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ハイリの存在証明  作者: 黒津ケイ


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◇第19話

 ◇ 2024年 12月30日


 息をつく間もない、怒涛の三日間だった。

 ……いや、実際のところ俺は三日間、息なんてしていなかった。なんせ死んでいたんだからな。


 とにもかくにも、身体を取り戻せたのはよかった。

 ただ、そのあとが問題だった。

 宇宙旅行から帰還した宇宙飛行士かと自分にツッコミを入れたくなるほど身体が重く、長旅のあとにだけ気づく自宅の独特な匂いのようなものが鼻を突き抜けて離れない。

 そんな違和感が、目を覚ますまで延々とまとわりついていた。

 ──もっとも、ここは俺の家ではなく旭の家なのだが。

 幽霊だった頃には見過ごしていた。畳の縁に顔を近づけると、乾いた藺草の香りがかすかに立ち、年月を吸い込んだ木材の匂いが空気の底に沈んでいる。

 障子紙には冬の冷気が染みついていて、鼻先をくすぐる。台所から漂うのは、味噌と醤油の入り混じった匂い。漬物の酸味まで加わって、この家独特の層を成していた。

 触覚も同じだ。ちゃぶ台に肘をつけば、漆の膜の下に潜む木目のざらつきが指先を引っかく。

 座布団に沈めば、中綿の偏りや縫い目の固さまでもが尻に伝わる。

 湯呑みを握れば、熱が掌を突き抜け、指先から脈打つように返ってきた。

 幽霊のときはただ通り抜けるだけだったのに、いまはすべてが「触れてくる」。

 そのせいか、肉体を取り戻してからというもの、三日三晩徹夜したあとのような疲労が一気に押し寄せてきた。正直、幽霊でいた頃のほうが楽だったんじゃないかと思うくらいだ。

 それでも、湯気の立つ味噌汁を欲望のままに流し込めば、舌を火傷しそうになって思わず顔をしかめる。だが、ああ、これだ。熱いものを熱いと感じる、その当たり前が妙に嬉しい。

 気がつけば俺と旭は、彼の部屋のちゃぶ台を挟んでだらけていた。皿の上には漬物。箸を伸ばすたび、塩気が舌に染み、久々に摂る塩分が身体の隅々まで行き渡っていくのがわかる。


 対する旭は、眉間に深い皺を刻んだまま、白米を苦虫でも噛み潰したような顔で口に運んでいた。

 どう見ても、まともに眠っていない顔だ。瞼の下にはうっすらと隈が滲んでいる。

「……なんかあったのか?」

 恐る恐る問いかけると、旭は箸を動かしたままぼそりと答えた。

「別に。ただ――まあ、ちょっとそこらの幽霊に憑かれてな。夜通し、泣き言をぶつぶつ聞かされとったんや。要するに、憑かれて疲れてんねん」

「は?」

 俺は思わず箸を止めた。ご飯粒が、ぽとりと茶碗に落ちる。

 その直後、旭は打って変わったように、寝不足なんてなかったかのような明るい声色になった。

 何を言い出すかと思えば――そんなダジャレか?

 ──いや、待て。その幽霊って、まさか……。

「佐藤か?」

 口をついて出た俺の問いに、旭はあっけらかんと笑った。

「その辺の雑魚や。とっきーには関係ない話」

「いやそれ絶対、佐──」

「とっきー、知らんほうがええことなんてこの世に山ほどあるんや」

 旭は軽く笑っていた。けれど、その笑顔は作りものだとすぐに分かる。細い目の奥にだけ、夜を引きずった疲れが残っていたからだ。……わざと俺に気づかせたんだろう。

「でもな、これだけは言わせて。……ほんまに今すぐこいつ、どうにかしてくれ」

「どうにか、って言われたって、俺には何も視えないが」

「せめて、暴言吐いてくれ」

「き、急に? ……胡乱糸目狐男」

 椀の上で、味噌汁が小さく波のように揺れた。旭の眉間が一瞬だけぴくりと動く。

「俺にちゃうわ!」

 即座に突っ込みを入れるその声に、少しだけ本気の苛立ちが混じっていた。

「佐藤に、や。言いたいこと一つや二つくらいあるやろ」

「うーん……。ちゃんと身体洗ってくれ!」

「もう幽霊なってもうてんねん!意味ないわ」

 なんだこの漫才。……いや、冗談抜きで、ちゃんと洗ってほしい。戻ったときなんて、風邪ひいた後みたいにひどい臭いだったんだ。

「せや、灰里にどうにかしてもらお。ていうか、あいつどこ行ったんや」

 旭は茶碗を置いて、あたりを見回すように首をひねった。

「そういや、さっき外出ていったぞ」

「また、あいつは……今日さっさと帰ろうと思ったのに」

 旭は額に手を当て、ため息をひとつ落とした。その仕草は呆れとも、心配ともつかない。

「帰るって、ここ実家ですよね?」

「東京帰るで~」

「……今日は三十日だから、何も予約取れそうにないが」

「やったらせっかくやから大阪行って観光しよ? 難波行こ、楽しいで」

「父親が怖いのか?」

「うっ……」

 箸の動きが止まり、旭の笑みが固まった。軽口を飛ばしていた空気が、そこでほんの少し沈む。

 わざと聞いたわけじゃない。ただ口をついて出ただけなのに、旭の肩がぴくりと揺れるのを見て、俺は茶碗を持つ手を下ろした。

 そのとき、ちゃぶ台がガタガタと揺れた。茶碗の中の味噌汁が小波を立てる。……佐藤だ。見えもしないのに、あいつがわざと揺らしているのが分かった。

 一息置いて、旭が低く吐き捨てる。

「うるさいわ。ボケナス! ……ごめん、とっきーにやないよ」

 改めて思う。一般人から見たら、幽霊ってこういうふうに“現象”としてしか映らないんだな。声も顔もなく、ただちゃぶ台を揺らす「何か」として。

 ――昨日まで俺も、その「何か」側だったわけだが。


 ◇


 三城は食器を片付けようと、ちゃぶ台から立ち上がり台所へ向かった。

 廊下で舞とすれ違う。そういえば、あの後どれだけ旭が揺すっても、舞は玉砂利という名のベッドから起きようとしなかった。

 今はようやく目を覚ましたのだろう。髪を少し乱しながら、柄のついた可愛いパジャマに身を包んでいる。――意外と子どもっぽい。

 だが、すれ違いざまにこちらを見た瞬間、舞の顔がぱっと真っ赤に染まり――

「ぎゃああああっ!」

 甲高い悲鳴が廊下に響いた。

 そりゃそうだ。旭の家に、見知らぬ男が食器を片付けてるんだから。どう見ても不審者だ。

「佐藤さん、なんでいるんですか!?」

 あー……。そういや、そうだったな。舞から見りゃ、俺は佐藤だった。くそ、あいつめ。

「人違いじゃないか? そんな奴知らんなあ」

 口に出した瞬間、自分でも苦しい言い逃れだと分かっていた。

 これが会社で起きてたらと思うと――ぞっとする。

 ……いや、待て。実際に起きたんだった。

 佐藤が、俺の身体で俺の会社に行って、挨拶もおぼつかず、ろくに仕事もできず、同僚や上司に怪訝な目を向けられていた。

 その光景を思い出すだけで、胃の奥が冷たくなる。

 正月明け、仕事始めの日には謝罪と一緒に菓子の詰め合わせを持っていかなければ。

 ……いや、詰め合わせ一箱で足りるか? 二箱か? 課の人数を考えたら三箱か? 

 この場合は中身はこの辺の土産でいいのか、それとも虎屋の羊羹クラスじゃないとダメなのか。

 想像するだけで、胃がさらに痛んだ。

 笑いごとじゃない。本気で、ここで取り返さなければ――社会的死が訪れる。


 きりきりと胃を押さえていると、足もとに柔らかい気配が寄ってくる。

 とことこと近づいてきた白い犬――シバ。

「……シバ!?」

 思わず声が漏れる。

 だって、あいつはあの時、確かに消えていたはずなのに。

 嫌がらないよう、そっと手を伸ばす。ふさふさの毛並みが掌に触れ、じんわりと暖かさが広がった。

 身体を取り戻して初めて触れるシバ。その柔らかさに胸の奥が緩む。

 温もりが胸の底の冷えを溶かしていくようで、思わず息が漏れた。シバは尻尾をパタパタとはためかせている。

「無事だったか……よかったな」

 気がつけば、ずいぶん長いあいだ撫で続けていたらしい。

 ふと顔を上げると、舞が廊下の端からこちらを見ていた。

 怪訝そうな視線。まるで「なにやってんの、この人」と言いたげで、俺は慌てて手を離した。舞は軽くこちらを一瞥すると、そのままどこかへ行った。


 いつの間にか旭も降りてきていたようで、遠目からこちらの様子を見て、くすくすと笑っていた。

「旭、シバは一体何なんだ」

 真剣に問いかけたつもりだった。だが旭は少しも間を置かず、あっさりと答える。

「俺の相棒」

 軽い調子。核心には触れさせまいとする気配。

 ――こいつは、嫌でも躱してくる。

「相棒、ね。……それで済ませたいんだろ。けど、本当は違うんじゃないのか」

 旭は答えず、ただ口の端を上げた。

「ところで、灰里探しに行かん?」

 まただ。気づけば俺は、いつも旭に流されてばかりだ。

 ──けれど、それはそれとして。灰里のことは、やはり気になって仕方なかった。


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