◇第12話
◇
朝の教室は、静かだった。
周囲の誰もが当たり前のように会話を交わしている中、自分の席だけがぽっかりと音のない空白になっている。朔は机に肘をつきながら、腕を枕にして寝たふりをする。
いつも通りのことだ。誰も話しかけてこないし、誰とも話すつもりもない。必要最低限の受け答えだけしていれば、一日が終わる。
そうやってやり過ごすだけの日々。
「あの子って、なんかおかしくない?」
不意に聞こえてきた言葉に、思わず耳を立てる。後ろの席の女子が、こっちを見ないまま笑っていた。
「近くにいたら、変なの移っちゃうよ」
「ねー」
言葉は直接的じゃない。でも、重さはじわじわと響いてくる。
──うぜえ
何も言わなかった。ただ、早く終われと思った。
それが正しい対処法だと、もうとっくにわかっていた。
──この世界では、静かにしているのが一番。
◇
あれから、放課後に何度も通っている。
最初は、あんな得体の知れないやつに関わった自分が、馬鹿なんじゃないかと思った。幽霊だか妖怪だか、正体もわからない存在に、余ったおにぎりを分けるなんて、どうかしてる。
でも、気がつけば一つの季節が変わるくらいには、あの神社に足を向けるのが当たり前になっていた。
最初は気まぐれだった。どうせ誰とも喋らないし、パンやおにぎりを適当に突っ込んで、あの神社に向かっていた。それだけのことだったのに、今じゃ何を買うか選ぶときに、無意識に「あいつの分」まで考えてる。
……別に、楽しいわけじゃない。
ただ、あいつがそこにいて、何も言わなくても許されるような気がした。それだけだ。
学校が終わると、いつものように家に帰るふりをして、まっすぐ神社へ向かう。今日は少しだけ早歩きだった。
コンビニで買った袋の中には、小さなパックに入ったプリンが一つ。
甘いものばかりじゃ芸がないかなと思ったけれど、きっとハイリなら喜ぶと思った。いや、喜ぶというより、変な顔して「なんだこれ」って言ってくれるだろう。
境内に着くと、ハイリは祠の脇で寝転がっていた。銀の髪が風に揺れて、陽の光を跳ね返している。
「……おーい、寝てんのか」
『んー……寝てたふりー。おかえり』
「……ただいま。じゃないけど」
袋を手渡すと、ハイリは嬉しそうに分裂したものを受け取った。プリンの蓋を開けて、ひとくちすくい取る。
『これ、なんて名前?』
「プリン」
『ふーん。……これ、めっちゃうまいじゃん』
「……そうかよ」
こんな風に、ただ誰かと時間を共有することが、今は何よりも救いだった。
プリンの容器は、気が付くと空になっていた。
スプーンの先に、ほんのすこしカラメルが残っている。
そのほろ苦さを味わいきる気にはなれず、そっとスプーンごと容器を袋にしまう。
──唐突に、ハイリが言った。
『かくれんぼしようぜ』
「は?いきなりなんで?」
『面白そうだから──見つけられなかったら、朔の負けな』
そう言って、あいつは先に駆けていった。
「いや、ちょっと待てよ──ルールは!?」
とりあえず十数えた。
そして、なんとなく隠れそうな場所を探したが、どこにもいなかった。
「ハイリ」、と呼んでも返事はなくて、物音もない。
近くにいるはずなのに、気配もしない。
何か、おかしいと思った。
──このまま、いなくなったら
幽霊が視えてしまう怖さと、また違うものを感じて胸が苦しくなる。
十分後くらいに、実は背後にいたらしいあいつが
『はい、俺の勝ち。ごめん、隠れるの得意なんだよ』なんてニヤニヤ笑って
俺は、うまく返せなかった。
勝ち負けじゃない。
そのときはもう、ちょっとだけ気づいていた。
あいつは、どこまでも隠れられる。
──そして、いつか本当に戻ってこなくなるって
少し不貞腐れたその帰り道。神社の脇を歩いていると、掲示板に新しい張り紙が貼られていることに気づいた。
「……?」
足を止めて、張り紙を見た瞬間、心臓がひとつ、打ち損なったような気がした。
《老朽化に伴う境内の取り壊し工事について》
《実施予定:翌年三月》
工事の理由も、関係各所の許可も、丁寧に書かれている。けれど、そんなことはどうでもよかった。
──取り壊される。あの場所が。
手に持っていた袋が、風に煽られて揺れた。
翌日、いつものように神社に行くと、ハイリは祠の縁に腰かけていた。
「……なあ、ハイリ」
『ん?』
「……神社、来年の三月に取り壊されるって」
ハイリは、一瞬だけ表情を止めた。
『へえ……そっかあ』
「……」
『まあ、別に俺はどこにも行けないし。壊されるならそれまでって感じ?』
「……なに、それ」
朔は、ぽつりと漏らした。
「おまえ、それでいいのかよ。……ここ、壊されるんだぞ?」
『うん。でも俺、ここに縛られてるし。……それに、べつにいいじゃん、無理してまで会いに来なくてもさ。忘れたければ忘れてくれていいし』
「ふざけんなよ」
思わず声が荒くなる。自分でも、どうしてこんなに苛立っているのかわからなかった。ただ、どこかがヒリヒリして、叫びたくなった。
「だったら、もう来ねえよ」
『……そう?』
それでもハイリは笑ってた。いつも通り、ただそこにいるみたいに。
「……なんで、そういう言い方すんだよ」
言葉が、勝手にこぼれた。
「なんなんだよ。何が“忘れたければ忘れればいい”だよ……おまえなんて視えなきゃよかったんだ」
声が震えたのは、きっと気のせいだ。
言葉が途中で途切れる。
ハイリはもう、何も言わなかった。ただ、いつものように微笑んでいた。
でも、その笑顔はどこか、少しだけ寂しそうに見えた。
◇
それ以来、神社には足が向かなくなった。
昼休み、廊下を歩いていたときに、保健の先生に呼び止められた。
「最近、ちょっと元気なさそうだから」
そう言って渡された紙には、カウンセリング室の名前と時間が書いてあった。
カウンセリング室は、校舎の一番端にある。音の届かないような場所。誰かに見られたら嫌だなと思いながら、扉をノックした。
中にいたのは、三十代くらいの女性だった。
「こんにちは。どうぞ、座って」
促されるまま椅子に腰掛ける。椅子が少し低くて、足元が落ち着かない。
「今日は、何か話したいことある?」
聞かれて、すぐに言葉が出るわけもなく、少しの間が空いた。ハイリのこと、幽霊のこと、勉強のこと、なくはないが、初対面の人間に話せることじゃない。
「……別に。ないです」
「そっか、無理に話さなくてもいいからね」
そう言いながら、彼女はノートを開いた。何かを書いている。話すつもりなんてなかったのに、喉の奥がざわつく。黙っていたくないのに、声にすると全部壊れそうで。
──それでも、言うだけ言ってみるか。
「……たまに、変なものが見えるんです」
静かに、けれど確かに口にした。カウンセラーの手が、ピタリと止まった。
「……現実で?」
「……はい」
一瞬、空気が変わった気がした。そう思ったのは、きっと被害妄想じゃない。
カウンセラーの目が、少しだけ色を変えたから。
「最近、ちゃんと寝てる?」
「……まあ」
「ご家族とは、普段、どんなふうに?」
言葉は優しいまま。でも、もうわかっていた。
この人は、「俺の話」を聞いてるんじゃない。
「どう対処すればいいか」を探ってるだけだ。
「病院、行ってみたことはある?」
「ああ、そうか」
声に出したのかどうかも、自分ではよくわからなかった。
どう言っても、全部“そういうもの”にされる気がした。
俺が、馬鹿だった。
話せって言うから、話したのに。
「今日はこのへんで、無理しなくていいからね」
そう言って、カウンセラーはドアを開けた。
黙って席を立ち、廊下に出た。
誰にも見つからないように、階段の影に身を隠して、そこでやっと、小さくため息をついた。
──結局、誰もわかってくれない。
そんなとき、思い出すのは──あの場所だった。
朔はまた、あの神社に足を運んでいた。
たぶんもう一度だけ、って思ってた。
それでも、どこかで「いるかもしれない」と期待してた。
けれど、神社は変わらず静かだった。
祠の前にも、境内の隅にも、ハイリの気配はなかった。
声をかけても、返事はない。
奥のほうまで歩いてみる。誰にも使われていない、古びた手水舎の裏。枝が覆いかぶさっている祠の横。
もう一度、境内をぐるりと見回す。
──いない。
「……どこに隠れたんだよ」
声にしてみても、答えは返ってこない。
──まあ、会いたくもないか。
冷たい風が通り抜ける。
制服のポケットに手を突っ込んでも、指先はかじかんだままだった。
「……もう、いいや」
誰にも聞かれないように、そう呟いた。
喧嘩別れだったのも、自分から距離を置いたのもわかってる。
けど、あれからずっと、どこかで期待してた。
今日また来れば、いつものみたいに「おかえり」って声がして、どうでもいい話をして、変な食レポでもしてくれるかもしれないって──
それが全部、ただの“自分だけの幻だったんだ”としたら。
今さら戻る場所なんて、もうどこにもなかった。
「……だったら」
ポケットの中で、指が小さく震えている。
もう、何も考えたくなかった。