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第1章 濡れた係留柱 - 第3節 消えた配送人

 若い女は、レオンがさっき向きを変えた椅子の端に、背中を預けきれないまま腰を下ろした。


 年は二十三か四。濡れた防水外套の下に、仕事着の襟が少し歪んでいる。細い指の節は赤く荒れ、親指の付け根には荷紐が食い込んだ薄い硬皮があった。帳場のインク染みと荷役の擦れが、同じ手に乗っている。泣き崩れるより先に、なくした数を合わせに来る種類の人間だと、クロエは一目でわかった。


 クロエは湯気の立つ茶を彼女の前に置き、なるべく事務的に見えない声で言った。


「お名前を」


 女は帽子の縁を握ったまま答えた。


「マラ・ヴェインです」


「ご相談はの内容は?どうされたんですか」


「弟です。トマ……トマ・ヴェイン。昨夜から戻っていません」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 セスは自席で手を止めて顔を上げ、レオンは窓際から体の向きを戻した。だが前へ出たのはやはりクロエだった。人が“事件”になる前の、いちばん柔らかいところを受け止めるのは彼女の役目だ。


「警察には、もう届けましたか」


 クロエがそう聞くと、マラはすぐには首を振れなかった。言いにくさが先に来る沈黙だった。


「配送詰所の親方が……昼まで待てって。若い配送人が一晩戻らないくらいで騒ぐな、って。戻ればそれでいいし、戻らなければ飛んだだけだって」


 レオンの眉がわずかに動く。セスは表情を変えない。

 クロエは小さく息を吐いた。待て、という言葉で間に合わなくなった案件を、彼女は書類の上で何度も見てきた。だからその一言が、いつも嫌いだった。


「わかりました」とクロエは言った。「先に一つだけ。私たちは警察じゃありません。逮捕も強制もできません。でも、正式な届が回る前に、人や証拠が消える案件には先に動けます。特認調査士って、そういう仕事です」


 マラはようやくクロエを見た。

 不安より先に、助かるかどうかを計算しようとする目だった。


「弟さんのことを、順に教えてください」


 マラは茶に触れず、膝の上で両手を組み直した。


「歳は19で、小柄で……でも足は速くて。黒い髪で、前髪がいつも片方だけ跳ねるんです。笑うと右の犬歯が見える。子どもっぽく見えるぶん、年上には軽く使われがちですけど、仕事は真面目です。荷を落としたこともないし、受け取り印をなくしたこともない」


 語るうちに、彼女の声の芯が少し戻る。

 誰かを探す時、人はよく顔から先に言葉にする。いなくなった人間を、この場へ置き直すためだ。


「昨日は通常便が夕方で終わって、夜は帰るはずでした」とマラは続けた。「でも、差し込みの便が一つ入ったんです。短い距離だって。すぐ戻るからって、トマが引き受けた」


「誰から入った便です?」とクロエが問う。


 マラは口を閉じた。


 その沈黙に、レオンが先に気づいた。

 彼は窓辺にもたれていた姿勢を解き、長机の角へ腰を預ける。威圧しすぎない位置取りだった。


「先に聞く」とレオンは言った。「弟さん、飛ぶなら何を持っていく」


 マラが瞬く。


「……え?」


「金か、部屋の鍵か、仕事札だ。若い走り手はだいたいそこから抜く。何を置いていった」


 マラはすぐに答えた。


「賃金袋と、部屋の鍵と……朝のパン券も、そのままでした」


 レオンはそれだけで半分ほど結論を出した顔になった。


「家出じゃないな」とレオンが低く言った。

「少なくとも計画的な逃走ではない。予定が途中で切られてる」とセスが補う。


 クロエはその結論だけ受け取り、視線をマラへ戻した。


「続けます」とクロエが言うと、マラはかすかにうなずいた。


「今朝、配送詰所へ行ったら……トマの配達鞄だけ返ってたんです」と彼女は言った。「返却棚に、ちゃんと掛けてあって。誰が戻したかは、誰も見てないって」


 その時、マラは足元に置いていた油引きの布鞄を持ち上げた。

 中から出てきたのは、使い込まれた肩掛けの配達鞄だった。安物の防水布でできた、街の小口配送人なら誰でも持っていそうな代物だ。だが片側の留め具に、切れた札がひとつ噛んでいる。


「親方は、トマが捨てずに返してから飛んだんだろうって」とマラは言った。「そんなこと、あの子はしません」


「当然だ」とレオンが低く言う。「飛ぶなら戻し方が綺麗すぎる」


 マラが目を上げると、レオンは顎で配達鞄を示した。


「逃げる奴は会社の鞄を律儀に返却棚へ掛けない。まして札の切れ端つきでな。昨夜のうちに、誰かが配達鞄だけ配送詰所へ戻したんだ」


「つまり」とクロエは言った。「トマさんが自分で返して消えたように、誰かが見せたんですね」


 セスはそこで初めて椅子を引いた。

 長い指で鞄を受け取ると、まず外側を見た。泥。水の輪染み。革の擦れ。次に留め具へ噛んだ紙片を、壊さないように摘む。


「荷札だね」と彼は言った。


 マラの顔に説明を待つ色が浮かぶ。

 クロエがその表情を見て、短く補った。


「荷物に結ぶ札です。宛先と中継の印が入る、配送用の控えみたいなものです」


 セスはうなずき、紙片を窓の光へかざした。


「この青い線が簡易認証。張り替えや差し替えをすると、線が真っ直ぐ抜けなくなる」


 紙の端には、たしかに細い青の筋が走っていた。だが途中でかすれ、また別の角度でつながっている。紙の上には、最初に通された穴のほかに、もう一組、小さな刺し穴が残っていた。


「一度結んで、剥がして、もう一度つけてる」とセスは言う。「行き先を変えたか、荷そのものを差し替えたか」


 レオンが腕を組む。


「差し込み便のわりに、ずいぶん面倒なことしてるな」


「差し込み便だからだよ」とセスは訂正した。「表の帳場を通さない荷ほど、あとで辻褄だけは整えたがる」


 マラの喉が小さく鳴った。

 その反応を、レオンは見逃さなかった。


「やっぱりだ」とレオンが言う。「隠してるのは弟のことじゃない。最後の荷の出どころだろ」


 クロエは言葉を柔らかくするが、逃がしはしない。


「マラさん。帳簿に載っていない便でも、今は関係ありません。弟さんの命に関わるなら、先に聞く必要があります」


 マラは帽子の縁を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 やがて観念したように、薄く息を吐く。


「配送詰所に出入りする仲介の男がいます」と彼女は言った。「正規の便じゃなくて、余った走り手に短い現金仕事を回す人です。昨夜の荷も、その男から来ました。親方は帳場に載せなかった。すぐ終わる水際の受け渡しだって」


「水際」と、レオンが繰り返す。


「石段のある方だって……トマが言ってました。渡して、受け取り印だけもらえば終わるって」


 そこまで聞いて、セスが今度は鞄の中へ手を入れた。出てきたのは片方だけの手袋と、配送人用の細い筆記具、それから小さな受領板。手袋の甲は乾いているのに、指先だけが黒く固まっている。


 セスは手袋を鼻先へ寄せ、ほんの少し眉を寄せた。


「雨じゃない」


 レオンが訊く。


「何が」


「紙の波打ち方も、手袋の汚れ方もだよ」とセスは答えた。「雨なら全体が湿る。これは片側だけ、下から吸ってる。濡れた木に当てた時の湿りだ。それに――」


 彼は手袋の指先を親指でこすった。黒い粒が、爪先にわずかに残る。


「古い鉄と油と、麻綱の脂がある。港の塩じゃない。運河沿いの匂いだ」


 クロエがマラに向き直る。


「運河って、ラザロの方ですか」


 マラはすぐうなずいた。


「たぶん……配送詰所から近い石段は、そっちです」


 セスは切れた荷札を机へ置き、指先で二つの刺し穴をなぞった。


「しかも戸口配達じゃない。水辺で人から人へ渡す中継便だ。この穴の間隔、普通の小口札より広い。急ごしらえの紐じゃなく、太い結束に通してる」


「船の綱か」とレオンが言う。


「そこまでは断定しない」とセスは言った。「でも、荷を持って歩く仕事より、荷を引き渡す仕事に近い。物流の匂いが強すぎる」


 レオンは窓の外を一度見た。

 高架の向こうから、通りの車輪音が途切れ途切れに上がってくる。


「今朝の通りも静かすぎた」と彼は低く言った。「走り手が一人消えた朝の静けさじゃない。知ってる奴だけが口をつぐんだ朝の静けさだ」


 マラの顔が青ざめる。


「じゃあ、トマは――」


「まだ決めるのは早いです」とクロエが遮った。

 その言葉には、希望を安売りしない種類の強さがあった。


 彼女は依頼票を自分の前へ引き寄せる。紙を置く音で、部屋の空気がまた一段階変わった。相談が、案件になる音だった。


「受任範囲を確認します」とクロエは言う。「依頼対象は、トマ・ヴェインさんの所在確認と初動保護。それに付随する証拠保全。荷物そのものの権利争いまでは、今は受けません。優先するのは弟さんです。それでいいですか」


 マラは即座にうなずいた。


「はい。荷はどうでもいいんです。弟を――トマを連れ戻してほしい」


 クロエはその言葉をそのまま紙に落とした。

 余計な美辞も、勝手な要約も入れない。依頼人が何を求めているかを、後で誰にもねじ曲げられない形にする。そういう書き方だった。


「最後に、もう一つだけ」とクロエが言う。「今から先は、隠しごとはしないでください。帳簿外の便でも、違法すれすれでも、順番さえわかればこちらで扱えます。でも隠されると、踏み込む場所を間違えます」


 マラは震える指で署名した。

 その筆跡は少し歪んだが、途中で止まらなかった。


 クロエは依頼票の控えを切り離し、配達鞄は証拠袋へ、荷札は小型の証拠封筒へ移した。切れた紙片にはまだわずかに湿りが残っている。彼女は小さな固定具で札を留め、痕跡が散らないように封をした。


 レオンがそれを見て、コートを肩にかけた。


「行くなら裏からが早い」


 セスは荷札の封筒を受け取り、短くうなずいた。


 クロエは証拠袋をまとめ、立ち上がった。


「マラさんはここか、一階のブルー・ケトルで待っていてください。何かわかったら、最初に戻します。もし親方か仲介の男が探りに来ても、勝手に話さないで」


「はい」


「それから」とクロエは少しだけ声を和らげた。「弟さんの顔、覚えました。連れて帰る前提で動きます」


 マラはその時初めて、茶に手を伸ばした。

 冷めかけたカップを両手で包む指が、少しだけほどける。


 クロエが主執務室の壁地図へ目をやると、ラザロ運河の青い線が朝の薄明かりを受けて鈍く光っていた。

 セスの視線も、レオンの視線も、同じ場所に止まる。


 若い配送人が一晩で消えた。

 それだけなら、この街では珍しくない。


 だが、きれいに戻された配達鞄。

 張り替えられた荷札。

 言葉より先に口をつぐむ街の朝。


 その失踪は、ようやく一つの形を持ち始めていた。


 向かう先は、ラザロ運河側だった。

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