◇第14話
◇
あれから色々試した。でも──死ねなかった。
息は詰まるし、寒さも痛みも感じるくせに、終わらない。
まるで、俺の中で「死ぬ」という結末だけが切り取られたみたいだった。
それでも、何度もやった。
どこかが壊れれば、今度こそ終われるって、最初は信じてた。
でも。
目が覚めたらまた朝がくる。
傷は消えてもが痛みはなぜか残ったまま。
それでも、命だけは続いていった。
──そろそろ、飽きてくれてもいい頃だろ。
誰が「この生」にしがみつけって言ったんだよ。
生きてるって、なんなんだ。
喉が渇いても、腹が減っても、食わなきゃ死ぬはずなのに──
俺は、食べなくても死ななかった。
働かなくても、金がなくても。
「生きるために必要」といわれるものは、どれも必要じゃなかった。
じゃあ何のために、今日も目を覚ました?
何のために、何もない朝をまた迎えてる?
……あの街に、もう俺の名前はない。
誰とも話さなくなった。
他人の目も、声も、気配すら、今では環境音と変わらない。
もしかしたら、もうとっくに「人間」であることをやめてるのかもしれない。
でも、それすらどうでもよかった。
それでも困ったことに──
今でも夢に見る。
誰かと一緒に座って、パンを食べている。
そんな、どうしようもない夢を。
あの記憶は、優しさの皮をかぶった呪いだ。
──もし、あのとき。
もっと誰かに話しかけていたら。
声を出して、助けてって言えていたら。
そんな“あり得たかもしれない選択肢”ばかりが、
毎晩、夢の中で繰り返される。
でも、あの頃の俺に、そんな勇気なんてなかった。
どうすればよかったのか、なんて今でもわからない。
それでも──
そうやって、逃げ続けてきた時間だけは、
どうしようもなく、俺の中に染みついていた。
この十年、何もなかったわけじゃない。
ただ、何も“残せなかった”だけだ。
俺が、どこで何をしていたかなんて、思い出せるやつはひとりもいない。
言い訳だって、できる。
でも、だからって「しょうがなかった」で済ませていいほど、
この空白は軽くない。
──誰かに求められることも、
誰かを求めることも、あのとき俺が諦めたんだ。
だったら、苦しむくらいは……仕方ないよな。
気づけば十年、名前も持たず、ただ流されるように過ごしてきた。
生きてた、というよりただ時間が過ぎていっただけ。
バス停のベンチ。
公園の隅。
深夜の図書館の閲覧席。
転々とした場所はいくつもあったけど、どこにも居場所にはならなかった。
会話も、記憶も、何も残してこなかった。
残ったのは、名前のない生活と、誰も知らないまま、生きていたという事実だけだ。
──なあ、誰か答えろよ。
なんで、俺はこんな目に遭ってんだ。
◇
気づけば、またあの灰色の川にいた。
空も、地面も、川の流れさえも、あの時の空の色と同じ。鉛を溶かして天に張り付けたかのように灰色。
川岸の石も、そこに生える草も、すべてが色を失ったように見える。まるで世界から彩度を抜き取られたような、そんな場所。
足を突っ込んだまま、川べりにへたり込む。
浸かっている水は、感覚があるようなないような、そんな曖昧さでまとわりついてくる。
――ああ、嫌な夢を見たな
ふらつく体を支えながら、立ち上がる。膝が笑っている。体重を支えきれずに、一度石に手をついた。ざらついた川石の感触もなにもない。
あの時、何があったのか知る由もない。
ただ、神主が「目を隠している者がいる」と言ったことを照らし合わせる。
──死ねなくなったのはどう考えてもあいつのせいだろ。勝手なことしやがって。
歯で唇を噛み、拳を握る。爪が手のひらに食い込んで、小さな痛みが走った気がした。でも、本当に感じているのかどうかわからない。
生かされた理由が「ハイリの気まぐれ」みたいな気がして、妙にむかついた。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないのか。なんで普通に死ぬことすら許されないのか。
「……一発殴らねえと気が済まねえわ」
どうせ俺はまだ死んでいないのだろう。あんな奴に殴られた程度で死んでたまるか。
歩くたび、灰色の水が足元で揺れる。
でも流れていくわけでもなく、ただそこに、淀んでる。
灰里はただ、この灰色の川を、抵抗しながら歩き続ける。水の抵抗が、足にまとわりつく。一歩一歩が重い。でも、歩く。歩き続ける。それが、今の彼にできる唯一の抵抗だった。
◇ 2024年 12月29日
目を覚ました瞬間、冷たい感触が頬を打った。
──ここは……あのとき倒れた場所か。
刺さるような地面の硬さが、皮膚に痛々しく残っている。
乾いた地面、散らばった砂利、その感触が生々しく、現実の輪郭を取り戻させた。
やっぱり、生きてたらしい。
なら、やるべきことは一つしかない。
「おまえ、すぐそばにいるんだろ!」
自分の拳が、虚空を裂くように振るわれる。ついでに、自分の頬も殴った。
じわりとした鈍痛が、打たれた側頭部や腕に反響してくる。
痛い。
……痛い。
…………いたい。
それでも、涙は出なかった。そんなものは、とうの昔に枯れている。
「そこに隠れてんの、わかってんだよ。さっさと出てこい!」
声は怒鳴るというより、叫びに近かった。だがその声が届いたのは、隠れているはずの誰かではなく──
「灰里くん、ストーーップ」
あっさりと腕を止められた。振り返ると、旭がいた。
「あ゛あ゛うるせえ、おまえ、あいつ視えてんだろ! どこにいやがるか教えろ!!」
旭は、すぐには答えなかった。一拍置いて、静かに口を開く。
「おらんよ」
その言葉に、思考が停止しかける。
……そんなはずはない。
神主が、あんなことを言っていたのだ。そいつがいる。確かに。
「そんなわけねえだろ! 嘘つくな!!」
胸の奥がざわつく。騙されてるような気がして、喉が焼けるほどに叫ぶ。
「おらんて、とっきー」
「そっちじゃねえよ!!」
声が裏返る。感情が限界を超えて、旭の胸ぐらを掴んでいた。
「真面目に答えろ! どこにいるんだ──俺の目を隠してたやつ!!」
ハイリ、と言えない。視えていたとしてもこいつは何も知らない。
旭はそれ以上言葉を返さなかった。
沈黙が、重く、鋭く、そこに落ちる。
灰里は拳をゆるめ、はっとして周囲を見渡した。それまで見ていなかったものに、ようやく気がつく。
そうだ──
「……三城は?」
「先に家、戻ってる」
「ああ、そう」
短い会話。意味のない応酬。どこか、遠くのことのようだった。
そんな灰里に向かって、旭がふと口を開いた。わずかに含みを持たせた声音で。
「ところで灰里くん、お目覚めのところ、悪いんやけど……」




