◇第2話
その後、俺は──いや、俺と思われる男は、上司にこっぴどく詰められていた。
ネクタイは緩み、背筋も伸びていない。俯いたまま、何か言い訳めいたことを呟いているようだった。
怒号が飛ぶたびに、そこにいるわけでもない俺の胃が、ありもしない痛みを訴えた。
──もう見ていられなかった。
無意識に足が動き、気づけば部屋を抜け出して、外へ飛び出していた。
道すがら、試しにすれ違う人間に声をかけてみる。
だが誰ひとりとして足を止めず、こちらを振り向くこともなかった。
まるで、最初から俺の声など存在していなかったかのように。
行く当てもないまま、気がつけば高層ビル群の一角にあるベンチに腰を下ろし考え事に耽る。
──昨日、「死にてえ」なんて考えていた。
でも、こんなことは望んじゃいなかった。
どうせなら、異世界転生で無双とか、もう少しファンタジックな展開がよかった。
誰にも見られていないのをいいことに、大きくため息を吐く。
ちょうどお昼を回った頃だろうか。
周囲にはスーツ姿の人々がちらほら。昼食を求めてか、黙々と歩いて、やがて視界から消えていく。
そのときだった。視界の端に、明らかに異質な存在が映った。
変な飾りのついた白黒のボーダー柄のねこみみニット帽。肩にかからない銀髪のショートウルフ。病弱を連想させそうな白い肌。犬の首輪のようなチョーカー。
サブカル臭のするその格好は、このビジネス街から完全に浮いていた。
その少年は少しフラフラと歩きながら、ビルの無機質な壁にもたれかかる。
渋谷や原宿にいそうな雰囲気。年齢は……16、17歳ぐらいか。身長は俺より少し低い。
なんとなく目を合わせたくなくて、視線を落とす。影と同化した分厚い黒のソール。もしかして結構身長を盛っているのだろうか。じっと注視してしまった。
視線を元に戻すと、吸い込まれそうなくらい黒い瞳に睨まれている──ような気がした。
普段なら絶対に話しかけないタイプだ。
だが、今の俺は誰かに気づいてほしいほど孤独だった。気づけば、声をかけていた。
『あの、すみません』
少年はこちらを見て、ややぶっきらぼうに答えた。
「なんだよ」
その瞬間、胸の奥に小さな火が灯った。
──やっと、俺の存在に気づいた人間がいた。
声が届いた。それだけで少し、救われたような気がする。
『俺のこと、見えてますか?』
「は? 何言ってんの、おまえ」
少年は露骨に顔をしかめる。
「なに、当たり前のこと言ってんだ?」
……当たり前じゃないから聞いてるんだ。
だが、それに続ける言葉が出てこない。
「じゃあ、おまえは自分が死んだとでも言うのか? 死ねるだけマシじゃねえか、人間は」
その一言で、思考が止まった。
──今、こいつなんて言った?
『……今、なんて?』
「は? 聞こえなかった?」
少年はパーカーのポケットに手を突っ込みながら、さらにめんどくさそうな顔で繰り返す。
「死ねるだけマシじゃねえか、って言ったんだよ。つーか、おまえ、なんでそんな顔してんの」
無関心に見えて、その瞳の奥には、どこか遠くを見ているような虚無があった。
驚いたのか、怒っていたのか、俺でもわからない。
ただ、喉の奥から言葉が漏れた。
『おまえに……何がわかる』
いつの間にか、敬語は抜けていた。
「別に? 俺におまえの何がわかるかって言われたら、何もわかんねーよ」
少年は目を細め、気怠そうに答える。
「でも、もしおまえが『死んだ』とか言い出すなら、もう一回言っとくわ。死ねるだけマシだろ」
突き放すような口ぶりだったが、どこか投げやりな温度も感じた。
その言葉の意味を考えながら、しばらく黙ったまま彼を見つめた。
『俺、死んだかもしれない』
「は?」
少年の眉がわずかに動く。
『死んでるって証明する方法、あるか?』
「いや知らねーし。初対面でそんなこと聞くか普通? てか病院行けよ。頭の」
そっちだって初対面で無遠慮なこと言っただろ……とは思ったが、言葉にはせず。
『……一回、俺に触ってみてくれ』
「は? そういう趣味ないんだけど」
露骨に嫌な顔をされる。触る気はまるでないらしい。
仕方なく、俺のほうから少年の帽子に手を伸ばした。
「触んな」
その手を、彼は反射的に振り払った。
触れた。確かに、感触があった。
自分の手を見る。体温も鼓動も感じない。けれど、彼に触れたときの骨っぽさは、確かにそこにあった。しかし、払った手は煙をを突っ切るように透けた。
少年の目が見開かれた。
まるで、忘れたはずの何かが、強引に記憶の底から引きずり出されたように。
沈黙の時間が続く。
ふと、周囲を見渡す。
行き交う人々は、誰一人こちらに目を向けない。
まるで、存在そのものが見えていないかのように。
……いや、単にこの少年がいきなり手を振り払ったせいで、周囲が『関わらないようにしてる』可能性もある。
だが、恐らく見えているのは彼だけという事実が、胸に重くのしかかっていた。
「……悪い、本当に死んでるとは思わなかったわ」
少年がぼそっと言った。
「でさ、自分語りはもう終わり? じゃ俺行くわ」
そう言って、彼はあっさり背を向ける。
『待てよ!』
思わず声を上げ、腕をつかもうとする。
せっかく出会えた、俺を認識してくれる相手を、逃したくなかった。
「はあ? なんだよ今度は」
『おまえしか、俺の話を聞いてくれる人間がいないんだ』
「いや、知らねーよ。勝手に巻き込むなっての」
あっさり振り払われる。だが、一歩も引かなかった。
『頼む。俺の家に来てくれ』
「はあ?」
少年はため息をつき、頭をかいた。
「それ、俺が行って何かわかんの?」
『……わかるかどうかは、わからない。でも……俺、一人じゃ、この状況を整理できない』
「いや、なんで俺が──」
『おまえしか、俺のことが見えてないんだよ!』
声を張っても、やはり周囲は無反応。
ただ、目の前の少年だけが、めんどくさそうにこちらを見ていた。
互いに無言の時間が続く。その少年は何かを考えていたようだったが。
「……はぁ、めんどくせ」
そう吐き捨てるように言いながら、彼は渋々頷いた。
「しゃーねーな。ちょっとだけだからな」
たとえ夢でも、胸の中の焦燥が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
◇
家に帰るまでの道すがら、俺はぼんやりと考えていた。
確かに、人もキックボードも、まるで俺の存在を認識していないかのようにそのまま突っ込んできた。そして、そのたびに俺の身体をすり抜けていく。
初めは避けていたが、次第に避けるのも億劫になってきた。
「うわっ、本当に幽霊なのかよ」
少年がそう呟いた。だが、その声に驚きの色は薄い。どちらかといえば、面倒ごとに巻き込まれたときのような、煩わしそうな響きだった。
まるで「またか」とでも言いたげな口ぶりだ。幽霊そのものへの驚きは、ほとんど見られなかった。
そうしてたどり着いたのは、俺のアパートだった。
確か尾行したときに見たが、急ぎで外に飛び出したので俺は鍵をかけていなかったはずだ。
少年がドアノブに手をかけると、やはり鍵はかかっていなかった。あっけなくドアが開く。
『不用心な……』
鍵をかける習慣がないのだろうか。それとも他に理由があるのか。
特にめぼしいものがないとはいえ、鍵をかけないのは非常識だろう。
俺なら鍵は絶対だというのに。
自然と眉間にしわが寄るが、しかし今の俺にとっては都合がよかった。
部屋に足を踏み入れる。朝と何も変わっていない。必要最低限のものしか置いていない、生活感の乏しい部屋。
整然とした透明な緑の酒瓶だけが、昨夜の記憶を物語っていた。
「飲みすぎだろ……」
『うるさい、社会の辛さがわからない奴が』
軽く睨みつけるが、少年は気にも留めず、空になった瓶を眺めている。
「で、どうやって死んだの?」
『どうやってって、おまえなあ……』
そう言った瞬間だった。
──ガチャリ。
閉めたはずのドアが、再び開く。
そこに立っていたのは、紛れもなく俺だった。
──……は?
声にならない声が漏れる。まだ就業時間だろう。なぜここに?
男は部屋を覗き込み、少年の姿を見つけると、途端に険しい顔になる。
「は? なに勝手に人んちに入ってんだよ」
俺は「人んち」なんて言わない。
少年が薄く笑う。
「それ、そっくりそのまま返すわ」
「……は?」
「おまえのほうこそ、不法侵入者だろ?」
「……っ、うるせぇ!」
『もうひとりの自分』の声がわずかに裏返る。男はポケットをまさぐり、小型の折り畳みナイフを取り出した。
──俺が缶詰を開けるときに使っていたやつ。ポケットに入れっぱなしだったな。
「おう、やんのか? やれるもんならやってみろよ」
──煽るな。
「……なにが、幸せになれる動画だ。そんなことないじゃないか!!」
「はぁ? 急にどうした?」
『幸せになれる動画』という単語に引っかかりを覚える。だが、今はそれを咀嚼している余裕はなかった。
「幸せ? そんなこといちいち考えないほうが幸せなんじゃねえの?」
「う、うるせぇ!」
男の手が震え、刃先が光を反射する。
次の瞬間、反射的に振り下ろされた。
鈍い音。少年の身体が小さく跳ねる。血の色がじわりと広がる。
男は固まった。時間が止まったようだった。
──今、少年は見ていた割に躱そうとしなかったような……。
「……え? ……あ……?」
俺は震える手でナイフを引き抜く。生温かそうな血が指を濡らす。
「……あ、やべ、え、待って、待って……」
ゴトリと刃物が床に落ちる。
「で、それがどうした?」
膝をついた少年が、血を滲ませながらも、平然と呟いた。
この少年は強がっているのだろうか。よくわからない。
しかし、もう同じ姿の誰かは立ちすくむ。
震える指先を見つめたまま、立ち尽くしている。
やがて、理解が追いついたのか、男は踵を返し、出口へ向かった。
──逃げるな……!
俺の視線は、少年と、逃げていく俺と思われる背中に交互に向けられる。少年の救助が先決だろうが、どうすれば……?
「俺のことはほっといていいから、早くあいつを追えよ」
『そんなわけにいくか』
「この程度で死なねえから」
『強がるなよ』
「いいから行けよ」
少年の低い怒気を含む声に、思わず気迫される。
申し訳なさもあったが──あれを逃したら、もう確かめようがない。
しかし……あいつ、本当に死なないのか?
男が向かったのは、隣の部屋だった。
──隣……?
逃げ込んだ男がドアを閉めたが、ただ茫然と見送る。なんて選択肢は俺にはない。
意を決してドアに向かって飛び込んだ。
──するり。
まるで何もなかったように、身体が壁を通り抜ける。
鏡のように対称的になっているが、部屋の構造はほぼ同じ。
しかし、自分の部屋と違いごみ袋が散乱している。
男の行方を探そうと一歩ずつ足を踏み入れていく。
そして、目の前には──
「……幸せになれるんじゃなかったのかよ……」
暗い部屋の中。ベッドに腰かけた俺と思いたくないものが、うつむいていた。
その足元には、微動だにしない別の男の姿。
思考が、一瞬でぐしゃりと潰れる。
何が起きている? これは、夢か? 悪い冗談か?
それにしても何が起こってる。俺と同じ見た目の奴が少年を刺し、隣の部屋に逃げ込んだ。そしてその部屋には、さらに別の男が倒れている…。ここは一体誰の部屋なんだ?
そんな中、男の身体が眠そうに船を漕ぐ。
──人を刺しといて、何を……!
叫ぶが、声は届かない。あの少年も助けに行きたいのに、どうすればいいかわからない。
そのうち何の抵抗もなく眠りに落ちようとしていた。
衝動的に、肩に手を伸ばす。
──その瞬間。
「……痛っ」
脳が揺さぶられる感覚。視界が揺れ、頭の芯が軋む。
何もないはずの空間に、圧迫感が広がる。
──なんだ……これ……。
意識が引きずられる。
視界の端から、黒が滲み、広がっていく。
ただの夢じゃない。
これは、悪夢の形をした、何かだ。
俺の視界は、闇に呑まれていった。




