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Episode 3-4

 しばらく廊下に佇んでいたミシェルは、遠慮がちに扉をノックした。

「――はい」

 扉越しのためか少々くぐもった返事がした。

 こちらに近づいてくる気配がして、白と黒のコントラストがはっきりとしたものが、そっと開かれた扉の隙間から見えた。

 クリストフはミシェルの姿を認めて、不思議そうな顔をする。

「どうしましたか?」

 ミシェルはいつになく緊張した面持ちである。

 屋敷へ来て数ヶ月が経過したが、クリストフの部屋を訪ねるのはこれが初めてだった。屋敷の主人が使用人の元へ訪れるのは好ましくないと教えられていたためだ。

 クリストフの背後にちらりと見える彼の部屋は、家具があまり見受けられず、殺風景なように感じた。物を置くのは好きではないのか、使用人の部屋だからなのか、与えられた〝主人の部屋〟とは段違いだ。

「えっと、ね」

 言いよどむミシェルを急かすことなく、クリストフは黙って待っている。

「お礼の料理ができたから、少し休憩しないかなって思ったの。時間は大丈夫?」

「本当ですか」

 やや掠れ気味の声は、気温の低い外にいたからだろうか。

 ミシェルは顔を曇らせる。

 いくら魔物でも寒さには強くないのかもしれない。

「では、わたしは紅茶を……」

「だめ!」

 言いかけた彼の言葉を遮るように、ミシェルは声をあげた。

 それに驚いたクリストフは、丸い目をさらに丸くする。

「紅茶も私が淹れるの!」

 言ってから、ミシェルははっと気がつく。大声を出すのはここでは初めてかもしれない。

 恥ずかしさを誤魔化すためにひとつ咳払いをして、

「……クリスのためのおもてなしなんだから」

 視線を逸らし告げるミシェルの目元は赤く染まっている。

「……」

 クリストフはぐっと喉を鳴らした。ぎこちない動きで一歩後ろへ下がる。

「では、準備をして下へ降りますね。少々部屋を散らかしましたので、片付けます」

 にこりと笑うクリストフに、ミシェルも表情を和らげた。

「うん。私も準備しながら待ってるね」

 それから一言二言、言葉を交わし、ミシェルはクリストフと別れる。彼女の足音は心なしか軽い。

「……良かったぁ」

 階段に近づいた辺りで誰ともなしに囁いた。

 平常心を装って――少なくともミシェルは――うかがいをたててみたものの、心の中で冷や冷やしていたのだ。

 仕事熱心な彼のことだ。「紅茶も私が」と言ってクリストフの仕事を取るようなまねをしてしまっては、彼の機嫌を損ねてしまうのではないか……そんな思いが胸をよぎっていた。でもそれは思い過ごしだったようだ。

 ミシェルは軽やかな足取りのまま階段を下りると、まっすぐにとある部屋へと向かった。

 いつも自身が食事をする広間だ。

 本当は薔薇園の一角で優雅なティータイムにしたかったのだが、外はあいにくの大雪。

 雪は止んでいるが、氷の壁とも言えるものがいまだに屋敷を取り囲むようにそびえ立っている。これでは寒くて薔薇園にたどり着く前に凍えてしまう。第一、玄関も半分塞がれているようなもので、外に出ることも叶わない。

 でも、これももう少しだ。

「よしっ」

 閉められた扉の前で、ミシェルは気合を入れるかのごとく声を出す。

 広間へ足を踏み入れると、そこにいた小さな影たちが揃ってこちらを向いた。テーブルの上には銀色の食器やティーカップがいる。みな、ミシェルを待っていたらしい。

「お茶会のお手伝い……お願いできるかな?」

 クリストフへ会いに行く前に軽くお願いはしていた。

 食器たちは、それぞれ頷くように身を震わせると「それが私たちの仕事ですから!」と言わんばかりに揃ってお辞儀をする。それから一斉に動き出した。それぞれの持ち場に向かったようだ。

 その様子を見て、ミシェルも慌てて準備をする。もたもたしていたらクリストフが下りてきてしまう。

 ミシェルは小走りにキッチンへと移動した。

 先ほど作ったプディングは馴染んでいるようだ。少しだけ温めるために、ミシェルはプディングをもう一度窯の中へと入れる。焦げてしまわないように注意して、手前に置いた。

 少しして、プディングは小さい音を立てはじめた。プディング型の端からジュウジュウと熱い空気が洩れている。

 次はお湯だ。

 頭の中で叫び、ミシェルは伸ばした手を宙で止めた。水のたっぷり入ったやかんは、すでに火にかかっていた。

 驚いたミシェルはしばし動くことを忘れた。瞬きを数回繰り返し、そっと手を下ろす。

「ありがとう」

 まだ水は沸騰していないのに、蓋がカタカタと音をたてた。

 自分がお願いしたのだから、仕事のプロフェッショナルが先回りしていてもおかしくはない。

 それじゃあ、私はティーカップの準備してこよう。

 ミシェルは食器棚の前で考えこむ仕草をした。上から下、右から左へ視線を動かしていく。どの絵柄が好ましいのか見極めるのも、客をもてなす主人の役目であると、何かで読んだのを思い出したのだ。

 そしてミシェルはある一ヶ所で目を止めた。

 このカップはどうだろう?

 白地に青い小花の柄が施されているそれを、まじまじと見つめる。

 普段主に使っているティーカップだ。客人用もあるので、五セットずつある。

 手を伸ばしかけ迷っていると、視界の隅に動く影が見えた。

 ミシェルは何事かとそちらに目をやる。

 青を基調としたティーカップが身を震わせていた。外側は目が覚めるほどの青色だが、内側は真っ白だ。

 ミシェルはそっとそれを手に取った。

 金色の線が引かれている、シンプルだが上品なティーカップだ。内側に金色で薔薇の模様がひとつ描かれている。

「クリスが好んでいるのって、これなの?」

 訊ねるように呟くと、手の中のカップが小刻みに動いた。

 ――これは肯定なのか否なのか……。

 判断がつかずミシェルは苦笑いする。

 少し迷ってから対のソーサーを手に取る。今度は何も起きなかった。クリストフが好きな食器と考えてもいいのだろう。

 落とさないよう慎重に、ミシェルはカップとソーサーを運ぶ。

 クリストフがいつも使用しているワゴンの前で、ミシェルは再度うーんと唸った。

「たしか、こう……だったかな」

 ああでもない、こうでもないと呟きながら配置を変えていく。

 完璧とはいかなくても、それに近い程度には体裁を整えたかった。彼はどこに何を置いていたか、記憶をたどるためにミシェルの眉間には皺がよっている。

 そっと配置してみると、それまで微動だにしなかった食器がひとりでに動き出した。

 ティーカップがくるんと半回転した。その様子はソーサーの上に腰を下ろす貴人のように優雅だ。

「そっか」

 ミシェルは納得して声を洩らした。

 薔薇の模様が正面にくる。こうすると絵柄が客人に見えるようになる。

 思い起こせば、ワンポイントの柄のティーカップをセットするとき、クリストフは柄が見えるようにしていた。毎日同じカップを使用していたわけでもない。彼は紅茶の種類、もしくはお茶菓子によって都度ピッタリなものを選んでくれていたのだ。

「何回かあったはずなのに、忘れちゃうものなのね」

 感心して、忘れないようにと心に刻み込む。いつかまた役立つときがあるだろう。

 そうこうしているうちに、背後から蒸気が噴き出してくる音が聞こえてきた。

 人差し指を眉間にあて考えこむ。唇がわずかに動いているが、声を発していないので周りにいる食器たちには見当もつかない。

 やがてミシェルは紅茶の缶を手にした。

 ――ゆっくりやれば大丈夫。

 頭の中で教わった段取りを復唱しながら、沸騰したやかんを手に取る。ことさら慎重に、ミシェルは紅茶の用意をしていく。

 最高に素敵なお茶会になればいい。

 そんなことを思いながら。



 早鐘を打つ心臓をなだめ、ミシェルは一点に集中する。彼女の視線の先にはクリストフがいる。

 給仕したばかりのメイドのように、座っているクリストフの横に立ち、ミシェルは事の成り行きを見守っていた。

 クリストフは蹄で器用にティーカップを持ち、口に運ぶ。

 ミシェルは呼吸を忘れるほどの長い時間が過ぎた気がした。

 普段なら「どんな仕掛けなんだろう?」と疑問に思い、少しでも見逃さないように手元に注目しているのだが、今日は違った。

 注目しているのは彼の口元、表情だ。

 クリストフが紅茶をひとくち口に含む。ほぼ同時にミシェルは息をのんだ。

 つぶらな黒い目が、ひと回り大きくなったのを見逃さない。

「ど……う……?」

 訊ねる声は掠れ気味だ。喉がからからに乾いていて、うまく話せないのだ。

 クリストフが何も言わないので、ミシェルの心は不安でいっぱいだ。

 左手で右の腕を掴む。こうしていないと全身が震えてしまいそうだった。それだけでは足らず唇をかみ、目も固く瞑る。

「おいしいですよ」

 ミシェルはバッと伏せがちだった顔をあげた。

「本当?」

「えぇ」

 やさしい眼差しと視線が絡んだ。強張っていたミシェルの表情は、みるみるうちに崩れていく。

「……どこかで紅茶の淹れ方を習ったのですか?」

「うん。あまり時間は取れなかったんだけど、必死に覚えたの」

 我ながらよくやった、とミシェルは心の中で自画自賛する。

 ほぼ一回しか練習できなかった。〝彼〟が消えるほんの短い時間で紅茶を淹れるときの注意点を教えてもらい、必死に頭に叩きこんだ。

 お世辞ももちろんあるだろうが、仕事熱心な執事を驚かすことができた。これほど嬉しいことはない。

「……」

「クリス?」

 クリスは俯き加減だ。カップを置いて、ミシェルの呼びかけにも答えない。

「クリス?」

 心配になってふたたび名を呼ぶ。

「薬草か何か持ってくる?」

「いえ」

 今度は返事があった。

 ミシェルを仰ぎ見て、クリストフはにっこりと笑った。

「柄にもなく感傷に浸ってしまいました」

 笑みを浮かべているが、瞳にはどことなく寂しい色が浮かんでいる。

「短時間でこれだけ美味しい紅茶を淹れられるなんて、ミシェルは凄いですね」

「そんなことない」

 頬を赤く染めて、ミシェルは首を横に振る。

「おかわりを求められても、たぶん無理よ。これを失敗したら、もう二度とクリスに紅茶を淹れるチャンスはないんだって思って……」

 自分を追いこんだからできたのだ。何度も機会があったとしたら、こうも上手くはいかなかったはずだ。

 ミシェルは照れ笑いをする。

 ――と、膝に力が入らなくなり、ミシェルはへなへなとその場に座りこんでしまった。

 驚いたのはクリストフだ。何が起こったのかわからず思考が止まってしまったのか、一瞬動くことすらも忘れてしまったようだ。

 慌てて椅子をおり、彼女の手を取る。ひんやりとした感触が伝わってきて、クリストフは顔をしかめた。

「ほっとしたら気が抜けちゃった……」

 恥ずかしそうに笑うミシェルを隣の椅子に座らせると、クリストフは急ぎ足でどこかへと消えた。

 やがて戻ってきた彼の手にはティーカップがあった。ミシェルの目前に置き、今度はポットに手を伸ばす。先ほど自分が振舞われていた紅茶を注ぎこんだ。

「あなたが私のために淹れてくださった紅茶ですが……ひとまず温まってください」

「うん」

 ミシェルは頷き、震える手で紅茶をこぼさぬようにしながら口へと運んだ。温かい液体が喉を通っていき、熱が全身にいきたわる感覚に安堵の息をつく。

 少しして、ミシェルは眉尻を下げた。

「……やっぱり、味が違う」

 深みが違うというのだろうか

 紅茶特有の色、味、香り。すべてが薄い気がするのだ。いつも飲んでいた紅茶のような、柔らかな甘みも、その中に少しだけ感じる渋みもない。

「そんなことはありませんよ」

 落胆しているミシェルに、クリストフは微笑みかける。

「たしかに、当屋敷の執事を務めている者としては合格点はあげられません。……しかし――」

 がらりと口調を変えて囁いた。

「ミシェルの心がきちんと伝わってきました。だからこの紅茶は、わたしにとってこの上なく幸せな、大切な大切な一杯です」

「――!」

 ミシェルは急に恥ずかしくなって視線を外した。

 頬も全身も熱くなっているのがわかる。決して先ほど飲んだ紅茶のせいではない。

「そ、そんなに褒めても、もう何もないんだからねっ」

 動揺が声に出てしまった。気づいたミシェルはさらに顔を赤くする。

「それは残念です」

 しれっと言うクリストフの態度に少々悔しさを感じるものの、何も言い返せずに押し黙るしかなかった。

「……彼と、会ったのですか?」

 ぽつりと呟いたクリストフの言葉に、ミシェルは弾かれたように顔を上げた。

 クリストフはこちらを向いていなかった。窓の方を見ている。雪に反射した陽の光がわずかに差しこんでいるが、他には何も見えない。表情を見られたくないのかもしれない。

「うん。会ったって言うと、ちょっと違う気もするんだけど」

 そう告げると、クリストフは怪訝な顔をする。

「詳しくないからよくわからないんだけど……魔術に制限があるとかで、名前を聞くことも駄目だって」

 一度だけ会った〝彼〟のことを思い出し、言葉を選んでいく。

 制限と言われてもよくわからないけれども、後々問題が起きてしまっては大変だ。

「地下の彼の部屋に呼ばれて、そこで色々話したの」

「地下に……ですか?」

 クリストフがぽかんとしている。当然だろう。

「うん」

 ミシェルは恥ずかしさを誤魔化すようにはにかんでみせた。

 禁止はされていなかったが、クリストフに「女性には少々厳しい物が……」と忠告されていた。ミシェルも知らなくて済むのなら幸いと、地下には一歩も寄りつかないことにしていたのだ。なのに、呼ばれたからと自ら進んで近づいた。

 もっとも、突然現れた〝幽霊さん〟に驚いて大声をあげそうになったのだが……これは内緒だ。

「それでね、彼に言われたんだけど……」

 語気が徐々に消えていく。とうとうミシェルは口を噤んでしまった。

 どう伝えたらいいのかわからなくなってしまったのだ。

 クリストフはそんなミシェルを急かすことなく、笑みを浮かべて待っている。

「……」

 ミシェルの心がちくりとする。

 いくら言葉を繕っても、結局は己のために伝えるようなもので、罪悪感が胸をよぎる。クリストフに幸せになってほしい、という気持ちに嘘はないのにだ。

 私も幸せになりたい。クリストフにも後悔ないようにしてほしい。

「ミシェル?」

 かけられた優しい声に勇気づけられた気がした。

 ミシェルは真っ直ぐにクリストフを見て口を開く。

「いい言葉が思いつかないから、単刀直入に言わせてもらうね」

「えぇ。それは構いませんが……なんでしょう」

 不可解な面持ちで訊ねるクリストフは、ミシェルが何を考え伝えたいのか、今もわかっていない様子だ。しかし真面目な話だと気づいているらしく、笑みは絶やさぬものの目は真剣そのものだ。

「私ね、家に帰りたい」

 クリストフは瞼を半分閉じた。

 ミシェルの声以外、部屋の中はしんと静まり返っていた。食器たちも身動きひとつせずに見守っている。

「それで、家に帰る条件って思い出して」

「……それは特に決めてはいなかったと思いますが」

 クリストフが口をはさむ。

「でも同じようなものじゃない? 最近ちょっと忘れちゃってたけど。帰ってもいいって言われても、そのままのクリスを残していくのは申し訳ないし」

 ミシェルは困ったように眉尻を下げて笑った。

 この屋敷へ来た理由。それは元々父親の不始末を詫びるためだ。赤い薔薇を盗もうとした父親を良しとせず、屋敷の住人は代償を求めた。

 たった一本、されど一本。

 言い分はもっともだと思ったミシェルは、自ら進んでこの屋敷へ来た。化け物の屋敷と噂されるここへ。

 屋敷は事実と異なる部分もあり、思っていた以上に楽しい生活を送っていたのだが――家に帰りたい気持ちは消えるはずがない。

「だって、薔薇ってクリスのためのものでしょう?」

 満月の前後三日間以外、羊の姿になってしまう呪いをかけられてしまったクリストフのために、前の主人が植えたのだと、屋敷で暮らすようになって少ししてから本人クリスの口から告げられた。

 吸血鬼には欠かせない生血の代わりに花の生気を得るために。

「クリスを元に戻したら私を家に帰してもらうって明確な約束はしていないけれど、クリスが屋敷を出る理由にはなるかなって」

「それは……」

「でね」

 申し訳ないと思いつつもミシェルはクリストフの言葉を遮った。

「彼が言うには、クリストフにかけられた呪いはもう解けているはずだって。『だからもう、きみは気にせず屋敷の扉を開けて、好きなところへ行きなさい』」

 クリストフは目を瞠った。ミシェルの声なのに、彼女のものではないように聞こえたからだ。――最後の言葉のみ、記憶の中で生き続ける男のものであった。

 クリストフが何かを口ずさんだ。それはミシェルの耳には届かなかったが、予想はできた。

 おそらく前主人の名前だろう。

「これもね、魔法の名残りっていうのかな。最後に言ってあげられなかった言葉を伝えたいから、その魔法を私にかけたの」

 魔術は万能ではない。必ずどこかに穴がある。

 喋る機能を持たない物質は、いくら素晴らしい魔法をかけても話すことはできない。この屋敷の食器や家具が人語を話せないのはこのためだ。

 そのかわり、作り物でも動物でも声を出す機能さえあれば、術者が望んだ言葉を発せられる。

「でも、耳がないのに私の言葉を理解するのはなんでって思うんだけど……って違うっ」

 急に大声を出してしまい、ミシェルは顔を赤くする。それから恥ずかしさを誤魔化すようにはにかむ。

 訊ねれば、クリストフも知っていそうではあったのだが、このままでは話がいつまでも終わらない。

 横に座るクリストフを見ると、彼はいつになく神妙な様子だった。

「クリス?」

 微動だもせず、心配して恐る恐る声をかける。ミシェルの声は聞こえてはいるようだが反応がない。

「クリス?」

 もう一度問いかける。ミシェルは肩に触れようとして、そろりと手を伸ばした。

「――?! きゃあっ」

 ぽん、と軽快な音とともに白い煙があがった。途端に視界が真っ白に覆われてしまい、ミシェルは驚いて立ち上がる。

 その拍子に椅子が倒れて音をたてた。しかしこの部屋は絨毯が敷き詰められているため、さほど大きな音はしない。

 クリストフはその状況が気にならないのか、動かない。煙は彼を中心に纏わりついている。

 やがて、白煙は跡形もなく消え去った。まるで初めからそこには何もなかった、というように。

「え……え……」

 ミシェルは何か言おうとするものの、意味をなさない音しか発せられなかった。

 漂っていた白煙が失せたあと、そこに座っていたはずの羊の姿はなかった。

 代わりに。

「これは一体……」

 自身の手を穴が開くほど見て呟くその姿は、人の形をしている。

 金の髪がさらりと揺れた。男が首を傾げるようにしたのだ。彼の顔に困惑した表情が表れた。

「今って、満月は遠いよね?」

 昨晩の空を思い出してミシェルは言った。どちらかというと新月に近い。

 彼にかけられた魔女の呪いは、月の影響が色濃く出る満月の前後三日間のみ弱まる。そのため、その間だけクリストフは元の姿に戻る。

 影響の弱い今、こうなったということは――。

「呪いが消えた……?」

 ミシェルの顔がわずかに綻んだ。

「いえ」

 否定するクリストフは神妙な面持ちで自身の手を握ったり開いたりしている。

「まだ不安定のようです。身体が熱いようなだるいような、そのような感じはありますが……ですが」

 一旦言葉を切って、クリストフは笑みをこぼす。

「ミシェルとあの方のおかげですね」

 向けられる笑顔が眩しく感じられて、ミシェルは思わず視線を外す。

 あぁ、彼は変に思っているかもしれない。何か話題はないものか――。

 ふと思いついてミシェルは顔を戻し、

「本人と少し違う存在でも、彼に会ってみたかった?」

 訊ねると、クリストフの眉間に皺がよった――気がした。

「寂しくないと言えば嘘になりますが……会ったら会ったで、むかつきそうな気もしますので。これでよかったんでしょう」

「そ、そうなんだ?」

 さらりと告げられた内容に返す言葉も見つからず、ミシェルは曖昧に頷いた。

「あっそうそう!」

 わざとらしく声をあげ、ポケットから一枚の紙を取り出す。

 一見、何も書かれていない。

「直接話はできないけれど、一言手紙を残すことなら問題ないからって」

 差し出されたそれを受け取り、クリストフはカードに目を通す。メッセージを伝えたい相手にしか読めないようだ。

 次の瞬間、カードがぐしゃりと音をたてた。クリストフが握り潰したらしい。

「クリス……?」

 どんなメッセージだったのか、聞きたい気持ちはあった。しかしミシェルはただならぬ雰囲気を感じとってしまい、それ以上訊ねることはできなかった。

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