私はどけない。ここでどけてしまえば、私は親友を見殺しにしてしまうことになる。
どけるわけにはいかない。絶対に。
「うあ……ああぁ……!」
「愛里ちゃん! 愛里ちゃん! 誰か助けて、お願い、誰かあああああ!!!」
悲痛な叫び声。しかし、幽霊の叫び声が誰かに届くわけもなく、そのまま私の意識は落ちていく。ああ、死ぬのかな私。せめて、影の怪物が私の命を食べて、それで満足してどこかに行ってくれればな……。早苗だけでも、助かってくれればな……。
そして私はそのまま眠るように意識を手放した。