00.prologue
妻がこの世を去り、三年目を迎えた。
仕事に行き、帰宅して食事と風呂を済ませ、布団に潜る繰り返し。
ただそれだけの三年間だった。
妻はもうこの世には存在しないというその事実を、しっかりと実感することさえままならず、ただ生きている。
笑顔さえ忘れたと言えるほど壊れたつもりもなかったが、ただ、友人や仕事の同僚と笑い合った直後、いつも胸に広がるのは、あまりにもつまらないと感じたコントに、審査員が大笑いしながら満点の評価を付けた状況を見ているような空虚さだった。
そうして今に至りふと、ああ、そうか、これは妻に会う前の自分なのだと悟る。
ただ元に戻っただけなのだな、と自嘲し、いつも通り夕食の食器を片付けるため立ち上がろうとした。
そこで異常に気が付いた。
脚に力が入らず立ち上がれない。
30そこらの年齢で、こんなに突然足腰が弱るとも思えない。
どうしたものか、健康診断では問題はなかったはずだが、何かの病気だろうか。
そう考えたところで、今度は心臓に冷たい釘を差し込んだような痛みを感じ、床に倒れ込んだ。
冷や汗が止まらず、呼吸がうまく出来ない。
まずい。
体に警備室があるのなら、真っ赤なランプが回転し、警報機がけたたましく鳴り響いている様な危機的状態において、しかし思考だけは妙に落ち着いていた。
あまりの激痛に思考が肉体から離れてしまったのか。
幽体離脱や臨死体験のように別の場所から自分を見ているのではなく、確かに心は肉体の中にあるのに、痛みも苦しみもなく、ただゆっくりとぼんやりと、もがく自分を内側から観察しているような感覚。
うぅむ、これは死ねるやつだろうか?
これで数分後元気になったとして、病院とか通いながら経過を看ていかないといけないのも面倒だし、中途半端に何かの後遺症が残って生き残るのも嫌だ。
というか何が原因だ?
悪いものでも食べたのだろうか。
生牡蠣みたいに中りやすいものもなければ、調理した食材は買って二日も経ってないし、偏った食生活でもなかったはずだ。わからん。
携帯はどこに置いたっけ、ああ、テーブルの上だ。
この状態からじゃ手は届かないし、救急車も呼べないな…はて、この状態はいつまで、続く…
視界が白く染まってきた。
死ぬとして、お迎えとかは来るのだろうか。
物語では光が上から降り注ぎ、羽の生えた赤子達に体をパトられるか、神を自称する何者かが転生どうのこうの言って、1人の人間に命ずるにはあまりにも面倒な役割を押し付けてくる頃合いだ。
第二の人生か…はは、嫌だ嫌だ、うんざりだ。
誰にでもいずれは死が訪れると思えば、仕方ないと諦められるし構わないが、別に自ら消えてしまいたいと思う程絶望してはいないし、なんなら消えたくはない。
どうせなら死ぬことで体から解放されて意識体のような存在になって、ネットの情報とか世界の行く末を見ながら、こいつらバカだなーってぼんやりポテチ食ってコーラ飲んでだらだらと…いや、完全に物理で体があるじゃねえかよそれは。
何飲み食いしてんだよ。
というか本題はそこじゃない。
ただまあ、もう人生なんて物は面倒なのだ。
私は今まで、自身の人生において自分が生きていく“動力源”を見いだせずにいた。
死にたい訳でもなく、かといって何のために生きたいと思えるものもない。
いや、訂正しよう。
今の私には“もう”それがない。
何かのために、誰かのために生きようと、生まれて初めてそう思えた存在が妻だった。
自分が生きていくことで妻が幸せを感じて生きていけると、そう思えることがただ嬉しかった。
それが、老人の弱々しい足で踏み抜かれた、車のアクセルペダル1つで呆気なく奪われた。
怒りはなかった。
ただただ、失った。
生きようとした己の活力も、その源も、素直に誰かと笑い合える心も、妻に渡そうと持っていたプレゼントも。
生きていれば面倒事は盛り沢山だ。
生きるためには稼がなければならないし、稼ぐためには働かなくてはならない。
仕事をすれば嫌な相手だろうと同じ空間に居続けて、なんなら会話をし続けなくてはならない。
稼げば納税が必要であり、えとせとらえとせとら。
まあ別にそれはいい。
生きる原動力、有り体に言えば生き甲斐というやつだが、それがあれば、そのためならば面倒事も喜んでやるだろうし何も問題はないのだ。
ただ、それを見出せない人生に、見出せないだろうと考えてしまう自分に、二度目なんて以ての外だと思う。
さて、倒れてから何分経ったのやら、果たしてお迎えは、少なくとも私には降りて来ないようだった。
天国や地獄の様なものがあればの話だが、そういえば“それ”は妻には来たのだろうか。
引っ込み思案で友達は少なかったが、そのくせ変に行動力あって、素直で嘘が下手くそで、少なくとも地獄に行くような生き方はしていなかったはずだ。
化けて出た事もないので、よほど私には霊感がないのか私の事は気にせず天国的な死後の世界でよろしくやってるのか、はたまた死後の世界などやはり存在しないのか…。
生きてる内は確認しようも無いことだが、死ねるならこれから確認出来る事を楽しみにしてみるのもいいか。
そうだ、最後に彼女は言っていたな。
死ぬ間際に言う事がそれかよって思ったが、そうだな。
いざ自分が死ぬような状況になってみると、なんだかそんな考えに至る事もおかしな事じゃないように思えてきた。
もし“また”があるのなら。
また、もう一度二人で一緒に、“あの世界”で。
恨みもなく願いもなく、ただ無気力に流れに身を任せ、妻の最後の言葉が叶った世界をゆるやかに思い描きながら。
私は、光則 修二としての人生を終えた。
───はずだった。
「おや、目が覚めたかね」
「───ええ…?」
そんな私に訪れたのは、視界いっぱいに広がる、無駄に良い声の、いかついおじさんの顔だった。
ちょっとあの、鼻息めっちゃ顔にかかってるんで早く離れてくれませんかね。
「さて、これは何本に見えるかね?」
「さ、三本…です」
「よろしい。どこか体に不調は?」
「不調…」
なんだろう、妙に自分の声が高い。
筋肉モリモリ、マッチョマンのおじさんの顔がようやく離れてくれたので、恐る恐る体を起こす。
そうして自分の体を見下ろすと、やはり変だ。
まず腕。
元々体格のいい身体ではなかったが、それでも細い。
いや細いよりもまず、もっと自分の腕は骨ばって、血管が浮いた男性の腕だったはずだ。
はっきり言おう、女性だこの腕は。
なんなら、着ているネグリジェのような服には、立派な胸部装甲の…ええいもういい、胸の膨らみがある。
ためしに掴むと、しっかりと自分の肉体に触れている感触がある。
なんだこれは、今私はどこに居る。
今私は、誰の体に居るんだ。
「あの…鏡、鏡はありますか?」
そう訪えば、良い声筋肉おじさんの隣に控えていたクラシカルな使用人服の女性が、サービングカートの様な台から鏡を手渡してきた。
そこに映っていたのは
「…誰?」
誰だ、これは…。
美少女だ。
少女というか、二十歳前後だろうか。
やや幼さが残るが、しっかりとした女性の顔立ちが、鏡を覗き込んで呆然としている。
少なくとも、全く全然少しも微塵もこれっぽっちも、どこをどう間違っても光則修二はこんな顔ではない。
ないのだが、未だ状況が掴めないゆるふわな頭がひとつの記憶に辿り着いた。
──この顔に見覚えがある。
あるが、答えは出ているのだが、脳が現実だと受け止めきれない。
知っている。
この顔、髪型、髪色に、眼の色の組み合わせ。
間違いなくこの娘は、妻に初めて会った時の
「なんで…私が」
私が呆けていると、良い声筋肉おじさんが再びキスが出来そうな距離まで顔を寄せてもう一度語りかけてきた。
心臓に悪いから勘弁してくれ。
「体に、不調はなさそうかね?」
「あの、近いのでもう少し離れて話してくれませんか」
「ああ、すまない。私は近眼でしてな。
魔法での視力回復は専門外であるゆえ、こうして近付かんとしっかりと見えんのだよ。」
──はい?
「今…魔法って言いました?」
「ん?言ったが、さほど珍しくもないであろう?」
殆ど確定だこれは。
ここは“あの世界”で、“そのための”この身体だ。
「────して、──ま─ので─」
駄目だ。
使用人さんが何か言ってるがまるで頭に入らない。
なんで、何が理由でわざわざこんな。
だって私は、いやこの娘は、この身体は、“この世界”にすら本来存在しないはずなのだ。
「ですのでお召し物は、失礼ですが私共で着替えさせていただきまして、現在厳重に…、あの。」
返事もなく唖然とする私に、堪えかねて良い声…とにかくおじさんが物理的に割って入ってきた。
主に顔が。
「君、聞こえているかね?」
「あ…ああ、すみません、少し、気が動転していまして…」
「うむ、身体は問題ないようだが、大丈夫かね?」
「はい…まあ、おそらく」
それを聞くと、鼻で溜め息を吐きつつ顔を遠ざけてくれたおじさんが立ち上がり、白衣のような薄手の紅い上着を羽織ると使用人さんへ下がるように告げた。
「君は丸二日寝ていたのだ。まずは食事を摂り体を休めるといい。私は君が目覚めたことをまず報告せねばならん。
最後に失礼だが、君の名前を聴いてもよいかね?」
名前。
どちらだろうか。
私のか、この身体のなのか。
夢か現か…それさえもわからないが、私の意識はあの倒れた部屋で終わらずに、今も別の世界のこの場所で続いている。
だが、最早私は、私の人生の続きを望んでいない。
二度目の人生など考えたくもないと思っていた。
それでも訪れてしまったこのセカンドライフを、誰かが生きろとそう言うのであれば、本来存在しないはずの彼女として生きるのもまた一つの選択か。
自分が生きてきた世界とは違う、この世界で生きるのならば。
私の名前は
「フェリーレ。
私の名は、フェリーレです。」




