◇第16話
◇ 2024年 12月29日夜?
三城が次に目を覚ますと、何も見えなかった。
いや、目は開いているはずだった。
瞬きを繰り返しても、視界は変わらない。
けれど、それは決して真っ暗闇ではなかった。
むしろ――明るすぎた。
寝起きで、カーテンを開け日光を浴びたとき、まだ瞼がちゃんと開かず、世界の輪郭が溶けるような、そんな感覚。
じっと待つ……が、変わらない。
指を動かそうとする。――ビクともしない。
重さも、皮膚感覚も、呼吸の気配もない。ただ、目元にわずかに残る、暖かさのような奇妙な感触だけ。
気絶する直前の記憶を探る。
鏡で身体を取り戻そうとした。
だが、佐藤の「生」に対する執着が強すぎて、割り込めなかった。
しかし、その佐藤は、今や俺に身体を返したがっている。
舞が鏡を割り、佐藤の拘束を解いて、どこかへ消えた。
そして――確か、旭が俺を……
脳内で、思考が、感覚が、溢れ返り、ぶつかり合い、ひとつひとつが針のように突き刺さる。
『それにしても、なんだここは……』
かすかに、自分でも聞こえたかどうかわからない声が胸の奥――いや、そう思える場所――でこぼれた。
◆
そのとき。遠くで、声が聞こえた。
「──待ってや、佐藤君」
旭の声だ。いつもの軽さはない。乾いて、どこか追い詰める響き。
耳……いや、それがあるのかもわからないのに、音だけはやけに鮮明だった。
何もできない以上、音だけが状況を知る手がかりだった。
「な、なんで……俺の名前、知ってんだよ……」
佐藤の、怯え切った声。
「そりゃあ、ずっと見てたからなあ」
旭の静かな声が、すっと背を撫でる。──見ていた? どういう意味だ。
そこに、さらにもうひとつの声が割り込んだ。
「お兄ちゃん、そうやって人のことつけてるの、気持ち悪いよ」
舞。いや、舞の姿をした“何か”。空洞のような響き。どこかで聞いた覚えがある。
場の空気がぴんと張り詰める。
「おまえに言われたないわ」
「お、お兄さん……!? 似てな……」
佐藤が戸惑いの声を上げかけるが――
「今から真面目な話するから、黙っとけ」
その言葉に、場の温度が一段下がった気がした。
「なあおまえ、なんであんな『シアワセになる方法』なんて動画作ったん?」
誰に向けられた問いか、一瞬わからなかった。すぐに舞だと気づく。動画の声と、そっくりだ。
かすかに、誰かが息を呑む音が聞こえる。
「舞は何も知らないよ?」
返ってきたのは、無邪気で、しかし底知れぬ闇を孕んだ声。
『……おまえ、誰だ』
問いかけた心の声に、旭がまるで応えるように低く呟いた。
「舞は、な」
「……バレちゃってるか、残念」
くすり、と笑う気配。その一瞬、存在しない背筋が凍った。
……こいつは、舞じゃない。
「ところで、置いてた天影鏡、偽物でしょ? 本物、どこ? 」
「おまえが動画作った動機、聞いてからや」
旭の声は挑発でも皮肉でもない。ただ静かで重い。
「いいよ──代々、巫女の身体に封印されて眠ってる私のこと、誰かが起こしてくれたの」
吐息まじりの声が、脳に直接響くようだった。
「数年、この子の身体からずっと人間を眺めてて、思ったの。みんな死んじゃえって」
思いのほか簡単に答えてはくれたが、理解が追いつかない。脳が拒む。
「……もう、嫌だったの。ずっと、この子の視界に縛られて」
幼い声に混じる、大人びた疲労感。いや――無邪気でも残酷でもない、もっと深い冷たさ。
「人間なんて、みんな同じ。偉そうにしたり嘘をついたり、都合が悪ければ、封印する」
一瞬だけ、声から無邪気さが抜け落ちた。
「……もう、疲れたの」
その囁きが、思考の奥底をなぞるように触れ、ほどけていく。
「教えてあげたんだから、鏡、ちょうだい?」
「……そんな具体性もわからん、しょうもない動機で一般人巻き込んで。誰が渡すか」
旭が吐き捨てるように言った。
「だって言ったところで、伝わらないでしょ?」
言葉が、ひやりと足元を撫でる。
「そ、それじゃあ……シアワセになれる動画って結局何だったんですか……」
佐藤の震える声。
「え? したよね。死合わせに……だって、その方が楽でしょ? 生きてる方が、ずっとしんどいのに。ねえ、あなたもそう願ったんじゃないの?」
脳裏を走る、年末の事故のニュース。――まさか、あれも?
「つまり……三城さんは……」
佐藤のかすれ声が、情けなく響いた。
そのとき、足元から、微かに地面を蹴るような音が滲む。……いや、今のは――?
そう思いかけた矢先、自分の思考はすぐに旭の声にかき消され、違和感は霧散した。
「そんなんで伝承通りに災い起こしてええわけないやろ、そんなことするから災いの巫女とか言われるんちゃうか」
「なにもわかってない癖に……」
昼間見た木碑と神主の言葉が、頭をかすめた。
つまり、彼女は言い伝えの巫女か……?
「……早く、鏡を渡して。あの人がどうなるか、見たいの」
あの人……? 誰を指している。
「ずっと見てたの。身体を失って、必死になって……必死な人って、おかしいよね。可哀想で、面白い。……でも、もういいかなって思ってたんだ。可哀想だから」
ぞわりと、全身が粟立った。……もしかして……俺?
「……そう言ってるけど、ほんまは、自分が終わりたいんやろ。なあ」
旭の低い声が、空気を締めつける。
「……わかった口、きかないで」
唐突に、会話は途切れた。
ざっ……ざっ……と真下から響く、鈍く滲んだ石を踏み潰す音。
「ところで、そこにいるんでしょ? 幽霊さん」
ぞわり。
まるで、人間が真反対に首をひっくり返し、笑いかけてくるような――そんな、おぞましい怖さがあった。
「死んでみてどう? ずっと誰にも気づかれない気持ち。あー、でもお兄さんとあの子に邪魔されちゃったから、まだ実感湧かないかな」
やめろ。やめてくれ。
「何もわからないまま、苦しめばよかったのに」
息を呑もうとする音すら、飲み込まれそうだった。
おまえは、どうしてそこまでして俺を苦しめたいんだよ。
「あなたも願ったんでしょう? 鏡にシアワセになりたいって」
思わず目を逸らしたくなる。だが、視界すらない。
確かに『死にてえ』とは願った。だが、鏡なんて見ていない。あれはただのスマホの画面だ。そんなガジェットの反射で、この厄介事に巻き込まれたって言うのか?
「そんなんで死ねたら楽なのにな、ほんと」
はっとした。この声は――。
「あームカつく」
――灰里!? どこにいた? 生きていたのか……?
音の距離からして、旭や佐藤たちより、ずっと近い。
『無事、だったのか……?』
「俺は死なねえ、って何度言ったら伝わんだよ」
灰里の声が、耳の奥にずしりと落ちる。
「へえ、あの子もいるんだ。隠れてないで出てきてよ」
地面を蹴り散らすように、灰里は荒く音を立てていた。




