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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

幼少期の悪夢

作者: 疎谷陸
掲載日:2025/10/18

 二月十一日、後方にある石炭ストーブの熱が届かない席にいる僕は、肌寒さに肩を震わせた。瞼を閉じようとするまどろみと格闘しながら、僕は国語の授業を聞いていた。この後何をしようか、隣の席のかっちゃんに目配せをする。

 昨日のガリンガーの話をしようぜ。僕のノートにかっちゃんの文字が綴られる。ガリンガーとは獣の遺伝子を持った主人公が、世界を滅ぼそうと画策する悪の組織と戦うストーリーで、僕たちの間で大人気な特撮アニメだ。楽しみだな。僕がノートにそう書くと、かっちゃんは同意するように歯を見せて笑った。

国語を担当する米田先生は定年間近のおじさんで、ゆったりとした声で僕たちを眠りにいざなおうとしてくる。ただでさえ難解な国語の授業にこの教師はミスマッチだろうと僕はいつも思うのだ。

 今、この教室で音を立てるのは教師と鉛筆と風だけだ。静寂は時として退屈を生む。吐しゃ物の様にせりあがってくるあくびの卵を間一髪で飲み込み、目をしばたたかせた。そしていつものように僕は、早く授業終わってくれないかなと声も出さずに呟く。ここまでは普段通りの日常だった。チャイムが鳴り響くまでこれが続くのだろうと思っていた。しかし、その日は違った。

突如として、予期せぬ何かがものすごい足音を立てて教室に接近し、扉の前で立ち止まった。静寂が緊張を纏った沈黙に変わる。この刹那、おそらく教室内の全員が息を止めていた。無音が重力と化し、精神に容赦なくのしかかる。あまりにも静かすぎる教室、重圧に耐えきれなくなった誰かが発言をしようと息を吸い込んだ瞬間、ガラガラと雷鳴のような音を響かせて、扉が勢いよく開かれた。そして、音の主はゆっくりと教室に足を踏み入れ、ゆっくりと教室内を闊歩する。

 肩から黒いショルダーバッグを下げ、赤いワンピースに身を包んだ女性だった。僕はその人の顔に見覚えがあることに気づいた。成績学年一位であるクラスメイト、葉山ヒロトの母親だった。前に一度葉山の自宅で遊んだ時に見たことがある。とてもきれいな人だったことを覚えている。が、今は随分と肌も髪も荒れ、目元にはどす黒いクマができていて、その時の面影はどこにもない。まるで山姥のようだった。

 山姥は他の方向には目もくれずに、葉山の席へ一直線に向かっていく。あっけにとられていた米田が、ようやく理解が追いついたのか山姥を制止しようと動き出した。

「ちょっと、あなた授業の邪魔をされては困ります。」

 強い声色で侵入者の背中に呼びかける年配教師。しかし、山姥は教師の言葉を無視して歩み続ける。本格的に危機感を覚えた教師は前進する山姥の腕を掴み、無理やりに足を止めさせようとする。その時初めて教師を認識した山姥は振り向き、驚異的な速度で教師の顎を殴打した。

 あまりに一瞬のことだったので教師も殴られたことに気づかずに立ちすくんでいたが、顎が受けた衝撃が脳に行き届いたのか、次第にゆっくりと膝をつき床に倒れこんだ。その様子を一部始終観察していた山姥は、教師がもう立ち上がってこないと結論付けたのか再び前方を向いて歩き始めた。やがて葉山の席にたどり着いた山姥は息子を声も出さず静かに見下ろす。

 およそ十数秒間その状態は続いた。すると見る見るうちに葉山の顔は青ざめ、今にも泣きだしそうな表情へと様変わりしていった。常に笑顔を浮かべ、飄々としている葉山しか見たことがなかった僕にとって、その顔は衝撃的だった。

 まるで驟雨に打たれる砂城の様に、彼の端正な顔立ちは今にも瓦解しかかっていたのだ。そして、彼は唐突に自らの頭を机に打ち付けて、ごめんなさい!と叫んだ。山姥は無反応だ。しかし彼は、その後何度も同じ動作を繰り返した。ガン!ごめんなさい!ガン!ごめんなさい!ガン!ごめんなさい!ガン!ごめんなさい!ガン!ごめんなさい!ガン!ごめんなさい!ガン!ごめんなさい!ガン!ごめんなさい!

 まるで餅つきのようだった。頭を打ち付ける音は回を追うごとに大きくなる。いつしか葉山の額からは決して少なくない量の血が流れ出していた。だが、葉山は一向に懺悔を止めようとしない。あまりの狂気に僕たちは声を出せなかったが、その光景から目が離せなかった。動作が10回ほど繰り返された後、山姥がようやく口を開いた。

「やめなさい。ヒロ!見苦しいわよ。」

 ヒロというのは家庭内での葉山の愛称だろう。このような異常な状況下でも母親が息子を愛称で呼ぶというのはなんとも不気味だった。その言葉を聞いた葉山はピタリと動作を止め、山姥の顔を見上げた。

 ちらりと見えた机面は赤黒い血に濡れていて、差し込む日差しを反射していた。親子が数秒間見つめあった後、山姥が驚くほどやさしい声色を出した。

「ヒロちゃん、ママは別に怒ってないわ。だからそんなに謝られたって困るの。いつも言ってるわよね?必要な時以外の謝罪は無価値だって。」

 葉山の顔に一瞬光がともった。がしかし、次の言葉で彼はさらなる絶望に叩き落されることになる。

「ママはね、今日ヒロちゃんに罰を与えるために来たの。すでに決定された刑罰は、謝ってもなくならないわよね? だから意味はないの」

 山姥の口から出た罰という言葉の響きは異様に明るかった。まるで、晴天を告げる気象用紙のように。

葉山は大きく目を見開いた後、小刻みに震えだして、あ、あ、あ、あ、あ、と壊れたラジオのような声を出した。唇は振動し、前歯はガチガチという音を立てている。その怯えようは尋常ではなかった。普段家庭内で葉山が日常的にひどい扱いを受けている光景を想像して、僕は気分が悪くなった。

 山姥が突然、肩から下げていたショルダーバッグをあさり始めた。ごそごそとあさり続けて、やがて中で何かが蠢いているビニール袋を取り出した。風もないのに上下左右に暴れるビニール袋はそこはかとなく奇妙な物質だった。きつく縛られているビニール袋の上部を山姥はほどき、中に手を突っ込んだ。そして、中からぢゅーぢゅーという鳴き声とともに、白いハムスターを一匹取り出した。

 僕は突如として袋の中から現れ出たハムスターに困惑した。僕のほかのクラスメイト達もそうだったのだろう。皆ぽかんとしていた。しかし、葉山だけは違った。顔が頭部から垂れる血に塗れていてもはっきりとわかるくらいに青ざめた。山姥が袋の中からハムスターを取り出した意味を一瞬にして理解したみたいだ。

葉山は蒼白に染まった表情で一言、ベータと呟いた。 おそらく白いハムスターは葉山が飼育するペットで、ベータというのはおそらくペットの名前だ。ベータは山姥の手の中から脱出しようと必死に暴れるが、山姥がハムスターの腹部を強く抑えているので抜け出すのは物理的に不可能だ。細長い尻尾は不可能という言葉を否定するように横に激しく揺れている。

 人間相手に無謀な抵抗を続ける小動物の様相は、アリジゴクから這い出ようとする蟻を思わせる。とても哀れだった。葉山の小さな声を聞いた山姥は満足げにふふふと笑みを零して、

「あなたの大切なお友達はいまからとっても苦しい目に遭うわ。可哀そうにね。けれど、全てヒロちゃんが悪い子だったからしょうがないわよね。ヒロちゃんがいい子に生まれ変わるためにも、この子にはたっぷり苦しんでもらわなきゃね。今のうちにお別れを済ませときなさい」

 そんな言葉を歌うように高らかに言った。あまりにも山姥の声のトーンが場の雰囲気に不釣り合いのものだったため、教室に不穏なことが起こる前兆のような緊張感が走った。一分近い沈黙の後、葉山がようやく「嫌だ」という言葉を口にした。

 その直後、山姥は葉山の席の近くにあった石炭ストーブの蓋を開け、灼熱の中にベータを放り込んだ。余りにも一瞬のうちにそれらのことが行われたため、僕たちはあっけにとられてしばらくは言葉も発せずにただ茫然と石炭ストーブを眺めていたが次の瞬間、教室内に響いたベータの叫び声によって、やっと僕たちの理解は現実に追いついた。

 ぢゅうううううううううううううううう!!!

 ベータの叫びを聞いていると鼓膜をつぶしたくなる感覚に襲われる。それほどまでに鳴き声は悲痛と苦悶に満ちていた。まるでファラリスの牡牛だ。うっすらと肉の焼ける匂いが鼻を刺激する。今、この教室は限りなく地獄に近い現世だった。やがて鐘の残響が静寂に呑まれるように、ベータの凄惨な叫び声は徐々に消え入っていった。

 再び教室に重い沈黙が落ちた時、葉山はベータが処刑された石炭ストーブに歩み寄り慟哭をあげた。

 うおううおううおううおううおううおううおう

 時折ベータの名前を呼びながら繰り返されるそれらは悲壮感極まるもので、葉山がどれほどペットのことを大切にしていたかが一度聞いただけでわかった。

 山姥は信じられないことに教育者のような顔をして葉山を見下ろし、慈悲の笑みすら浮かべている。狂気だ。僕はそう思った。間違いなくこれまで遭遇してきた事象や人物の中で最も狂っている。

 とっくに壊れているラジオがそれに気づかずに歪な砂嵐を奏で続けている。そんな感じだった。山姥がしゃがみ込み、泣き声を上げ続ける葉山の頭を撫でようとした瞬間、教室の扉から何事だ!という声と共に数人の男性教師が入ってきた。一人の女生徒が膝に手を置いて息を切らしているのが見えた。どうやら彼女が呼んできてくれたらしかった。

 それからの展開は意外にも呆気ないものだった。

あれほど悪魔的に恐ろしかった山姥は瞬く間に教師たちに囲まれて、あっというに取り押さえられた。羽交締めにされた山姥は抵抗するも、男性教師数人には敵わず、葉山の愛称を叫びながら教師たちと共にやがて廊下へと退場していった。

 山姥の声が木霊して廊下全体に響いたために、他の四年生クラスも一時的に授業を中断し、何事かと僕らの教室を覗き見にきたが、山姥が廊下の奥の方に完全に消えると、潮が引いていくように彼らはぞろぞろと元の教室へと戻っていった。

 山姥と教師達と野次馬がいなくなった後の四年一組には倒れている教師と石炭ストーブの前で今もまだ泣き続けている葉山くらいしか目を引くものがない。

後は廃トンネルのような底知れない静けさがどこまでも広がっているだけだ。

 誰も一言も声を発することができない原因は葉山を労う慰撫的な気持ちによるものでは決してなかった。

山姥は去った。しかし、去り際に山姥が見せた恨めしそうな表情が瞼の裏からいつまでも離れなかった。瞳を閉じても奥行きの広い暗闇から山姥は不気味な表情で僕に向けて笑いかけてきた。まるで呪いのような微笑は僕の悪夢に何度も出てきて、僕は何度も魘されることになる。

 翌日から多少の遺恨を残しながらも学校に普通の日常が戻った。いつも通り先生の話はまわりくどいし、かっちゃんの笑顔は眩しいし、冬空に太陽はさんざめいている。違うのは葉山がいないことだった。山姥襲撃の翌日から葉山は学校に来なくなったのだ。

 彼の他にも事件のショックで学校を休んだクラスメイトはいたが、数日経つとやがて復学してきた。

しかし葉山だけは一向に学校に現れず、空席の机が虚しく沈黙していた。

 一ヶ月後ついに彼はどこか別の場所に転校した。挨拶はなく、教師からの報告という形で僕たちは知った。後から聞いた話だが、山姥は葉山に対して強い期待を寄せていて、長年に渡り苛烈な教育虐待を日常的に行っていたらしい。その内容は激しい暴力だったり、葉山が大切にしているものを無許可で捨てたり破壊したりしていたのだとか。(丁度この間のハムスターをストーブで焼き殺したのと同じように)

 そのようなことを隠れて行っていたのが夫、つまり葉山の父親にバレて大問題になり、猛反対する山姥を振り切って、離婚に踏み切ったらしい。そして離婚調停中に心身共に不安定な山姥の手によって、あの事件は起こされたという訳だ。聞いた話だが、山姥は事件の後、不法侵入罪と暴行罪、そして脅迫罪の容疑で逮捕され、暴行の被害者である教師の訴えにより2年の実刑判決が下され、今も刑務所に収監されている。

 このことで、元々父親有利だった葉山の親権は、完全に父親に移り、葉山は虐待の悪夢からようやく逃れることができたのだ。しかし、葉山が受けた心の傷は山姥が居なくなっても結局癒えることはなく、嫌な思い出が残るこの学校に復学するよりも、今新天地で再出発した方が良いという父親の考えの元、葉山は転校の道を選んだということらしかった。

 葉山‥‥‥。僕は誰にも聞こえないようにそっと呟き、かつて彼が向かっていた机を見た。綺麗に磨かれた机上は差し込む朝日を反射して美しく輝いているが、かつてそこに座っていた葉山が居ないのでどこか寂しそうに見えた。まるで色が塗られていない大きなジグゾーパズルのようだ。美しく洗練されているのに一つだけ足りない。その喪失が皮膜となって物質全体を覆ってしまっている。僕は切なくなって、その机から目を離せないでいた。

「コラ!ちゃんと黒板を見なさい!」

 教室内に甲高く響く教師の注意が、僕を現実の世界に呼び戻した。あのまま見つめ続けていたら、元の世界に戻れなかっただろうと、何故か思った。すみません。と小さく言って振り返り、黒板の方へ身体を向き直した。

 雨が降り出した。降雨の勢いは次第に強くなり、あっという間に太陽を隠し、雷を鳴らした。激しく降る雨は泣いているようにも見え、時折白く光る黒雲は怒っているようにも見える。それを見て僕はなんの根拠も論理性もないが、今の葉山の表情はきっとこんな感じなのだろうなと思った。

 彼は今どこにいて、一体何を思っているのだろうか。枯れぬ涙で傷を今も洗い流そうとしているのだろうか。質問の答えを全て水で流して無に帰してしまいそうな物憂げな空模様を窓越しに見て、僕はそのことを忘れるためにHBの蜻蛉鉛筆を強く握った。


 葉山くんお久しぶりですね。お元気ですか?

僕のことを覚えていないかもしれませんが、とりあえず僕は元気です。

 あのセンセーショナルな事件から25年が経ち、僕はなんと今妻と一人息子を養うために働く父親をしています。意外でしょう?僕もまさか自分が父親になるなんて想像もできませんでした。

 小学生の頃に見えた父親の背中というのは、なんというか巨大で高圧的で、しかし不思議な安心感もあって、現実とは乖離した存在のように思った物です。

 とても自分がそうなれるとは思えませんでした。

けれど一度なってみたら案外、普通の父親を演じられる物ですね。

 息子を褒めたり、時に悪事を働いた時には説教したり、一丁前に父親らしいことをこなしながらなんとか日々を過ごしています。

 僕の息子はまだまだ世間知らずなわんぱく坊主ですが、その一方で勉学に秀でている側面もあって、持って返ってくるテストが軒並み高得点なので、僕も親として息子に少し期待をしてしまっています。突然の比較によって気を悪くさせてしまったら申し訳ないですが、本当に当時の葉山くんを彷彿とさせるほどに抜きん出ているのです。

 あまりにも優秀なので、勉強が平凡程度にしか出来なかった僕と妻はいつも不思議に思い、誰に似たのやらといつも息子が寝静まった後に話しています。

 話はまだ続きますが、僕と妻は息子の教育方針について度々口論を起こすことがあります。妻は息子を地元の公立中学に行かせて、友人達と共にのびのびと心身共に成長してほしいという意見を持ち、僕は息子の才能を腐らせてしまうかもしれないこの場所を離れ、私立中学のハイレベルな環境で彼のポテンシャルをさらに飛躍的に伸ばしてほしいという意見を持っていて、それが衝突し合ってしまうのです。

 妻は僕の意見の中でも特に、ニ年後に控える私立中学受験のために今から友人達と縁を切って塾に通わせ、勉強に集中させるという考えが嫌いらしく、息子が可哀想だとか、息子の自主性を尊重するべきだとか、木を見て山を見ずな非合理的な反論をしてくるのです。

 本当に息子のことを思うのであれば、将来性を見越してより大きな成長が望める場所を選んであげるのが親としての責務だとは思いませんか? 妻は息子を思う母親に酔っています。この間息子にそれとなしに中学受験をするつもりはないか? と聞いてみたところ、妻に毒されたのか、友達と離れて別のところに行くのは嫌だ。と強く拒絶されてしまい、取りつく島もありませんでした。

 まあ、今は勉強ができるだけで自分の将来について何をすることがメリットなのかを客観的に判断できる能力が足りていないので、いずれは僕の考えを理解できるようになるとは思いますがね。

とは言え愚かな妻が息子の明るい未来の実現を邪魔しているのは確かです。

 最近は口論の機会も増えて、起きてきた息子に聞かれることも少なくなくなってしまいました。息子のテストの点数も最近になって少しづつ下降してきたので、口論が悪影響を及ぼしているのかもしれません。

僕は度々息子をきつく叱りつけます。全ては彼の将来を思ってのことです。しかし、妻はそんなことも知らずに事あるごとに息子を庇うのです。

 僕がいくら正しいことを言っても、妻は聞く耳を持ちません。近頃はめっきり息子も僕のことを怖がって、母親にばかり甘えて、家庭内での僕の立場は完全に敵役です。このままでは息子は才能を発揮できずに、妥協の沼に嵌り平凡な人間に成り下がってしまう。それだけは嫌だ。息子に話を聞いてもらうにはもはや正攻法は意味をなさない。

 どうすれば息子の関心をこちらに向けさせることができる。僕は迷った末に、一昨日息子が大事にしていたテレビゲームを息子の目の前で破壊しました。元々息子がテストで高得点を取った際に僕が買い与えた物だったので、破壊すれば0に回帰してまた再びやる気を燃やしてくれると思ったのです。しかしその結果は失敗に終わりました。

 息子は家に帰ってきた妻に泣きつき、激怒した妻はその後息子を連れて実家に帰ってしまったのです。

泣いている息子を抱きしめながら僕を睨む妻は、「あなたは鬼よ」と言いました。僕は息子をために行動を起こしたので、その言葉を否定しました。すると「鬼に人の気持ちなんてわからないものね」と言われ、その足で妻は玄関を出て行き、数分後にはガレージから鳴り響くエンジン音と共に夜に消えました。後に残ったのは僕と、虚しく灯るリビングの電球くらいです。

 僕は状況を整理するためにダイニングテーブルの丸椅子に腰を下ろしました。真っ先に思い浮かんだのは最後に見た妻の表情です。瞳には哀れみの情が宿っていました。四肢を失い路上にて干からびる醜悪な虫を見るような、脳の病によって言葉を紡ぐことすらまともにできなくなった哀れな老人を見るような、妻はそんな目で僕を見つめました。

 僕は苛立ち、その苛立ちを発散するために妻の携帯番号に電話をかけました。日頃から溜め込んできた鬱憤をこの際全部吐き出してやろうかと、その時の僕は息巻いていました。しかし、何度かけても妻は出ません。十六コールほど鳴った後に、留守番電話サービスに接続されるだけでした。僕は携帯を思い切り床に投げ捨てて、家の中をぐちゃぐちゃに荒らし回りました。どうして思い通りにならない。こんなにも子供のことを思っているのに、愛に対して従順なのに。どうして。どうして。どうして。

 僕はとにかく酷い混乱に襲われ、それを鎮めるためにひたすらに暴れたのです。ダイニングテーブルやテレビ台、観葉植物を植えた植木鉢、ありとあらゆるものをひっくり返し、みるみるうちに家族の憩いの場であったリビングはその面影を失っていきました。

 一時間ほど経った頃、僕は疲れ果てて物が散乱するリビングの床に倒れ込みました。いつもの僕であればリラックスできず、発狂してしまいかねないほど汚れた床でしたが、その時の僕は不思議と汚れを生み出している塵や物を見て落ち着いた気持ちになりました。

全身の力が抜けていく感覚、天へ誘われる時のような心地が身体を満たしたのです。暴れ回り、疲れ果てていたこともあってその感覚に身を委ね、僕は目を瞑りました。

 そして僕は気づくと小学校の教室の中にいました。周囲を見渡すと、横にはかっちゃんがいて前には国語の教師、そして後方には葉山くんがいました。僕はそれらを見てここは夢の中で、あの事件が起こった日の四年一組の教室だと確信しました。

 なぜ今このような夢を見るのだろう。そんなことを考えていると、またあの激しい足跡が響き、その後に山姥が教室に入ってきました。そこからは記憶の通りです。山姥は教師を倒し、ゆっくりと葉山くんの席に近づき、そして君のハムスターをストーブの中に入れて焼き殺しました。ハムスターと葉山くんが泣き叫ぶ声が教室内に響き渡りました。

 二つの絶叫を見て山姥は笑みを浮かべていました。

相変わらずとても恐ろしく吐き気を催してしまうほどに悪魔的な光景でした。しかし僕は山姥をずっと見ていて、あることに気づいてしまいました。それは恐ろしいと言う感情以外の感傷を僕が抱いてしまっていることでした。恐ろしいがどこか強い愛を感じる。そんな風に僕は山姥の行動原理に共感を覚えてしまったのです。

 当時の僕だったら恐ろしい以外の感情を抱くことなどできなかったはず、それなのにあろうことか山姥の心情を一部理解できてしまっている。戸惑いました。教室内の混乱などそっちのけで僕の世界に閉じこもり、一人で戸惑いました。かつて恐怖の対象にしていた人物にシンパシーを感じる僕は潜在的に彼女と同類なのか、そんな問いが脳裏で繰り返し反芻され、僕は次第に混乱の渦に巻き込まれていきました。

 ふと山姥を見ると、彼女はもう笑っていませんでした。床に倒れ込んで泣いている葉山くんをただ静かに見下ろしているだけでした。その瞳にはもう二度と戻らない物に対して抱く寂寞と、矮小で惨めな物に対して抱く哀憐が宿っていました。

 とても先ほどまで狂気的な笑みを浮かべていた瞳と同じ物だとは到底思えませんでした。その時に僕はやっとどこから来たかわからなかった共感の出自を知ることができました。

山姥からは愛を感じられたのです。心の底から愛しているのにその伝え方がわからない。普通のやり方ではきっと振り向いてもらえない。だから葉山くんに教育虐待をして、挙げ句の果てにはハムスターを焼死させるという残酷な行為を働いたのだと思いました。

 もちろんこれらのことは決して許されることではありません。断罪されるべき行動です。しかし、全ての行動原理の底にある愛に僕は共感を覚えたのです。

 山姥がハムスターを焼き殺した後の出来事は、過去と寸分違わず同じで、教室に入ってきた数人の教師たちによって取り押さえられた山姥は抵抗も虚しく廊下に連行され、やがて廊下内は静けさを取り戻しました。何の変化もない記憶通りの光景、まるで古い映画のリバイバル上映を観ているようでした。

 しかし、ただ一つ廊下に連れて行かれる寸前の山姥の表情だけが変わっているように思えました。ただの気のせいかもしれませんが、それは実に奇妙でした。怒りと喜びが混ざり合っているような混沌とした表情、とてもこの世の物とは思えないような顔、そんな風に僕の目には映りました。おそらくその原因は山姥の表情ではなく、僕の見方が変化しているせいであると思います。

 なぜ今こんな夢を見ているのか、夢の中の静かな教室の中で僕は考え始めました。理由は色々と浮かび上がりました。現れては消える煮え湯の水泡のように。 消滅と誕生を繰り返し、もう後少しで僕なりのまとまった結論が導き出せると思った刹那、突然夢の世界は前触れもなく消滅し、僕は冴えない現実に戻されました。

 目が覚めても僕は見た夢のことを鮮明に覚えていました。しかし、気を抜くと記憶が少しづつ抜け落ちていく感覚もありました。小さく穴を開けたサッカーボールのようなものと言えばわかっていただけるでしょうか? 意識をすれば忘却していく記憶の流れを止めることは可能なのですが、ふと集中力が切れると途端に完成された形状が崩されていくのです。

 僕はそれがたまらなく怖くて、急いで可視化できる状態にしようと思い、和室の茶箪笥から便箋を取り出して君宛に手紙を書き始めました。それがこの駄文です。記憶を文字に変えて紙に書き起こしていくと、薄ぼんやりだった理解が徐々に固まっていくのを強く感じ、その内に君にしたい質問が一つできました。

 山姥は言わずもがな当時の僕たちにとって恐怖の対象でした。母性が怪物に変わった瞬間を初めて目撃したのですからトラウマになって当然の出来事です。

自分が誰かの親になった時には絶対にあのような化け物にはならないと密かに反面教師にしていたものです。そして時が経ち僕は一人の男の子の父親になりました。息子の味方でありたい。少なくとも息子にとってはいい父親になろうと精一杯努めてきたつもりです。しかし、思うあまりに僕は息子の意思を尊重せず、自分の思い通りにいかないからって子供の宝物を破壊し、その結果、妻と息子は僕の元から離れてしまいました。今も連絡は繋がりません。きっとこれからも繋がらないでしょう。道を間違えてしまったのです。僕はいつの間にかあれほど恐怖し、嫌悪していた山姥の同類になってしまっていたのです。

 恥ずべき事実ですが、これは全く無意識化の問題で、僕はまともな精神状態のつもりだったのにいつの間にか狂気に魅入られていました。まるで山月記の李徴が走っている内に虎になっていたように。

長々とと申し訳ありませんがここで本題です。愛情と狂気の間にある壁は一体どれくらいの厚さだと思いますか? 愛情を支える土台の大部分は理性なので、そう簡単には狂気に変貌しない。と考え、壁は鉄板のように重厚なものと思うかもしれません、しかし、本当は違います。壁は薄皮一枚ほどの厚さしかありません、そして親というのは簡単にその薄皮を破り前者を後者に変えてしまう存在なのです。

 僕はようやく理解できました。あの時の山姥が見せた表情に隠された本当の意味を。親は子を思えば思うほど狂っていき、海が嵐で荒れ狂う中、無謀な航海に出た船のように気づけばもう後戻りができない。

 きっと山姥も苦しかったのだと思います。誰よりも深い愛情を向けているのに対象に理解されず、どんどんと悪い方向に難破していく。

 狂気に魅入られていることで、伝わらない根本の原因に目を向けることができず、どつぼにはまっていく。夢の中で最後に見た山姥の表情は怒りと喜びが混ざり合っていました。今思えばきっとそれらが示す意味は愛情を上手く伝えることができない怒りと、もう報われない愛に縛られる必要がなくなったことへの安堵の二つであると確信できます。

 僕はもう狂気に片足を突っ込んでしまいました。山姥と同じ世界に入り込んでしまいました。僕はもう手遅れだと思います。最後に君に打ち明けることができてよかった。君だけは親になっても、狂人にならないでほしい。山姥の血を引いている分、君は危険です。

どうか僕みたいにならないでほしい。そう強く願っています。さようなら


 手紙を書き終わった後、僕は酷い疲労に襲われた。脳みそに直接鉛を流し込まれた感覚、視界が左右に揺れてもやがかっている。

 瞬きを四度行った。それでどうとなるわけではないだろうなと思ったが、意外にも効果はあり、鉛の質量が低下したような気がした。

 僕は書き上げた手紙をもう一度じっくりと読み直す。ところどころに見られる拙い文章表現の数々、そしてメッセージが曖昧にしか伝わらないような中途半端な比喩、秀才だった葉山くんが見ればきっと一笑に付されてゴミ箱に投げ捨てられるだろう。

 それでもいい。というかそもそも僕は葉山くんの現住所や郵便番号などの情報は何も知らない。はなから届かない想定で書いた手紙なのだ。

 瓶に詰めた手紙を海に流し、遠い国の友人に届くことを願うのと同じくらい行き場のない思いだが、どうしても書かずにはいられなかった。夢で得た気づきを忘れない内に言語化しておきたかった。

 そして願わくは誰かに伝えるという形でそれを行いたかったのだ。この手紙はいつの日か誰かの目に止まることがあるのだろうか。その時が来ても僕は多分、世界に存在していないだろうけど。

 台所に向かい、僕はシンク下の引き出しを開け、その中にしまってある何本かの内、最も鋭利なものを取り出した。きっとあるだろう。しかし、僕が読んでほしい人には読んでもらえず誤った人の目に止まり、誤った解釈をされるだろう。

 本懐を遂げられなかった場合、その人間は醜い怨霊と化すのだろうか。オカルトには興味がなかったが、少しでも勉強しておくべきだったな。

 こんな時にくだらない後悔をしているなんて、僕は案外余裕なのかもしれない。心の空き容量が多い内に全てを取り行ってしまおう。

 うん、きっとそれがいい。

 最後を飾る言葉はどんな物にしようか、クサくて気取った言い回しじゃない方がいいよな。なるべく簡潔に、かつ的確な言葉選びを心がけよう。グッドバイ。

 僕は選択肢の中で最も適切であると判断した言葉を呟き、いい終わると同時に電球を反射して鈍く光る刃の先端を喉元に突き刺した。瞬間、血がスプリンクラーのように吹き出し、激しい痛みが全身を駆け巡った。気を失いそうになるほどの痛覚に襲われながらも、僕はそれに耐え喉元に突き刺さった包丁を抜き取ろうとした。

 しかし、身体はとうに僕の言う通りに動いてくれなくなっており、包丁の柄を握ることすらみならない。

薄れていく意識の中、やがて足腰にも力が入らなくなり、僕は物が散乱する床に倒れ込んだ。

 靄がかる視界で倒れた机や椅子が自分の流血に染められていく様を見て、僕は死の訪れを実感した。

 冴えない末路だな。

 今の僕の姿をかっちゃんや葉山が見たら、きっとそう言うだろうな。僕だってそう思う。実に哀れな末路だ。突発的な自死、何が僕にそれを選ばせたのだったっけ。流血が作った小さな水たまりに溺れながら、僕は考えたが上手くまとまらない。どうやら血を流しすぎたようだ。

 不思議なことに僕の喉の痛みは徐々に和らいでいく、死の直前になると脳がリラクゼーション効果のある物質を大量に分泌するというのはどうやら本当のようだった。身体全体がほんのりと暖かい、真昼の草原の上で穏やかな春風に身体を撫でられるような心地よさに包まれている。

 ああ、僕はまもなく滅びる。死ぬ。消える。

 最後に僕を送り出す感覚が苦痛じゃなくて本当によかった。ありがとう。そしてごめんなさい。

 左の瞼が閉じた。もう持ち上げる力も残っていない。いよいよだ。そう悟ると、微かな恐怖と遥かな安心感のような心地が僕を襲った。

 やはり死ぬことは恐ろしいが、それ以上に生きてこの先自制心の効かぬ怪物になって後悔する方が怖い。

 右の瞼も徐々に閉じ始め、眼前が暗闇に満ちていく。当たり前のように広がっていた光はもう二度と手に入らないことを悟った。


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