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◇第13話


 ◇


 ふと窓の外を眺めると人が埋もれるほどに雪がしんしんと降っている。

 通学路には広大な雪のベッドが広がっていた。

 そんな年が変わる前の、最後の登校日。

 教室で終業式のプリントが配られたけど、朔はろくに目を通さない。

 いつもと同じように席に座って、チャイムと同時に教室を出た。

 けれど向かう先は、家でもなく、誰かの待つ場所でもなかった。

 ──あの神社に、行こう。

 放課後の空は、曇天だった。夕焼けすらない、ただの灰色。

 道端の自販機に反射した光だけが、かろうじて時間の流れを教えてくれる。

 神社の境内に入ると、そこは一層静かだった。

 風が木の枝を揺らす音が遠くで聞こえただけで、人の気配はまるでない。

 あの日からずっと、ハイリの姿を見ていなかった。

 見ていなかったんじゃない。探さなかったんだ。

 それでも、もう一度だけ。

 そう思って、いつもの場所を見回した。

 祠の裏も、木の陰も、石段の隅も──誰もいなかった。

「……そっか」

 ──別に、もう会いたくないよな。

 呟いた声は、空気に吸われて消えていった。

 境内の端に腰を下ろすと、カバンからしわくちゃになったコンビニ袋を取り出す。

 中に入っていたのは、塩むすびと、前に食べたいと言っていたもの複数。

 取り出して、祠の前にぽんと置いた。

「……ほんとはさ、もうちょっとマシなの持ってこようと思ってたんだけど」

 返事は、やっぱりない。

 だけど、それでもいいと思った。

 朔はゆっくり、雪の積もった石段に背中を預ける。

 制服のまま地面に腰を下ろし、足を投げ出して、ただ目を閉じた。

 冷たい風が頬を撫でていく。

 指先の感覚が少しずつ薄れていくのを、ただ静かに受け入れていた。

 お腹が鳴る。

 でも、食べる気にはならなかった。

 この場所に来るずいぶん前から、まともな食事をしていなかった。

 最近は、眠ることすらうまくできていなかった。

 それでも、生きる理由があるうちは、きっと人は死ねないんだと思う。


 ……でも、もういいかなって。


 こんな風に、誰にも見つからない場所で、


 誰の声も聞こえないまま、ただ眠るように終われるなら。


 それで、よかった。


「……おまえがいなくても、別にここにいてもいいよな」


 それだけ言って、朔は目を閉じた。


 静かだった。耳の奥に響く鼓動だけが、遠くなっていく。


 夢みたいな白い風が、どこか遠くへ引いていく。


 足元の感覚が少しずつ遠のいていく。


 指先も、唇も、冷たさを通り越して、もう自分のものじゃないみたいだった。


 ただ、静かで、なにもなかった。


 その静けさの中で──どこか、遠くから声がした気がした。


『……来てたの?』


 幻聴かもしれない。


 けど、その声には聞き覚えがあった。



 ──ハイリ。


 ◇


 視界が、ぼんやりと白んでいた。

 まぶたの裏に、誰かの影が差す。肩を揺さぶる感触。声が耳に届いていた。

「……おい、君! しっかりしなさい、聞こえるか?」

 朔は、まぶたをかろうじて持ち上げた。

 空はまだ灰色で、冷たい風が顔を撫でていく。

 目の前には、見知らぬ神主らしき男の顔。

「神社で寝てたのか……いや、こんな寒い日に……」

 どこか呆れたような、その声を聞きながら、俺はただ──

 ──おかしい

 そう思った。

 空腹のはずなのに、気持ち悪くも、重くもない。のどの渇きも、飢えの感覚もない。

 あれだけ何も食べずに、何日もふらふらして、息も絶え絶えだったのに──

 ──どうして、まだ生きてる?

 心の中で何度も繰り返していた。

 ──死ねなかった。いや、死ねたはずなのに。

 それでも今、自分はここにいる。これは幻覚か?

 ……なんでだよ

 こんなはずじゃなかった。

 もう、終わるはずだったのに。

 胸の奥で、何かがちり、と音を立てた気がした。

 そして、あの声が──もう一度、耳の奥で反響した。

『……来てたの?』

 やっぱり、幻聴じゃなかったのかもしれない。

「……君、家はどこだ?」

 神主の男が、心配そうに眉をひそめながら尋ねる。

 当たり前だ。制服のまま、こんな寒空の下、祠の前で寝転がっているのだから。

 けれど朔は、少し間を置いて、ぽつりと答えた。

「……大丈夫です」

「いや、大丈夫じゃないだろう。今日は帰って──」

「本当に、大丈夫ですから」

 食い気味にそう言って、目を合わせずに立ち上がる。

「すみませんでした」

 それだけ言って、神主の返事も聞かずに、境内の外へ足を運ぶ。

 背後で風が鳴った。

 誰も追ってこない。けど、それでいいと思った。

 心配されるのも、理解されるのも、望んでない。

 ──なんで生きてるんだよ。

 冷えきった体の奥で、何かがじわりと膨らんでいく。

 けど、それが怒りなのか、悲しみなのか、安心なのかさえ、もう何もわからなかった。


 駅のトイレの鏡は、古びたフレームにうっすらと曇っていた。

 その鏡に、ふと視線を上げた瞬間、朔は足を止めた。

 ──誰だ、こいつ。

 最初にそう思った。

 でも、何度瞬きをしても、映っているのは自分だった。

 顔も、輪郭も、目元の重さも見覚えがある。けれど──

「……銀色?」

 髪だけが、まるで違った。

 黒だったはずの髪が、太陽を通したみたいに、光を反射していた。白ではない。けれど銀と呼ぶにはあまりに透けていて、現実味がなかった。

 毛先に手を伸ばす。指に染料の感触はない。手のひらは相変わらず冷たく、乾いている。

「……どういうことだ」

 頭を掻いてみても、根元まで均等に銀色。

 なんだこれは。

 鏡の中の自分が、自分じゃないように見えた。

 生きてる。たしかに動いてる。鼓動は微かに鳴ってる。けど、もう終わったはずだった。

 終わっていた。なのに──

「……なんで、生きてんだよ!!」

 呟いた声は、まるで誰かへの問いのように、鏡の奥へ吸い込まれていった。

 ハイリの顔が、一瞬だけ脳裏に浮かんだ。

 最後に聞こえた、あの声。

『……来てたの?』

 ──あれが幻だったのなら、これはいま、なんなんだ。

 何も変わっていないようで、すべてが変わってしまった気がした。これ以上何も考えたくなかった。

「……あーあ。ふざけんなよ」

 鏡の前で、朔は小さく呟く。

 皮肉でも、怒りでも、安心でもない。ただひとつ、どこにも置き場のない感情が、喉の奥に渦を巻いていた。


 そのまま誰もいない家に帰って、無言のまま靴を脱いだ。

 リビングには何の気配もない。いつものことだ。

 自分の部屋に入ると、机の上にはびっしりと並んだ参考書や問題集。

 それはまだ“普通の生活”をしていたころの名残だった。

 目をそらして、机の引き出しを開ける。

 奥にしまっていたショルダーバッグを取り出し、保険証、学生証、財布を無造作に放り込もうとする。

 ──硬いカードの表面に黒い油性ペンで、名字の部分を雑に塗りつぶしていた。

 どこへ行くつもりだったのか、自分でもよくわからない。

 ただ、家にいたくなかった。ただ、ここにいる意味を、もう見出せなかった。

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