零:最悪の日と謎の店
俺は山崎暁人。今年二十四歳になった社会人だ。
昨日までとあるメーカーの営業をしていたんだが、今日退職届を出してきた。
辞めた理由は、社内コンペ用のプレゼン資料を、同期の遠藤に奪われた挙句、俺が遠藤の案をパクったという噂を流され、社内での立場がなくなったからだ。
遠藤は要領がよく人懐っこい性格で、同期の中で一番上司から可愛がられる存在だった。
一方の俺は、仕事は丁寧にしているつもりだったが、愛想が悪いと言われ、上司からはあまり好かれていなかった。
そんな俺の弁明を、上司は鼻で笑って聞き入れてはくれなかった。
俺は夜道をとぼとぼ歩きながら、繁華街の路地に古いバーの看板を見つけ、吸い込まれるようにして入っていった。
「……あら、いらっしゃい」
こじんまりとしたカウンターバーだ。座席は六席しかない。
カウンターの向こうの壁には一面酒のボトルが並んでいて、その前に三十代半ばくらいと思われる綺麗な女性が立っている。
黒髪を纏め上げ、黒いシャツを着ている彼女は、赤い唇に微笑を浮かべながら、俺に着席するよう促した。
「初めて見る顔ね」
「ああ、はい……なんか、看板が目に留まって」
「まぁ、そうでしょうね」
彼女は意味深に笑いながらおしぼりを差し出し、俺の顔を見るなり注文も聞かずにグラスに酒を注いだ。
「あ、あの……」
「これはサービス。辛いことがあったって、顔に書いてあるわよ」
ハスキーな声が耳に心地よい。
何の酒かはわからないが、ロックで出されたそれを、俺はゆっくり口に運んだ。
少しだけ甘く、ほろ苦い不思議な風味の酒だった。
その酒を飲むと、妙に心が落ち着いていく気がした。
「……貴方には、こっちかしら」
そう言って、彼女は俺に一冊の古い本を差し出してきた。
「……本?」
「そう。今の貴方に必要なことが書いてあるはずよ。おうちに帰ったら、是非読んでみてね」
半ば押し付けられるような形でそれを受け取り、俺は同じ酒をもう一杯飲んで代金を支払うと、店を後にした。
最悪な一日だと思っていたが、その店を出た後の足取りは、妙に軽かった。
不思議な店だった。妙に落ち着く居心地の良さを感じると同時に、何故か急き立てられるような気もする、矛盾した感覚に陥るような。
何日か経ったらまた行ってみよう、そう考えながら、俺は家の玄関のドアを開けたのだった。
もしよろしければ、ページ下部のクリック評価や、ブックマーク追加、いいねで応援いただけると励みになります!感想も大歓迎です!




