◇第20話
◇
「なあ、いるんだろ」
灰里は朝食も摂らず、道端の死角になった場所に立っている。
通りすがりの人間には決して気づかれない、小さな陰。そこで彼は、誰にともなく──いや、ハイリに向かって語りかけていた。
けれど、返ってくる声はない。
冬の朝の冷えた空気だけが、髪や頬をかすめていく。
血にまみれた、あの帽子は――もう手元にない。
「……」
昨日から、妙な違和感が胸に残っていた。
幽霊だった三城ははっきり視えたのに、佐藤は視えなかった。
――いや、厳密には、情けない声だけが耳に届いていた。
それだけじゃない。三城以外の幽霊を一度も視ていない。そう、この三日間。
そして――三城が人間に戻った今。
俺の目には、何も映らなくなってしまった。
偶然のはずがない。
ハイリのことだ、何か目的がある……? 何故三城だけを視せた? いや、あいつのことだ。気まぐれと言っても不思議でない。
たとえどうであっても、今までのことをぶん殴ってやらなければ気が済まない。
旭は「いない」と言っていたが、あれの言葉を素直に「はいそうですか」と、信じられるわけがない。
……旭といえば。
目覚めた直後、「これ持ってて」と鏡を渡された。何かは察したし、そこまではいい。
だが、あの場のあの空気はなんだったんだ。最終決戦みたいな雰囲気が漂っていたのに。結局あの巫女は――呆気ないほど、あっさりと消えてしまった。
佐藤も佐藤だ。なぜあんなに上手いこと話が運ばれてるんだ。
もしかしたら、すべて旭自身の蒔いた種なのかもしれない。
けれど、解決してしまった今となっては……もう、どうでもいい。
それより──
あいつは幽霊が視えても、周囲に理解者がいた。神職で視える父、視える家族に憧れる妹。
その光景が少し羨ましかった。
もし俺にも、そんな理解者がいたら――。
ありもしない未来だと分かっているのに、つい想像してしまう。
どうせ、今は何も視えない。考えたって仕方ない。
「……なんで答えてくれないんだよ」
返事はない。
ただ、冬の風だけが応えるように吹き荒れ、灰里の頬を切り裂くように冷たかった。昨日、佐藤に殴られた場所がじわじわと疼く。
試しに自分のこめかみを拳で軽くぶつ。けれど、そこには何の感覚もなかった。
灰里は近くの石段に腰を下ろした。
冷えた石の感触が衣服越しに伝わってくる。
「……昔のことを思い出すな」
あの時は、色々と持ってきては一緒に食べていた。
味というものを忘れてしまうには、十分すぎるほどの年月が過ぎている。
覚えているのは、吐血したときに口の中に広がった鉄の味だけ。
――久しぶりに、ほんの少し口にしてみたいかもな。
それはそうといつか、もう一度姿を見せろよな。
……また、何かを一緒に分け合える日が来ればいい。
そんな思いが胸の奥をかすめた、そのときだった。
足もとに一羽のカラスが降り立ち、こちらをじろりと見上げる。
挑発するように首をかしげ、カア、と一声。
まるで「なに感傷に浸っとんねん」とでも言いたげに。
次の瞬間、羽音を残して飛び去っていった。
「猫ちゃん、あそこにおったわ」
旭の軽口が、不意に耳を叩いた。
猫ちゃん――その響きに、妙に神経を逆なでされる。
「……殴るぞ」
気づけば、拳を握りしめていた。
半分は冗談。けれど、もう半分は本気だった。
言葉より先に腕が動く。
しかし振り抜いた拳は、空を切る。
旭が身をひねって、あっさりとかわしたのだ。
「おっと、こわ。朝から元気やなあ」
冗談にして流す気満々の笑み。
灰里の胸の奥で、苛立ちがさらにざらつきを増した。
──それに、かわされたことが、ちょっとだけ恥ずかしい。
殴り損ねた自分に腹が立ち、その感情に気づいてなおさら下唇を噛み締めた。
◇
三城としてはもう一日滞在を延ばしたい気持ちだったが、旭に「今日のうちに帰った方がいい」と促され、東京へ戻ることにした。
三が日に入れば予約は取れなくなるし、三城の仕事始めにも間に合わなくなる。
──余韻もくそもない。
けれど、かといって南のほうに足を延ばさなければ観光できる場所もないらしい。
行きと同様、三人で必死にスマホ画面を睨みつけ、指先で叩き続ける。
最も行きは灰里ひとりだけだったが、今は三人揃っての参戦だ。
こうして並んでいると、不思議と小学生のころを思い出す。
友人の家で、肩を並べてゲーム機のボタンを連打していたあの体勢。
ただ画面を叩いているだけなのに、なぜだか懐かしくて、胸の奥が少し緩んだ。
「灰里君も東京行くん?」
「ああ」
灰里はいつも通りの素っ気なさで返す。だが、なんとなくその横顔が遠く見えた。
やがて三人とも席を確保し終えると、ほっとしたように顔を見合わせた。
行き先は同じだが、席はバラバラだ。もう会話を交わすことはないだろう。
だから俺は、その場で灰里と旭に小さく別れを告げた。
──またいつか来れたらいいな。
その直後、全身を締めつけるような感覚が押し寄せた。
肩と肩が触れ合い、吊り革につかまる手の力が抜ければ、すぐに人の波に押し流される。
胸の奥にまで、押し込まれるような重さ。
幽霊のときには決してなかった圧迫感だ。
息苦しさと同時に、嫌でも思い知らされる。――俺はもう、生きている。
……いや、こんなときだけは、幽霊に戻れたらよかったのにな。
人混みをすり抜けて座席に座るくらい、あの頃なら精神的嫌悪は置いといて簡単だった。
もっと幽体で遊んでおけばよかった──。
そんな後悔を抱く羽目になるとは、思いもしなかった。
そうして、駅で大阪らしいものを買い込んだ。
袋の中から漂うソースの匂いが、少しだけ旅の終わりを実感させる。
賑やかな土産物売り場を離れると、人波のざわめきが途端に重くのしかかってきた。
ひとりで歩く足取りは、さっきまでの三人とは違って妙に心細い。
そんな気持ちを振り払うように、俺は予約した席を探す。
人波をかき分け、指定された番号を確かめながら歩いていると──
「とっきーも同じ席やん」
振り返れば、大きなビニール袋をいくつも抱えた旭が、にやりと笑って立っていた。
さっきまで別れを告げたはずなのに。
……結局こうなるあたりが、あいつらしい。
ふと視線を横にやると、窓際にはすでに灰里が腰を下ろしていた。
行きのときと向きが逆なだけで、同じ席。
偶然のはずなのに、どこか必然めいていて──気づけば、三人並んでいた。
「せっかくやから、一緒に食べようや」
そう言って、旭はビニール袋の中身から二つも三つも弁当を取り出した。
どんだけ食うんだ。
「灰里も食べる?」
おいおい、また断られるに決まってるだろ。
俺は心の中でそう突っ込んだ。
──けれど。
灰里は迷うことなく、旭が大量に買い込んできた弁当の中から、塩むすびに手を伸ばした。
「もらうぞ」
灰里はじっくり咀嚼する。
もぐもぐと音を立てるわけでもなく、ただ静かに噛みしめていた。
――まさか本当に食べるとは。
俺は少し拍子抜けして、しばらくその横顔を眺めてしまう。
窓の外を流れる冬の景色と、塩むすびを食う灰里。なんだか妙にちぐはぐで、でも不思議としっくりきていた。
「……悪くねえな」
しみじみ噛みしめているのが伝わってくるのに、出てくる言葉はどこか照れ隠しみたいで。
俺は思わず、口元が緩んだ。




