拾:契約者
悪魔三体がその場から消え、俺と遠藤だけが残された。
気まずい。
「……じゃあ、俺も行くわ」
空気に耐えかねた遠藤が踵を返して去っていく。
屋上の出入り口の扉がばたんと閉まったのを見た瞬間、俺は気付いた。
しまった。今の俺は、このビルに入っている会社の社員じゃない。
ビルの中には、至る所にセキュリティゲートが設置されていて、パスを翳さないと通れない。当たり前だが、そのパスが組み込まれた社員証は退職と共に返却してしまった。
実際、この屋上から室内に戻る扉の横にも、ICチップ入りの社員証を翳すスキャナーがある。
有効な社員証を翳さなければ、俺はあの扉を潜ることはできない。
「……いやいやいや、どうすんだよ、これ……」
来たときはアラストルに抱えられて飛んで来たから、ビルの中を通っていない。
本来外部の人間がビルに入るには、受付で来客用の仮パスを発行してもらわなければならない。
今の俺は、ただの不法侵入者である。
しかも、このビルは三十階建て。
外壁を伝って降りることなどできないし、非常ベルも鳴っていないのに非常階段から出ることもできない。
厳密には、非常階段へは出られるだろうが、最後の出口が問題だ。
非常口故に、内側から出る際は鍵が手動で開けられるようになっているはずだが、当然ビルの出入り口は守衛室から監視されている。
非常時でもないのにパスを持たない俺が内側から手動で鍵を開けたら、即座に警報が鳴るし、防犯カメラには俺の姿がばっちり映ってしまうだろう。
詰んだ。
このままじゃあ俺は警備員に見つかって、退職後にビルに侵入した、ということで逮捕されてしまう。
「……山崎くん?」
頭を抱えているところに唐突に名前を呼ばれて、俺は飛び上がって驚いた。
振り返ると、そこには小坂先輩の姿。
「小坂先輩……」
来客用のパスもないのに、ここにいる俺。どう考えても怪しい。
それなのに、小坂先輩は何かを察した様子で頷いた。
「遠藤くんね……まったく、何を考えているのかしら……」
額に手を当てて嘆息する。
もしかして、俺が遠藤に呼び出されてここにいると思ってくれたのだろうか。来客パスもなくここにいることにどう納得したのかはわからないが、そう思ってくれたのなら都合がいい。
と、彼女は俺についてくるよう促した。
屋上の出入り口からビル内に入ると、エレベーターに乗り込み、二階のボタンを押す。
一階じゃないんだ、と思った直後、小坂さんが振り返る。
「来客用のパス、発行してないんでしょう? 二階の非常階段から外へ出るわよ」
「あ、そっか……わかりました」
「……災難だったわね。辞めた後もこんなことになるなんて」
そう言って、小坂先輩は憐れむような目を向ける。
何と答えようかと逡巡していると、彼女は俺に一枚の名刺を差し出した。
「……でも、丁度よかった。私の知り合いが、営業で人材を募集しているそうなの。山崎くんならスキル的にも申し分ないはずだから、もしも次が決まっていなくて、興味を持てそうなら連絡してみて」
咄嗟に受け取った名刺を見ると、誰もが知っている大手のIT企業だった。
名刺は、そこの営業部長のもの。
「この人は私の大学時代の先輩なんだけど、実はね、私も三ヶ月後にそこに転職するの……ついさっき連絡があって、誰か優秀な人材を引き抜いてきてくれって言われたんだけど、在職中の人を気軽には誘えないでしょ? だから山崎くんに会えてよかったわ」
悪戯っ子のように笑う小坂先輩。
そうか、先輩も退職予定だったんだ。
そう思うと、何だか妙に安心してしまった。
「……ありがとうございます」
俺が絞り出すように呟いた時、エレベーターが二階に到着した。
先輩の誘導で非常階段から一階へ降り、受付の前を通らずにビルを出る。
一回の非常口の横にも電子ロックの制御端末が付いていて、先輩がパスを翳すと解錠された。
手動解除じゃないから、これなら警報が鳴ることもない。
「じゃあ、またね」
ビルの裏手に出たところで、先輩は笑顔で手を振って、非常口からまた中に入っていった。
心底、小坂先輩っていい人だな、と思う。
また先輩と一緒に働ける可能性があるなら、紹介されたところを受けてみてもいいと、素直に思える。
随分と軽くなった足取りで自宅に向かおうとして、ふと、あの店のことを思い出した。
昨日、最悪な気分で会社を出て、駅に向かって少し進んだ先にある繁華街。その路地にあった古びたバー。
この時間では開店前だろうが、何だか気になった俺は昨日の記憶を辿ってそこへ向かった。
「……え?」
言葉を失う。
路地そのものがなくなっていたのだ。
コンビニと、赤提灯の古い居酒屋の間にあったはずの路地。
そこが、建物と建物の隙間がほとんどなくなっているのだ。
「何で……」
場所は間違えていない。確かにここだ。
店どころか路地さえ無くなったことに、俺は驚きつつも何故か妙に腑に落ちたような心地だった。
悪魔を召喚する本を出してくるような店だ。
きっとあの店主の女性も、悪魔かそれに近い存在だったのだろう。
またドン底に陥ったら、あの店への路地は俺の前に現れるだろうか。
それはわからないが、アラストルとサブスク契約を結び、それが解約されていないので、俺はまたそのうち行けるような気がしていた。
もし行けたら、またあの不思議な味の酒が飲みたい、そんなことを考えながら、俺は家路を急ぐのだった。
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