◇第11話
◇
気づけば、畢木灰里は川のほとりに立っていた。
見渡す限り、色がない。空も、地面も、川も、ただの灰色だった。音もなければ、風もない。ただ、息をしているのかどうかもわからない空気の中で、灰里はひとり突っ立っていた。
さっき、頭を殴られた。そうだった。鉄パイプで──。
あんなもん食らって、生きてるわけがない。
そうか、やっと、死ねたのか。そう思って、口の端が勝手に上がる。
「……ふざけんなよ」
乾いた声が喉の奥で引っかかった。他人から見たら笑ってるように見えるのかもしれない。自分でもよくわからない。でも、胸の奥にあったものが、ぽたりと音を立ててどこかへ落ちていった気がした。
今まで、ただ、痛くて苦しいだけだったのに。
ビルから飛び降りても、薬を飲んでも、練炭を焚いても、全部、何にもならなかった。
そのくせ、よりによって鉄パイプかよ。
「……ダサすぎだろ、ほんと。一発くらいやり返せばよかった」
視線を横に滑らせる。
三城は──どうなったんだろう。
あいつのことなんてどうでもいい。……はずだった。
でも、今どこで何してんのかと思ったら、ちょっとだけ、胸のあたりがざわついた。
「……まあ、静かになったな」
言葉にした途端、余計な想像が脳裏に浮かぶ。あの顔で、また何か焦ったように叫んでそうな姿。無意味に手を伸ばしてるところ。俺のことなんか気にすんなって言ってんのに。
鼻で笑って、目を逸らす。
「……あーあ、やっと終わったと思ったのにな」
そう呟いて、川の方へ一歩、足を出した。
水は冷たくなかった。代わりに、感覚がなかった。ただ、そこに“ある”とわかるだけだった。まるで、これが終わりの合図みたいに。
でも、渡ろうとした瞬間──。
視界の端が、にじんだ。眼前に何かが浮かぶ。
◇ 二〇??年
──走馬灯、というやつだろうか。
幼い頃、誰とも遊ばず、本を読むふりをして机にかじりついていた時間。どうせ誰も話しかけてこないし、こっちから話しかけても、会話が続く気がしなかった。
ある日、教室の隅で、ぽろっと言ってしまった。「昨日、屋上に人が立ってた」って。
それが幽霊だったと気づいたのは、自分でも少しあとになってからだった。
教室の空気が、ピタリと止まった。
誰も、何も言わなかった。その日はそれきり。
でも、翌日から、目すら合わなくなった。
「……UFO見たって言った子の話は喜んで聞いてたのに」
苦笑いみたいに、心の中で呟いた。
「僕の見たものはダメなの?」
口に出せたらよかったのに。
でも、出したらまた無視される気がして、できなかった。
目が合えば、向こうが先に逸らす。声をかけると、どこか気まずそうに笑われて、それきり。そういうのを何度か繰り返すうちに、自分から話しかけることはやめた。
──そのほうが、傷つかずに済むと思った。
そうして距離を置いたつもりが、いつの間にか、誰にも存在を認識されないようになっていた。幽霊みたいに。
帰っても、家はいつも静かだった。
両親とも働いていた。疲れていたんだと思う。
だから、話しかけても、ちゃんと返ってきたことはほとんどなかった。
勇気を出して母に話してみた。「変なこと言わないで」と笑われたあとで、「あんた、病院……行く?」って、小さな声で言われた。
──ああ、もう誰にもわかってもらえないんだな。
そう思った瞬間から、自分のことも幽霊のことも口にしなくなった。 「なかったこと」にした。心の棺の中に押し込めた。
自分が、いないことにされるくらいなら──
最初から、いないほうがマシだった。
……はずだったのに。
あいつは、違った。
──最初にあいつに会ったときは、秋だというのに、空気は夏の名残で、息が詰まるほど重たかった。
日陰を探して、辿り着いたのは、人の気配がまるでしない、小さな神社の境内。雑草が石畳を覆い、祠の木肌は長年の雨風に晒されて苔むしていた。
まるで、誰かに忘れ去られた場所のように。
落ち葉を軽く手で払い、その場に腰を下ろす。少しひんやりした石の感触が制服の生地越しに伝わった。
祠の前は誰にも見つからない場所。
どうしても家にも学校にもいたくなくて、誰の声も届かない場所を探して、たまたま辿り着いたはずだった。
手のひらで落ち葉を払うと、冷たい石が出てくる。
そこに、かすれた二文字。
「不」……もうひとつは、読めなかった。
風にさらされて、崩れかけた文字の輪郭。
「不死」だったかもしれないし、違ったかもしれない。
どちらにせよ──どうせ俺には、関係のないものだと思っていた。
そんなときだった。
「こんなとこいたら倒れるよ?」
背中に声が届いた。
最初、誰かの空耳かと思った。こんなところに、他の誰かが来るとは思えなかったから。でも、どういうわけか、振り返ってしまった。
反応しないことにももう慣れてしまったのに。
そこにいたのは、祠に肘をかけて立つひとりの人物だった。
汚れ一つない白い着物、輝くような銀の髪──陽の光を浴びているのに、その姿だけがどこか透けて見えるような、現実感のない存在。
「えっ、おまえ……俺のこと視えるの?」
驚いたような、でも楽しそうな声だった。
視える。視えてしまっている。
──また変なのに反応しちまった。
後悔が首筋を這う。でも、もう目を逸らせなかった。
「……視えるけど」
口が勝手に動いた。
「……視える人、久々に見た!」
声が弾む。屈託のない笑顔。今まで視えてしまった連中とは、明らかに違っていた。
今まで見たような火傷痕も、伸びた首も、どす黒い雰囲気もない。ただ、眩しさだけがあった。
「なあ、何か食べ物持ってない?」
……は?
思考が一瞬止まる。開口一番、それかよ。
でも、断る前に体が動いていた。
鞄の中を漁って出てきたのは、今日の昼に買ったまま、結局食べなかった具なしのおにぎり。ぺしゃんこになってるし、もう食べる気も起きなかった。
「……これ」
「この食べられないとこ、めくってよ」
「……ええ……」
なんで自分がこんなことしてるんだろう、という思いを打ち消しきれないまま、それでも手を止めなかった。
「ありがとう!」
おにぎりを受け取った彼の手元で、何かがふっと剥がれるように見えた。
その直後、自分の手元にも、まだちゃんとおにぎりが残っていた。
──え?
彼の手にも、同じおにぎり。
「……え、ちょ、なに……?」
言葉が詰まったまま腰を抜かして、石の上にへたり込む。
「一緒に食べようぜ」
あっけらかんとした声が耳に飛び込んでくる。
まるでこれが当たり前だと言わんばかりに、おにぎりを頬張る姿は、なんだか妙に人間っぽかった。
「……」
警戒心よりも、先に手が動いた。
こんな風に“誰かと一緒に食べる”なんて、何年ぶりだっただろう
「具なしかー」
「人からもらったものにケチつけないでくれる?」
「いやいや、ケチつけたんじゃなくてさ。……おいしいよ?」
「……なら最初からそう言えば?」
「言ったじゃん」
ぽそっと返した声が、どこか間の抜けた調子で、妙に気が抜ける。
「そういやさ、お前、名前なんていうんだ?」
もぐもぐと頬張りながら、彼は当然のように聞いてくる。
「……朔」
名前を名乗るのが、ずいぶん久しぶりな気がした。
「君は……?」
返すと、彼は一瞬だけ空を見上げた。
「俺? 俺、名前なんて言うんだろうなあ……」
笑っていた。でも、その顔には、少しだけ困ったような影が差していた。
「うーん……なんだっけなぁ。でも、誰かが『ハイリサマ』って呼んでた気がする」
「“サマ”って、名前にくっつけるやつじゃん。……『ハイリ』なのかな?」
「そうなんだ。じゃあ、『ハイリ』って呼んでよ!」
「……ハイリ、ね」
試すように名前を呼んでみると、ハイリは少し目を見開いた。驚いたような、それでいて照れくさそうな顔だった。
「なんか、久しぶりに誰かに名前呼ばれた気がする」
「呼べって言ったの、そっちだろ」
投げやりに返したつもりだったが、ハイリはふっと笑って、空を見上げた。
「最近は、誰も来ないからさ。……昔はもっと賑やかだったんだけどな」
一拍置いて、続ける。
「誰かがダンゴとか、パンとか、ちょっとしたお供えを置いてってくれたんだ。……暗くなるとオマツリがあってさ。境内に灯りがともって、人がいっぱいで……。もうどれだけ前か忘れちゃったけど」
「祠の前に?」
「うん。ああ、あれ美味しかったな。えっと……ヤキソバとリンゴのアメとチョコバナナと揚げた芋……それから、甘い雲」
「多いな」
「祭りの時期は、食べ放題だったんだよ」
「もしかして、盗って食ってる……?」
「人聞きが悪いなあ。俺の場所で勝手にオマツリしてんだから、お互い様だろ? 減るもんじゃないしさ。そうそう、また来ることがあったらでいいけどさ。なにか持ってきてくれると嬉しいんだ。いろんな物、知りたいからさ」
ずっと、こいつは変なことを言っている。やっぱり、人間じゃないのかもしれない。
「……まあ、いいけど」
そう口にした瞬間、ハイリがふっと笑った。
その笑顔に釣られるように、胸の奥が少しだけ、あたたかくなった気がした。
けれど──どうして断れなかったのか、自分でもよくわからなかった。