参:確認事項
俺は契約書のある項目を指差した。
「生活の最低基準って?」
「ご主人様の現在の生活水準が基準となります」
「つまり今の俺より悪い状態になったらダメってことか」
今までの俺の生活水準なんか知らないはずだろ、と思ったが、相手は悪魔だ。他人が知るはずのない俺の秘密でさえ知っていたとしても不思議ではない。
「住居は収納スペースで、本当にいいのか?」
「ええ。“出入り口”にするだけですから。ただ、一畳程度ないとそれも難しいので、最低限の広さは必要です」
「一ヶ月以内なら、本当に無償で解約できるんだな? 個人契約だからって、ここに書いてあること全て嘘でした、とかないよな?」
「ええ、勿論。冥界契約法は、悪魔と人間の契約は全てが対象です。協会を通すか通さないかは関係なありませんので」
念を押して、俺は契約書に自分の名前を書き込んだ。
「血印をお願いいたします」
そう言われても、アニメキャラのように親指を噛み切る勇気なんてない俺は戸惑う。
「拇印じゃ駄目なのか?」
「ええ、こればかりは冥界契約法の第六条で定められていますので」
言い切られてしまい、俺は自分の右手の親指を見つめた。
「噛み切るのは抵抗があると言うことでしたら、少し針を刺して血を出せば事足りますよ」
言いながら、一本のまち針を渡してくる。
ばーちゃんが使ってそうなまち針だ。衛生的に大丈夫なんだろうか。
見た感じは錆びてもないし、大丈夫ということにしよう。
俺は少しだけ針を親指に刺した。
「……っ!」
注射も苦手なのに、ちくりとした痛みに思わず顔が強張るが、血が少し滲んできたので、すかさず契約書に押し付けた。
「契約成立」
満足げに頷いて、アラストルは契約書をくるくると丸めて懐にしまい込んだ。
「では、ご主人様改め、山崎暁人様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
「あ、はい、こちらこそ」
「早速ではございますが、そちらの収納部分の開け渡しをお願いできますか?」
にこにこしているがなかなかの圧力だ。
俺は頷き、とりあえず詰まっている荷物を出して部屋の端に積み上げることにした。
「……手伝ってはくれないんですね」
突っ立って見ているだけのアラストルに思わずそう呟くと、彼はやれやれと肩を竦めた。
「肉体労働は契約に含まれておりませんので」
「左様ですか」
軽く溜息をつきつつ、手を動かして荷物を移動させると、アラストルは「ふむ」と頷いた。
「では失礼」
右手を収納の戸に翳して何か唱えると、収納の中に淡い光が現れた。
「この光は……?」
「出入り口です。私室とこの収納を繋げました。基本的に私たち悪魔は、召喚されなければ人間界には来られませんが、こうすることで好きな時に出入りすることが可能となります。人間の住居と悪魔の私室を直繋げるのは、住居の所有者である人間の許可がなくてはできませんので、契約を結んで間借りさせていただくのです」
「なるほど……?」
実際にはよくわからんが、とりあえずアラストルの部屋に繋がっているって覚えておこう。
「では次に、当面人間界で過ごす用に、衣服の購入を要求いたします」
そりゃあ、そんな真っ黒なスーツじゃ過ごしにくいよなぁ。
そう思いながら、
「ちなみに、その最初の状況を整えたら、何かしてもらえるんですか?」
「そうですねぇ。衣食住は基本料ですが、衣類に関しては最初にまとめて購入する必要がありますからね。多少のサービスは検討いたしましょう」
悪魔なのに良心的な反応だな。何か企んでいなければいいが。
「……対価が足りないからって、勝手に寿命を取ったりしないでくださいよ?」
「勿論。契約書にないものを勝手に奪うことは、冥界契約法で禁じられていますので」
悪魔のくせに法律に縛られているのか。
まぁ、そうでないと恐ろしくて契約なんてできないけど。
「とにかく参りましょう。私も久しぶりの人間界で、柄にもなく気分が高揚しております」
「久しぶり?」
「ええ。前回は百年くらい前でしたか。欧州の僧侶と契約をしました」
「欧州の僧侶……?」
欧州はヨーロッパだよな。僧侶っていうと、牧師とか神父のことだろうか。
まぁ、聞いてもどうせわからないだろうけど。
「……とにかく行こうか。どんな服が欲しいとか希望はありますか?」
「サイズさえ合えば良いですよ。強いて言うなら着心地重視です」
つまりデザインよりも生地の質が優先って訳か。
それはそれで金がかかりそうだな。
とりあえず、俺がよく服を買っている店に行くか。
準備をして家を出る。
当然のように俺の後ろについて来るアラストルを振り返り、今のこの光景はなんだかマフィアに脅されて歩かされているように見える気がして、複雑な心境になった。
黒いスーツに赤い眼の男なんて、悪目立ちするよな。
と、そんな俺の思考を読んだかのように、アラストルは小さく笑った。
「ご心配なさらずとも、悪魔の眼が紅く見えるのは、悪魔を呼び出し、契約をした者のみですので、他の人間からは私の目は黒く見えます」
「え、そう、なんですか……?」
「ええ。逆に、今後暁人様が、私と同じ紅眼の者を見かけた場合、その者は悪魔ということになります」
「自分が呼び出したのとは別の悪魔の眼も紅に見えるのか……」
それは覚えておこう。
と、思った直後、丁度マンションのエントランスで一人の女性とすれ違った。
たまに見かける三十代くらいの綺麗な女性だ。
その女性の瞳が、血を吸ったような深紅色だった。
「……え……?」
思わず振り返った直後、女性はアラストルを一瞥し、ふっと小さく微笑みを浮かべると、そのまま前を向いてマンションに入っていった。
「え、え? ……今の人……」
「悪魔でしたね。私が所属している冥界悪魔協会で見かけたことがあります」
「ええと、復讐支援サービス部、でしたっけ?」
「私が所属しているのはそこですが、先程の女悪魔の所属部門までは把握しておりませんね。冥界悪魔協会には数多の悪魔が所属していますし、部門もかなり多いので」
そういうものか。
まぁ、俺も自分が務める会社の別部署の人間全部覚えていたかと言われたらそうじゃないし、きっと同じような感覚なんだろうな。
「じゃあ、同じマンションに悪魔と契約している人がいるってことなんですか?」
「そういうことですね。私と暁人様のようなサブスク契約かはわかりませんが」
「……あの、その"暁人様"っていうのはやめてくれませんか?」
特に外では目立つし、変な風に見られかねない。
「では、何とお呼びしましょうか?」
「呼び捨てでいいです」
「では暁人、貴方も私に敬語は不要です。貴方は私の、いわば雇用主ですから」
「わかった」
何となく威圧感があってつい敬語が出ちゃいそうだけど、気は使わなくていいと言質を取れたのはありがたい。
気を取り直して、俺はアラストルを連れて駅前のショッピングモールへ向かうのだった。
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