王、嫌になる。
目が覚めた。
今朝と同じ天井が視界に映る。
最悪な気分だ。
頭がくらくらする。
心臓が打つたびに、世界がぐにゃりと歪む。
鼓膜の奥で、風のざわめきだけが響いていた。
それに、なぜか体が重い。
「……ん?」
視線を下げると、小さなつむじが見えた。
その頭が、レンの声に反応するようにゆっくりと顔を上げる。
「おお、起きたかだーりん。おはよう!」
馬乗りになったまま、ルーシェは上体を起こした。
キャミソール一枚の姿が、夜の月光に白く映える。
「重い……」
「恋する乙女に失礼な!」
軽くどかそうとしたが、体にまるで力が入らない。
熱を吸い取られたように、全身がひどく冷たかった。
彼女が言う。
「……死にかけだぞ」
ルーシェが少し眉を下げ、心配そうに、それでも優しく微笑んだ。
「人間が【血術】を使うなんて自殺行為。血が少ないくせに魔族の真似をするからだ。
だから今、だーりんには血がない」
そう言うと、ルーシェはキャミソールの肩紐を指先で引き、するりと肩をすべらせた。
露わになった白い肌に、月の光が沿う。
「ほれ、おしょくじだぞ。だーりん?」
まるで今から男女の関係を持つように、ルーシェは頬を赤らめ両手をこちらに差し出してきた。
ドクン、と鼓動が胸を打つ。
「【吸血】、妾の使えるのだろう?」
呼吸が浅くなる。
引き寄せられるように上体を起こし、その赤い瞳を覗き込んだ。
吐息が触れ合うほどの距離。
ルーシェは嗜虐的な笑みを浮かべ、「よいぞ」と耳元で囁いた。
「んっ……」
首筋を噛む。
小さく声を漏らし、ルーシェは腕を首に回した。
スキル【吸血】を使えば、舌に血の味が広がる。
「は……初めてだぞ――血を捧げるのは」
恥ずかしそうにそんなことを言う彼女の頬は赤く染まっていた。
ルーシェは、声を殺すように唇を寄せ、首筋へ歯を沈める。
それは【吸血】ではなく、熱を確かめるような甘噛みだった。
一滴の血が、ルーシェの首からつっと垂れる。
「だーりん、このまま――」
少し躊躇って、彼女は言った。
「妾と二人で暮らさないか?」
耳元で囁く声が、やけに甘く響いた。
「……ルーシェと、か?」
「そうだ。あの女神とやらに聞くと、大魔王と他の魔王を倒さなければいけないみたいだな」
それは最高神からの命令だった。
「だーりんが素直に大魔王を倒すって言えば、妾はお供するぞ。
だが……そんなのちと、辛くないかって思ってな」
ぎゅっと抱きしめる腕に力がこもる。
「うぬは弱い。たかが人間、剣も学んでいなければ筋力もない。
そんなのが大魔王を倒すなんて、野垂れ死ぬだけだ。だから……だから――」
そこで、再び首を噛む。
今度はさっきより強く、味を確かめるように。
レンはわかっていた。
心配してくれていること。
死んでほしくないこと。
そして――ずっと、そばにいてほしいと願っていること。
でも、それが“偽物”だということも。
ルーシェの首筋に残った二つの小さな痕を見つめ、レンはゆっくりと顔を上げる。
二人の視線が、静かに重なった。
「ごめん。逃げることは……できないかな」
きっと、それも幸せだろう。
でも、それは本当の幸せじゃない。
ルーシェの本音は、きっと違う。
レンはそっと彼女の頬に手を当てた。
ルーシェヴィア・アルカナ・クリムへの効果を解除
目の前にウィンドウが浮かび上がる。
ルーシェヴィア・アルカナ・クリム
状態:正常
「……そうか」
ルーシェは少し寂しそうに笑い、キャミソールを直す。
ベッドを降り、寝室の扉へ向かった。
これで、もうルーシェとは会わなくなるだろう。
幻覚から覚め、また人間を襲い、血を吸うだけの生活へ戻る。
けれど、それがルーシェの本望。
レンが否定できるものではなかった。
「ルーシェ、ごめん」
「なぜ謝る?」
「スキルで恋心を弄ぶようなことをした」
「……そんなことか」
ルーシェは小さく笑って、首を横に振った。
どうやら、レンが持つスキルのことは察していたみたいだ。
「妾はスキルなんかじゃない。本気で、うぬに恋したんだぞ」
「――は?」
思いもよらぬ言葉に、レンは目を見開く。
「……なんで」
「なんでと問われると不思議だな、やっぱ顔か!」
ニッと笑うその顔に、思わず力が抜ける。
「笑顔が可愛かったんだ! だーりんの!」
両手の人差し指で、口角を持ち上げてみせる。
「――ぷっ……あは、あはは!」
そのアホみたいな理由に、レンは笑いをこらえきれなかった。
「あとはタイミングだ! ちょうど恋したいって思ったときに、だーりんが目の前にいたのだ!」
「バカかよ……あはは!」
「バカだと! 恋っていうのはそういうものだろ!
大体、内面で恋するなんてロマンスは建前だ! 本音を語ったらどうだ!」
熱くなって語るルーシェを横目に、レンはベッドに身を沈めた。
「だーりん、家族会議をするぞ」
「え?」
「女神を取り返しに行くのだろ? それとも何だ、あの獣人を泣かせ続けるのか?」
――
心に、ぽっかりと穴が空いたような気分だ。
時空の女神・スフィは、薄緑に輝く魔法陣の上に、虚ろな表情で立っていた。
磨き抜かれた白い石壁、高くそびえる天窓。
柔らかな光が差し込み、空気の粒子を淡く照らす。
並ぶ長椅子の奥には、教壇のような台座が鎮座していた。
祈りと儀式のために作られた、静謐な神聖空間。
天井のアーチには古代文字が刻まれ、スフィの魔力に反応するように淡く脈打っている。
「やはり細工されていたか……」
剣の神アルディウスが低く呟き、傍らの宮廷魔術師へ鋭い視線を向ける。
「おい、神界に移転させるにはどのくらいかかりそうだ?」
「今しがた行った【解呪】でも私の魔力が尽きかけ二時間ほど――【神界転移】をさせるには、更に人員と時間を要します」
「そうか……」
なら早くても明日には――そうアルディウスは考える。
そこに、コツコツと足音が響いた。
「おお、これはこれは。剣の神アルディウス殿と新しき時空の女神殿ではないか」
キラキラした衣装をまとい、豪快な笑みを浮かべながら歩み寄る男がいた。
ソラリス王国の王――ケン・ソラリス・サトウである。
金糸のローブには麦と葡萄の刺繍。
胸元には「双太陽の紋章」。
肩には純白のマント。
その姿はまさに、豊穣と平和の王。
「ケン・サトウ! 久しいな。王になってからは会っていなかったか!」
「50年前の修行以来かな。会えてうれしいよ。変わんねぇなぁアルディウスは。羨ましいぜ。
……もう始まってるのか? 新しい時空の女神ってことは」
「ああ」
「俺も、あの頃のように動けたらな――そうだ、今期の異世界人はどんな感じなやつらだ? 日本のやつはいるのか?」
アルディウスの顔が歪む。
「それが、まだ全員召喚はできていない。最初に召喚したやつが問題でな。
あとニホンかはわからないが、お前によく顔は似ている」
「問題? なんだ、すげぇ弱そうなのか? それともすげぇ犯罪者だったり?」
「時空の女神に妖しいスキルをかけてな。惚れさせたんだ」
一瞬、ケンの脳がフリーズする。
「ハッハッハッハ! なんだそいつは! 面白いやつだな!」
「ちっとも面白くなんかない! 我の可愛いスフィを穢しよって!」
「で、女神は仕事を放棄して冒険について行ったのか?」
「そのとおりだ」
憎悪に燃えるアルディウス。
対する王は、まるでお伽噺を聞く子どものように、目を輝かせて楽しんでいた。
「で、最高神は?」
「そやつ一人に全ての魔王、それに大魔王を討伐させようとしている。
しかし、やつは魔王を討伐ではなく――あ、愛人にしていた……!」
「ハハハ! もう魔王に会ったのか!? しかも愛人!? それは傑作だな! マジかよ!」
なにが面白いのかがわからず、呆れた顔で首を振るアルディウス。
「しかしアルディウス、別にいいんじゃねぇか?」
ケンは笑いながらも、どこか真剣な瞳をしていた。
「いいか、アルディウス。異世界召喚は命を代償にする禁術だ。
全員召喚させちったら、時空の女神は死ぬ。これは例外がない」
アルディウスは神妙な面持ちで話を聞く。
本来、異世界から命を召喚する行為は禁術であった。
それは命を代償とする行為だからだ。
だが、1300年前――突如として世界を襲った大災害が起きた。
【瘴気】。それはすべての命を蝕み、神すら例外ではなかった。
その元凶こそ、のちに「大魔王」と呼ばれる存在である。
いかなる英雄も瘴気に倒れ、人類は滅亡の淵へと追い込まれた。
だが、その絶望の中に“異世界人”を名乗る者が現れる。
彼だけは、瘴気に侵されなかった。
そして、異世界人は――大魔王を封印した。
その後、大魔王の復活と同時に、時空の女神は再び異世界人を召喚した。
だが、それは終わりなきイタチごっこだった。
大魔王は敗れるたび、新たな配下――“魔王”を生み出し続けた。
そしてそのたびに召喚を繰り返す女神は、次第にその力をすり減らしていった。
「今では、一度の召喚で命がなくなるのは当たり前。
そうだろ、アルディウス」
「そうだが――」
「――でも今回は死なねぇよ。時空の女神は」
アルディウスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「ふざけるな! スフィ含め我らはそれを承知の上で行っている! その覚悟を踏みにじるのはもうやめろ!」
「落ち着け。最後まで聞けよ。
俺たち異世界人にとって、この世界は“ふざけた世界”なんだ。
スキルがあって、魔力があって、可愛い獣人がいる――だから言うぜ」
すぅっと息を吸って、言い切る。
「女神と魔王を恋に堕とした男が――大魔王を堕とせねぇわけがねぇ」
この男は、どこまでもふざけていた。
異世界人が王となる――それは前代未聞のことだった。
当然、反乱も起きた。
だが、彼はそれを笑ってねじ伏せ、国をまとめ上げた。
アルディウスは思う。
なぜ、この男こそが、誰よりも大魔王の首に近づけたのか。
「おい、側近。転移の儀は明日だな? なら警備を最大回せ。
魔王よりも恐ろしいやつが来るぜ」
「お父様! なら私も警備に――」
床を蹴り、一人の姫騎士が声を上げる。
長い黒髪を高く結い、白銀の鎧をまとう。
凛とした碧眼には、王家の誇りと決意が宿っていた。
彼女はケン・ソラリス・サトウの娘にして――騎士学校首席、レイナ・ソラリス。
「――レイナ!! お前だけは絶対ダメだああああああああ!!!!!!!」
刹那、王の雄叫びが教会にこだまする。
「お、お父様! どうされた!」
「お前は絶対に行かせん! 姫騎士! ヒロイン候補! 堕とされる!
『お義父様』はイヤだああああああああああ!!! 『お義父様』は絶対にイヤだああああああああ!!!!」
「お父様! お父様がおかしくなられた! くっ! 何者かの精神攻撃魔術か!?」
アルディウスは思う。
なぜこの男が誰よりも大魔王の首に近づけたのだろうか。
ルーシェヴィア・アルカナ・クリム
状態:正常
好感度:大好き
時空の女神
状態:???
好感度:???




