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ハイリの存在証明  作者: 黒津ケイ


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◇第17話

 「殴られて血を流したのに、まだ生きてるのね。痛かったでしょ? 可哀想に」

 舞の声を借りた巫女がからかうように言った。その声は少女のものなのに、幾星霜もの時を経た魂の疲弊が滲んでいる。

「死ねないからな」

 灰里の返事は短く、乾いていた。まるで、自分に言い聞かせるように。

「ところで、教えてほしいことがあるの」

 無邪気な声音なのに、その奥には底なしの闇が広がっている。まるで、古井戸の底から響いてくるような、不気味な声。

「死ねないのはわかったけど、どうして死にたいの?」

 ただ、重く、湿った靴音のようなものが、ざっ、と石畳を擦る音だけが、この異常な静寂を切り裂いた。

「なぜそれを聞きたい」

「興味、かな。私も死んではいるけど、早く消えていなくなりたくて」

 その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。

「だってもう、何回も同じことの繰り返しで、疲れちゃった」

 ああ、そうか。恐らくこいつの動機は……復讐でも、支配でもない。

 ただ、純粋な「終わり」への渇望。

 きっと長すぎた時間に魂が摩耗し、ただ疲れ果ててしまった、魂の叫びなのだ。

「あなたも、きっと同じなんでしょう?」

「……」

 静寂が周囲を包む。灰里の呼吸すら聞こえない、張り詰めた沈黙。

「私と一緒に、この世界を終わりにしない? ……そしたら君も楽になれるよ」

「なにするか知らんけど、さすがにそれは看過できん」

 旭が低く呟いた。抑えられた声の底に、どろりとした怒りが沈殿しているのが透けて見える。

「一緒にするな」

「一緒じゃないの? 死にたいって何度も言ったくせに」

「あいにく死ねない理由ができた。俺をこんな身体にしたやつを探し出して一発殴らねえと気が済まねえ」

 吐き捨てるような言葉に、確かな意志が宿っていた。しかし、巫女はそれを鼻で笑うかのように、くすくすと喉を鳴らした。

「……何も気づいてないのね」

 声は楽しげだったが、その奥底に冷たい蔑みが滲んでいた。

「君が探してる相手は、そこにいるのに」


 ──灰里の目を覆ってるやつのことだろうか。しかし、神主から聞いた話では……いや、待て。

()()()のことだろ?」

 彼の声が、やけに近くで聞こえている。まるで、自分の内側から響くように。もしかして、俺の置かれているこの状況は──

「まあ、君が協力してくれないことはわかった。もういいよ」

 巫女は小さく息をつくと、温度のない声で告げた。

「全部終わりにしてあげるから」

「させるか! あっ──」

 旭の鋭い声。直後に、会話は途切れた。肉が打たれるような鈍い音と、どさりと何かが倒れ落ちる音が響く。

『旭!?』

 衣擦れの音だろうか。ごくかすかな気配が動いた直後、巫女の声が、すぐ近くでしたように聞こえた。

「あなたは、精々終わるまで大人しくしてて」

「ちっ……!」

 短い呻き声。そして、先ほどよりもわずかに軽い、何かが地面に崩れ落ちる音。

『……灰里!?』

 返事はなかった。ざらりと玉砂利を擦る音だけが、耳に残っている。

 重苦しい沈黙。誰も声を上げない。世界から切り離されたように、音が途絶えていく。

 俺は息をすることさえ忘れていた。

 ──もう、誰もいない。声も聞こえない。何もできない。何もできないけど、どうにかしないと。

 この視界を、この無力な状況を縛っている存在。灰里が言う()()()に、俺は必死に話しかけていた。

『なあ、頼む。この目隠しを外してくれ』

 せめて──今の状況を見届けさせてくれ

 返事はない。ただ自分の声だけが、虚しく胸の奥に反響する。

 耳を澄ませても、何も聞こえない。祈るように、必死に心の中で呼びかけ続ける。

 この沈黙すら、永遠に続くのではないかと錯覚しかけたそのとき。

『灰里を、お願い……』

 やっと聞こえた。灰里と同じ声──けれど、はっきりとは言い切れない。俺の懇願に応えるように、その声が、静かに響いた。

『嗚呼、わかった』


 その言葉が、引き金だった。

 目の前を覆っていた純白の闇が、ガラスのように砕け散った。

 身体が後ろに倒れこむ。視界を満たすのは、暴力的なまでの情報の奔流。

 眩しさのあとに訪れたのは、夜の暗さ。境内の石造りの灯籠だけが、自分たちを照らしている。

 景色が一気に雪崩れ込み、意識を押し流す。

 目の前に立つのは膝をついた灰里の背中。その肩越しに見えたのは──怯えきって肩を震わせる佐藤。地に伏し、立ち上がろうとする旭。

 そして彼らを見下ろす、舞の姿をした巫女。その手には小ぶりな手鏡が握られていた。

 その光景が一息に胸へ突き刺さり、俺は息を忘れた。

「そんな弱かったかしら。この狐男」

「……何がしたいんや」

 旭が地に伏したまま、かろうじて腕で上体を支える。

 肩が大きく上下し、荒い息が漏れた。

「決まってるでしょ。天影鏡を見つけること。それまでは──終わらせてあげない」

 巫女は小首をかしげ、手鏡を弄ぶように持ち上げる。巫女の手鏡から漏れる微かな光が、旭や灰里の体力をじわじわと奪っているように見えた。

「ねえ、そこの君」

  巫女の言葉は、まるで罪悪感に苛まれた心に絡みつく、蜘蛛の糸だった。鈴を転がすような声が、佐藤を指す。

「そんな身体、もう背負いきれないでしょう?」

 びくり、と佐藤の肩が跳ねた。図星を突かれた子供のような反応。

「人を傷つけて、罪を犯したその身体……私と一緒に、終わらせてあげる。だから──あの男が隠している“鏡”を、持ってきて」

 助かる道、ではない。終わりへの誘い。

「……俺が、鏡を……?」

 震えた声。けど、否定の言葉は出てこない。

「そう。だって――もう、その身体に居場所はないんでしょう?」

 佐藤の喉が、ごくりと鳴る。

『やめろ!』

 気づけば佐藤のもとに駆けよっていた。届かないと知っていても、構わなかった。

 指先が佐藤の肩に触れた──ような気がした。

 冷たい震えが走る。佐藤の身体がびくりと揺れた。

「……三城、さん……?」

 その声は、巫女の糸に絡め取られながらも、確かに俺の名を呼んでいた。ほんの一瞬、その糸が緩む気配がした。

「ほら、こっちを見て。私の言うことを聞けば楽になれるわ。鏡を持ってきて、終わりにしましょう」

 巫女の囁きが、再び佐藤を絡め取る。

 ──やめてくれ

 喉が震え、言葉がこぼれそうになる。佐藤の肩をもって崩れ落ちる。

「……俺は……」

 数秒の沈黙のあと、かすれた声が続いた。

「……俺には、できない」

 かすれた声が揺れて、今にも泣き出しそうに震えていた。

「三城さんがそこにいるのに……そんな、恥ずかしいこと……できるわけ……」

 言葉は途切れたが、次の瞬間、佐藤は絞り出すように続けた。

「……城さん……本当に、ごめんなさい……。俺、三城さんの身体で悪いことしました……もし……返せるものなら……この身体、返したいです……」

 泣き声に潰れて“さん”の頭が抜け落ちる。けれど確かに、俺の名を呼んでいた。佐藤のかすれた声に、胸が締めつけられる。

「灰里、今や!」

 旭の鋭い声が、張り詰めた空気を裂いた。

 膝をついていたはずの灰里が、いつの間にか佐藤の懐へと身を滑り込ませていた。その手に冷たい光を宿した鏡が握られている。──もしや、あれは。

 その鏡面が、巫女ではなく佐藤へと向けられた。

 銀に似た光が一瞬、佐藤の瞳を刺す。

「──え……?」

 佐藤の顔から血の気が引いていく。

 鏡の中には、冴えない青年の影が揺れていた。誰なのか、俺には知らない顔。けれど──それが佐藤だと、直感でわかった。

 次の瞬間、その影が苦悶に歪む。

「う、あ……やめ、見たくない……!」

 喉の奥から漏れるような声。

 それは弱さでも罪でもなく、ただ人間としての叫びに思えた。

 自分の惨めで、醜い姿を直視することに、どうしても耐えられないでいるように見えた。

 ──わかる。俺だって、見たくはない。けれど、俺はもう目をそ逸らさない。

 彼の魂の輪郭が震え、歪みながら、必死に目を背けようともがいていた。

「とっきー!」

 旭の短い声が、鋭く俺を突き刺す。

 その瞬間、巫女が影のように滑り出した。狙いは灰里の天影鏡。

「させるか!」

 よろめいていたはずの旭が、信じられない速さで立ち上がった。次の瞬間、巫女に体当たりするように押さえつける。

 ざらり、と足元で砂利が跳ねた。粒が俺の裾にまで散って、思わず息を呑む。

 旭の荒い息が耳に届く。押さえ込む腕が震えているのが、ここからでもわかるほどだった。

 ──相手を“掴み”なさい

 神主に言われたことを思い出す。

 今だ。今しかない。

 俺は意識を集中させ、剥がれかけた佐藤の魂に、自らの魂ごと掴みかかった。

 その瞬間、言葉にならない感情の濁流が、俺の意識に流れ込んできた。そして、佐藤の魂から、たった一つの明確な意志が伝わってくる。

 『本当に、本当に、ごめんなさい。俺は三城さんと比べてどうしようもないバカだ。そしてどうか、最後に俺のわがままを聞いていただけませんか。──舞ちゃんを助けてください』

 その言葉が聞こえた時、内側から鍵が開けられた。

 俺は、全力で魂を引き戻す。

 ──わかった

 視界が、白と黒で激しく点滅する。まぶたの裏に焼きついた残光が消えていく。

 暗闇が戻ると同時に、夜風の冷たさが頬を叩いた。

 指先が地面の砂利の冷たさと硬さを捉える。ざらりとした、確かな感触。服の繊維が肌を擦る感触。忘れていたはずの身体の重み。

 肺は空気を求め、そして胸の奥で、力強い確かな鼓動が、ドクン、と鳴った。

 ゆっくりと、瞼を上げる。

 そこには──どこか安堵したような巫女の顔があった。

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