◇幕間2
◇ 2024年 12月28日
夜の静けさが深まるころ、畢木灰里は旭と三城が眠りついたのを確認するとひっそりと家を抜け出した。
目的があるわけではない。ただ、なんとなく夜の街をふらついている。正直、彼らといるとどうにも落ち着かない。
それにしても──三城は幽霊にも関わらず呑気に眠っていた。本気でどうにかしたいと思っているのだろうかあれは。
街灯は点いているが、東京の繁華街ほどの明るさはない。暗闇に沈み込むようなこの町の夜は、どこか落ち着く。
居心地というものを意識したことはなかったが、もしそれを定義するなら──ここは悪くない場所だった。
けれど、居心地の良さを感じる帰る家なんて、彼にとってはどこにもない。
そもそも帰る場所もなく暇だから、あんな幽霊に付き合ってやっているだけだ。
三城時玄。最初にあいつが話しかけてきたときは、「何言ってんだこいつ」としか思わなかった。いきなり「自分は幽霊だ」というなんて最初は頭おかしい奴だと思ったし、まともに取り合うつもりもなかった。適当に流して終わるはずだった。
……だが、他の人間があいつをすり抜けていく様を見て、本物の幽霊だとわかったとき、幽霊だという事実に驚きはしなかったが、視えないはずだったものが視えたことで、妙な寒気がした。なぜなら──。
十年間、俺は幽霊を視ていなかったのだから。
別に視たくもなかった。できることなら、ずっと視えないほうがよかった。幽霊なんて、関わったらろくなことがない。だから、放っておけばよかったのに。
──それなのに、必死になっているあいつを見たら、どうしてか突き放せなかった。
気づけば、橋の中央に立っていた。ちらほらと往来する車が過ぎ去っていくが、この時間だからか歩行者は見当たらない。灰里は橋の外へ視線を落とす。
上流か下流かの見分けはつかない。遠くには工場やビルのものらしき灯りがちらちらと瞬く。向こうの世界は普通に生きてる人間のものなのに、自分だけ取り残された感じがした。
下を覗けば、川の流れが墨汁のように広がっている。水音はほとんど聞こえない。ただ黒い闇が流れているだけに見える。全てを飲み込むような深い闇──。
ふと考える。
──こんなところで死ねたら、楽になれるのか。
……いや、それはない。
もし、ここで飛び降りたとしても水面に全身が打ち付けられ、苦しいまま海へ流されていくだろう。底に沈んだとして、どうなるか想像したくもない。
正直『もうひとりのあいつ』のことはだってどうでもいい。
あいつらには何も期待しないし、何も求めない。
──生きる意味など、何もない。
いつからだろうか、生きることも死ぬことも諦めてしまったのは。
そんなことを考えていると、バサリ、と乾いた羽音が響いた。
反射的に顔を上げる。闇に紛れて黒い影が横切る。鳥だ。大きさ的には恐らくカラスだろう。街灯から舞い上がり、灰里が歩いてきた方向へと飛び去っていく。その尾を目の端で捉えながら、彼はまた歩き出した。
行き場を探すように、当てもなく。
年末の冷たい夜風が肌を撫でる。しんと静まり返った夜の街は、どこまでも広がる虚無のようで、歩いても歩いても、どこへも辿り着けない気がした。心の奥底に蓋をしていたことを思い出しかけ、それを紛らわせるように、ふと、考える。
──あいつは見えるのに、それ以外の幽霊は視てないし、経験上視てないのではなく、恐らく視えていない。
どういうことだ?
幽霊は関わればろくなことにならない。だからこそ、視えなくなった十年間は悪くなかったはずだ。それなのに、あいつだけが見える。
何か理由があるのか? 偶然なのか?
どれだけ考えても答えは出ない。
だからといって、わざわざ探る気にもならなかった。どうせ、知ったところで、何かが変わるわけでもないのだから。
ため息をつき、灰里はポケットに手を突っ込んだ。吹き付ける風がひどく冷たく感じた。
夜の街を、ただ歩く。かなり遠くまでやってきたように思う。
行き先は決めていない。ただ、なんとなく。
そんなふうにぼんやりと歩いていると、背後に気配を感じた。
足音。一定のリズムで近づいてくる。
気のせいではない。確実に誰かがついてきている。
……まあ、どうでもいいか。
気づいていないふりをして、少し早めに歩き続ける。何をされても大して困ることはない。放っておけば、そのうちいなくなるだろう。
しばらくすると、足音が変わった。
──駆けてくる音。
思わず足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、ジャージの上に目立つダウンを着込んだ、少しだけ肩で息をしている旭だった。
「おまえ……何がしたいの?」
問いかけると、旭は涼しい顔で笑った。
「うーん、夜のランニング?」
「は?」
こいつが何者なのか、よくわからない。
やたらとフランクに接してくるが、自分のことは何一つ話さない。まあ、それはお互い様だが。
危害を加えてくるわけじゃないから放置しているが──どう考えても、怪しい。そもそも放置していいのか?
「なあ、こんなとこで一人で何してたん?」
「別に」
「夜の街を気ままに散歩? ええやん」
「……」
「んじゃ、せっかく会ったし、俺も付き合ったるわ」
せっかく、というにはあまりに話ができすぎているが、そのことを問い詰めたところで灰里には関係ない。
「つーかさ、灰里はお巡りさんに補導されへんの?」
旭が気軽な調子で問いかけてくる。
「俺がそんなガキに見えるか?」
「見える見える~。いや、普通に補導対象やろ」
悪びれる様子もなく言い放つ旭に、灰里はわずかに眉を寄せた。いつものように「さあな」と流してもよかったが、面倒くさくなり、適当な答えを返す。
「おまえよりは歳上」
「え? マジで!?」
旭は意外そうに細い目を瞬かせ、片眉をあげる。
「おぉう……そうやったか〜……ごめんな、こども扱いして」
「殺すぞ」
「おー、怖」
怖がるふりをする旭を横目に、灰里は心の中で「あー、めんどくさ」と頭を抱える。
「で、灰里くんは気づいてると思うけど、家の鍵開いてたから危ないでー。次から気いつけてやって言お思って来たんよ」
冷たい夜風が肌を撫でる。旭は軽い口調で言ったが、こちらが警戒しているのはとうに承知している様子だった。
「せめて開けるのは自分の家だけにしとき?」
「自分の家など、ない」
思わず口を滑らせた。言った瞬間、余計なことを言ったかもしれないと自覚する。だが、旭は特に驚くでもなく、空を見上げて「そうなんかー」と呟いただけだった。深く突っ込むつもりがないのか、単に興味がないのかはわからない。
「本当、ここ、オリオン座が綺麗や」
無理やり話題を逸らしたな──そう思いながら、つられるように空を見上げる。さっきまで地面しか見ていなかったせいか、視界いっぱいに広がる星々がやけに鮮明だった。今まで気にしたことがなかった。ふと、見惚れている自分に気づいて、目をそらした。
「東京おったら見えやんもんな、こんな景色」
旭がぽつりと呟く。
──少し、居心地が悪い。けれど、こうして星を眺めるのも悪くはない。
「まあ、夏なったらここでもあんま見えやんけど」
「そうなんだな」
どこか他人事のように相槌を打つ。
こいつは何か隠している。けれど、そこに踏み込む必要はないのだろう。そう思った瞬間──
「帰ろっか、野良猫ちゃん」
軽い調子の言葉に、灰里の眉間がわずかに寄る。
「しばく」
ああ、やっぱり殴っとくべきだった。




