◇第18話
◇
三城は、巫女の安堵した顔について考えていた。
勝ち誇りでも嘲りでもない。だが、その意味を測りかねて、胸の奥がざわついた。
「どうしたの? もう終わったでしょ?……さっさと封印しなさい」
押さえ込まれた巫女は、もう抗う様子もなかった。ただ身体を委ねるように横たわり、旭に押さえられている。
その唇には、かすかな笑みとも、諦めともつかぬ色が浮かんでいた。
だが旭は、それを無理やり抑え込むでもなく、逃さない程度に押さえつけているだけだった。
「……落ち着け。おまえと話がしたいんや。なんでこんなことしたん……?」
怒りではない。どうしようもないほど真剣な響きが、その声に宿っていた。
だが、なぜ今、話など──? 俺には理解できなかった。
「さっき言ったじゃない。聞いてなかったの?」
「そうやない」
「……しつこい。だから人間って嫌い」
旭は押さえ込んだまま、巫女の瞳を真正面から見据えていた。
二人のやりとりは俺の知らない場所で進んでいく。理解が追いつかないまま、ただ胸の奥だけがざわついていた。
「……おまえ、ずっと何を見てきたんや。何を感じて、こんなことしたん」
問いかけというより、掘り返すスコップのようだった。答えを無理やり引きずり出そうとしているように見えるのに、不思議と責める響きはなかった。
「見てたのは、あなたたち人間の醜さ。……理不尽と嘘と、そればかり。それ以上、聞いてどうするの?」
「言いたくなかったらそれでも構わんけど、言ってくれな何もわからん。俺は神でもなければ全知全能でもない」
旭の声は、責めるでも同情するでもなく、ただ真剣だった。
「ふん……なんで察せないの? あなたの妹のことなのに」
一瞬、場の空気が止まった。
灰里は拳を握りしめたまま、一歩も動かない。
爪が掌に食い込んでいる。怒りか、それとも別の感情か――俺の胸までざわつかせた。
「……舞は隠そうとするし、おまえはいじっぱりやし……なんもわからんに決まってるやろ」
俺は知っている。この男が本当に「察していない」なんてことはない。まして妹のこととなれば。
――わかっていながら、それでも言葉にさせようとしているのか。
かくいう俺は、何があったか予想はできても、断定できるほどの材料を持ち合わせていない。
「だったら一生わからないままでいなさいよ。私は言いたくない。……だから、さっさと封印してよ!」
一瞬、声が幼く震えた。かつて普通の少女だった頃の面影が、そこに滲んでいた。
旭は何を思ったのか、押さえていた手をゆっくりと手を放す。顔はこちらからみえない。巫女もまた、逃げる素振りもなく、玉砂利に膝を沈めて座った。痛みを受け入れるように、ただ静かに。
今は割り込むべきではない――それだけは直感していた。だからこそ、彼らの言葉の意味を噛みしめるように耳を澄ませるしかなかった。
彼は彼女と同じ高さで視線を合わせ、静かに言葉を継いだ。
「……封印したいんやない」
低く、しかしはっきりと言葉を選ぶように続ける。
「おまえのやったことは許されることちゃう。でも今まで辛かったんやろ。せやから……せめて、おまえが背負ってきた痛みごと、ちゃんと終わりにしたいんや」
舞の身体から解き放つ――旭の言葉は、そういう意味なのだと俺は直感した。
巫女はしばらく目を伏せたまま、答えなかった。
境内を渡る夜風の音だけが、長い間を埋めていく。
けれどその肩がわずかに震えている。
「……っ、ずっと辛かったの……!」
かすれた声。さっきまでの余裕や冷たさはどこにもなかった。
「……嫌だった。何もできないまま、この子の目を通して全てを見続けるなんて……!」
言葉は次第に崩れていき、嗚咽が言葉を溶かしていった。
やがて、声にならない泣き声だけが境内に響く。
その姿は、もう“災いの巫女”ではなかった。
ただ、あまりにも幼く、あまりにも無力な、一人の少女だった。
◇
長い沈黙の時間が流れた。
冷えた夜気の中、嗚咽の音が少しずつ細り、やがて呼吸に紛れて消えていく。
残ったのは、境内の静けさと、涙で濡れた巫女の頬だけだった。
その目は赤く腫れているのに、どこか落ち着いた色を帯びているように見えた。
「……その……巻き込んでごめんなさい」
言い訳でも懺悔でもなかった。ただ、かつて普通の少女だった頃の声が、ふと零れ落ちただけだった。
「……あなたたちに理不尽を背負わせたのは、間違いだった。私だって、望んでたわけじゃなかったのに」
その言葉に、胸の奥がひどくざわついた。
俺は数日間、望まない理不尽に引きずり込まれてきた。
なのに今、謝られてしまったら、俺はどうすればいい。怒りを吐き出すこともできず、赦す器量もないまま――それでも、その謝罪が俺の中のどこかを揺らしていた。苛立ちの奥に、どうしようもなく理解してしまう自分がいる。
思わず口を開きかけて、すぐに閉じた。言いたいことは喉まで込み上げているのに、声にならない。
「……急に謝られても困る。けど、今更責める気にもなれない。……少しは、楽になったんだろ」
なんとか捻り出した言葉を紡ぐと、俺は口を噤んだ。
巫女は返事をしなかった。ただ、ゆっくりと視線を落とし、静かに目を伏せた。
それだけで十分だった。
「……もう大丈夫か?」
旭のその声には怒りも焦りもなく、ただ確かな決意だけがあった。
「ちょっと待って。……あと一つだけ、聞かせて」
巫女が顔を上げた。視線は、ずっと沈黙を貫いている灰里へと向かう。
赤く腫れた目の奥には、強さではなく、消える前に残された者へ縋るようなかすかな弱さが揺れていた。
「……彼に、一つだけ……聞きたいことがある」
震える声で、言葉を探すように続ける。
「さっき……“生きる理由ができた”って言ってたけど……もし、それもなくなったら……あなたは、どうするの?」
「わからない」
彼は迷いなく言い切った。
それは投げやりでも逃げでもなく、本当にそうなのだろう。
……そんな簡単に答えが見つかるはずもない。俺だって、ずっと考えてきたわけじゃない。
「──でも、それでも、無理やり生きる理由を見つけて、精々生きるしかないんだろう」
静かに告げた灰里の声は、乾いているのに、不思議と温かさを含んでいた。
諦念なのか。それとも、まだ続けようとする意志なのか。俺には判断がつかなかった。けれど、俺自身がその答えに縋りたいと思ってしまったのも事実だった。
「そっか……。それで十分なのかもしれないね」
巫女は小さく笑った。掠れた声は、もう泣き腫らした目を隠そうともしない、ありのままの少女のものだった。
力を失った肩がようやく落ちて、長いあいだ張りつめていた糸が切れたように見えた。
彼女にとっては、その言葉ひとつで十分だったのだろう。
「もう心残り、ないか」
旭の声は低く、けれど確かめるように柔らかかった。
巫女は短く息を吐き、ゆっくりと頷いた。涙はもう流れていない。
その横顔には、不思議なほど穏やかな光が宿っていた。
旭は静かに天影鏡を持ち上げた。銀の光が境内を照らし、玉砂利の粒まで白く浮かび上がる。
巫女はその光に目を細め、かすかに微笑んだ。
「……ありがとう」
その声は、諦めでも恨みでもなく、やっと安らぎに触れた者の声だった。
風が頬を撫でた。ひどく冷たいのに、妙に心地よかった。俺自身の肩からも、何かが落ちた気がした。救われたなんて言葉は信じたくなかったのに、身体は勝手にそう感じていた。
灯籠の炎が揺れ、舞の身体から緊張の気配がほどけていく。
ただ、深い眠りに落ちるように、彼女はゆっくりと目を閉じた。
俺の目には何も映らなかった。けれど肌を刺す夜気がふっと和らぎ、解き放たれたものが確かにあったと、身体の奥が告げていた。
境内の空気がひとつ軽くなり、夜気に静けさだけが残った。
「……あーあ。死に損なった」
まただ。こいつはいつも、そういう言い方しかしない。……それでも、その言葉に救われたのは俺も同じだった。




