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第1章 濡れた係留柱 - 第2節 石畳の生活圏

 一階へ降りるにつれて、煮込みと茶葉の匂いが強くなった。封緘紙と茶葉の買い出しは、クロエにとって街区の体温を確かめる短い巡回でもある。

 ローク商館の階段は古く、誰が上がってもそれなりに鳴るが、朝のこの時間だけは下から上がってくる生活の音の方が強い。皿の触れ合う音。鍋蓋のずれる音。通りの石畳を細い車輪が跳ねる音。クロエは手すりに触れながら、事務所の扉を閉めたばかりなのに、すでに街の中へ戻されていく感じを覚えた。


 一階の《ブルー・ケトル》は、扉を開けた時点で、誰がどんな朝を迎えているかが大体わかる店だった。


 港へ出る前の男たちが急いでパンを齧っている。夜勤明けらしい女が、眠そうな目で濃い茶を両手に包んでいる。帳簿鞄を膝に立てたままスープを啜る事務屋もいる。誰も長居をする顔ではないのに、店の中には不思議とせかせかした感じがなかった。腹に何か入れないと仕事にならない人間たちが、ほんの少しだけ同じ熱の中に置かれている。


 カウンターの向こうのハキム・ダルジは四十代半ば。大柄ではないが、鍋と客と皿を一目で捌く動きに、店の広さ以上の安定感がある。火の前に長く立つ人間の粘り強さと、客の嘘まで見抜きそうな目つきだけで、この店の主だとわかった。


 三人の姿を見つけると、ハキムは挨拶より先に仕事をした。

 クロエの前には少し甘い茶。セスの前には、問答無用で皿に乗せられた焼きたてのパン。レオンの前には、縁の欠けた厚手のカップが置かれる。


「扱いに差があるな」とレオンが言った。


 ハキムは鍋をかき混ぜたまま、ちらりとだけ彼を見た。


「ある。嬢ちゃんは朝から働く顔だ。そっちの長いのは何も食わずに理屈を始める顔だ。お前は熱いのを持っても平気な顔だ」


 セスがパンの皿を見下ろして、眼鏡の奥で少しだけ眉を上げる。


「人間観察が雑だな」


「雑で回る店だからな。まず食え」


 セスが何か言い返す前に、クロエは茶を一口飲んだ。甘みが舌に乗る。ハキムが黙って砂糖を多めにする朝は、たいてい忙しくなる。


 そのまま店主は、こちらにだけ聞こえる程度の声で言った。


「今朝の港側は妙に静かだ」


 クロエがカップを持ったまま目を上げる。

 レオンも、ふざけた顔を少しだけ引っ込めた。


「静かってのは、どういう静かだ?」とレオンが聞く。


 ハキムは肩をすくめた。


「荷車の音があるべきとこで、半拍空く。そういう静けさだ」


 曖昧なようでいて、街の人間には十分な言い方だった。

 この街では、妙なことはいつも、先に音の方で起きる。


 セスがパンをちぎりながら口を開く。


「統計的には、騒がしい異常より静かな異常の方が後で面倒になる確率が――」


「先に食ってから、面倒事について考えろ」


 ハキムに切られ、セスは不本意そうに黙った。店の中では長い言葉が少し浮く。それを三人ともわかっているから、朝食はすぐに片づいた。


 会計を済ませるクロエに、ハキムは紙袋を一つ寄越した。中には三人分の持ち帰り用にちょうどいい、焼きたてのパンが入っていた。


「上でつまむ分だけだ。昼にはなくなる」


「助かります」とクロエが言うと、ハキムはもう次の客の皿へ向いていた。


「礼はいい。上の部屋が空っぽだと、この建物まで腹が減る」


 ブルー・ケトルを出ると、通りの湿り気がまだ石の目に残っていた。

 向かいの《ノーレン印書堂》では、ちょうど看板が表へ返されるところだった。


 店の中は、外の湿った朝と違って乾いている。紙とインクと糊の匂いが、喉の奥を少しだけ引き締めた。壁際には活字棚、奥には認証用の印字装置、手前には各種の様式見本。一般人から見れば、ただの地味な書類屋だ。だが、クロエにとってはここが補給線だった。


 店主のティルダ・ノーレンは、三十代後半。髪をきっちり留め、指先にだけ薄いインクを残した女で、几帳面だが筋の通った抜け道には滅法強い。


 クロエが口を開くより先に、ティルダは棚の奥から封緘紙の束を出した。


「新版の方を取っておいたわ。昨日から照会様式が一箇所変わってる」


「どこですか?」


「依頼人同意の追記。古い方で出すと差し戻される」


 クロエの表情が少しだけ固くなる。

 たった一行だ。だが、この街では、その一行のせいで間に合う話が間に合わなくなることがある。


「ありがとうございます。危なかった」


「危ないのはいつもそちらよ」


 ティルダはそう言って、必要部数まできっちり揃えた紙束を差し出した。

 レオンが横から受け取ろうと手を出すと、彼女はほとんど反射でその手を避ける。


「触らないで」


 レオンが片眉を上げた。


「そこまで言うか」


「言うわよ。あなたが触ると、紙の方が先に傷む」


「俺を湿気か何かだと思ってるだろ」


「湿気はまだ乾かせるわ」


 セスが横で口を挟む。


「それは湿気に失礼だな」


 ティルダは一度も彼を見ないまま、即座に言い返した。


「あなたの筆跡にも同じことが言えるわ」


 クロエは思わず口元を押さえた。

 レオンは露骨に笑い、セスだけが心外そうな顔をする。


「不当な中傷だな」


「中傷なら、もっと感情を込めるわ」


 ティルダの言葉はきつい。けれど、クロエにはそれが不親切だとは思えなかった。

 紙一枚の雑さで救えるものが救えなくなることを、彼女は知っているのだ。


 店を出ると、隣の花屋がちょうど店先の水を替えていた。白い花と細い蝋燭が朝の光を受けている。待つための品がよく売れる街だと、クロエはそれだけで思い出した。そのまま立ち止まらず、角の雑貨屋で茶葉の小袋を二つ買い足した。


 ローク商館へ戻ると、玄関脇の計器箱の前にオデット・ロークが立っていた。

 六十代に入った痩せた女で、姿勢が異様にいい。派手さはない。だが、長年ずっと書類と責任を扱ってきた人間だけが持つ、無駄のない気配があった。質素な灰色の衣服、よく磨かれた靴、鍵束を持つ手の確かさ。大家というより、この建物そのものに意志があるなら、たぶんこういう顔をするだろうと思わせる。


 オデットはまずクロエを見た。


「家賃の確認は週明けでいいわ」


 それから、すぐにレオンへ視線を移す。


「その代わり、踊り場の手すりにこれ以上仕事を増やさないで」


「俺、今朝は何も壊してませんけど」


「“今朝は壊してない”で済むほど、昨日までがおとなしくないのよ、あなたは」


 レオンが反論しかけるより先に、オデットは話を切り替えた。


「若い女が一人、今朝から二回、うちの看板を見上げてるわ」


 クロエの表情が変わる。

 オデットはそれを確認してから、いつもの調子で続けた。


「二回とも二階の踊り場まで上がって、そこで戻った。安物の防水外套。濡れたままだったから、長く外を歩いてきたんでしょうね」


「何か言っていましたか?」とクロエが聞く。


「何も。そういう顔ではなかったもの」


 オデットは必要なことしか言わない。

 だからこそ、言葉の端に余計な飾りがない。


「来たら通しなさい、クロエ。追い返す類の迷い方じゃない。迷っていても、階段を上がる足に無駄がなかったもの」


 レオンが小さく笑う。


「よく見てるな、大家さん」


 オデットは肩をすくめた。


「見てないと、この建物は長持ちしないの」


 その時、表の通りで軽いベルが鳴った。


 次の瞬間には、自転車の細い車輪が石畳で短く滑り、建物の前に止まる。


 パックス・ニーヴだった。


 痩せぎすで、まだ少年っぽさが残っているのに、止まっている時より走っている時の方がよく似合う。帽子はいつも少し斜めで、肘や膝には転んだ跡が古いものから新しいものまで揃っている。目だけが妙に広い。通りの全部を一度に見ようとしているみたいに、忙しなく動く目だ。


 片足を地面につけたまま、パックスは包みを掲げた。


「クロエさん。頼まれてた来客用の焼き菓子、《ブルー・ケトル》から。ハキムさんが渡しとけって。割れてないやつ!」


 クロエが受け取ると、彼はもう半分次の用事へ向いている。

 それでも、言うべきことは落とさない。


「あ、それと。さっき、上の看板を気にしてた女の人が、やっと階段を上がってったよ」


 レオンが腕を組む。


「防水外套の?」


「そうそう」


 セスが考えるように言った。


「依頼意思の形成に時間を要する来訪者――」


 パックスは即座に顔をしかめた。


「難しい言葉禁止」


 レオンが吹き出し、クロエまで笑いを噛み殺す。

 セスだけが不満そうに眼鏡を直した。


「君たち、語彙に対する姿勢が粗暴すぎないか」


「街で通じない言葉は、街の情報にならないの」


 クロエがそう言うと、パックスは嬉しそうにうなずいた。

 それから彼は、もう一度ペダルへ足をかける。


「じゃ、上にいるかも。いたら、あんまり怖い顔しないでね」


「誰がだ」とレオンが言う。


「クロエ以外」


 言うだけ言って、パックスは細い路地の方へ走り去った。

 車輪の音が角を曲がって消える。


 誰も依頼人を連れてきたつもりはない。

 誰も事情を聞き出したつもりもない。

 それでも、ハキムの一言、ティルダの紙、オデットの記憶、パックスの車輪が、三階の扉へ辿り着くまでの道を、少しだけ平らにしていた。


 この街区の親切は、たいていそういう形をしている。

 大声では呼ばない。手も引かない。

 ただ、落ちる寸前のものが落ちきらない程度に、見えないところで受け止める。


 三人は階段を上がった。

 二階を過ぎ、三階の踊り場へ出た。


 角部屋の前に、若い女が立っていた。


 安物の防水外套は朝の湿りを吸って重く、片手では擦り切れた帽子の縁を握りつぶしかけている。何度も引き返した人間の立ち方だった。逃げる向きへ体が半分残っているのに、目だけは扉の真鍮板から離れない。眠れていないのだろう、まぶたの下が赤い。


 足音に気づいて振り向いた瞬間、その人は一歩だけ下がりかけた。

 だが、クロエが前へ出る方が早かった。


「ご相談ですか」


 女はすぐには答えなかった。

 喉の奥で言葉が渋滞しているみたいに、唇だけがかすかに動く。


 クロエは声を柔らかくした。


「大丈夫です。立ち話もなんですから中で話しましょう」

 と部屋の中に招き入れた。


 そこでようやく、女は小さくうなずいた。


 そのうなずき方は、助けを求めることそのものに、もうかなり疲れている人間のものだった。

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