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◆第10話


 街の騒がしさも、どこか遠くに置き去りにされたようだった。

 しばらくして、ふと呟く。

『……佐藤を探しに行かねえと』

 思わず漏れた三城の言葉に、灰里がちらりと目を向けた。

「お前、なんで──そこまでして、身体を取り戻したいと思うんだ?」

『は?』

 その声は不意打ちのように、静かに、けれどまっすぐに投げかけられた。

 反射的に聞き返した三城に、灰里は視線を戻しながら、リードに触れる指にわずかに力を込める。

「俺にはそこまでして生きたい理由がわからない」

『なんで、ってそりゃ……』

 ──元々あの身体は俺のだから?

 ──あんなやつを野放しにするわけにいかないから?

 理由なんて、いくらでもあるはずだった。けれど、口をついて出たのは、

『……俺のだって、思うからだよ。返してもらわなきゃ、困る』

「困る? 何が?」

『……仕事とか、家とか……生活とか……そういうの』

「……それ、取り戻す価値あんの?」

 その問いに、三城の肩がびくりと揺れた。

「帰って一人で酒飲んで、毎日同じことの繰り返し──そんな暮らしが、お前にとって“奪われたくない人生”だったのか?」

『……っ』

 言い返そうとして、言葉が詰まった。灰里は目を逸らさず、静かに続けた。

「お前の“生きたい”って、せいぜい“戻りたい”だろ? そこに未来なんかあんのか」

『お前に、何がわかる』

「わからねえよ。だから聞いてんだろ」

 三城は、視線を逸らした。

 ──確かに、戻ったところで、またあの繰り返しだ。朝起きて、吐きそうな顔で会社行って、上司に頭下げて、無言で酒煽って──。

『……でも、それでも、自分の人生なんだよ。誰にも勝手に奪わせたくねえ。それだけだ』

「……ふーん」

 灰里は、少しだけ目を細めた。

「それが“生きたい”ってことか。……随分ちっぽけだな」

『……お前は、なんなんだよ』

 三城の声が低くなる。

『死にたがってばっかで、生きることに興味ねえくせに、なに人の生き方に口出してんだよ』

 灰里は、表情を変えずに言う。

「俺は、最初から死にたかった。……でも死ねなかった。それだけだ」

『それで、なんの意味があるんだよ』

「ねえよ。だから言ったろ、“生きたい理由なんてわからない”って」

 三城はしばらく黙っていた。けれど、その沈黙を破るように、低く絞り出すように呟いた。

『──それでも、俺は、生きたいと思ったから動いてんだ。お前みたいに、何もしないで済ませたくねえんだよ』

 その一言に、灰里の目が、わずかに揺れた。

「……へえ」

 短く息を吐いてから、言う。

「じゃあさ。いつか、ちゃんと教えてよ」

『は?』

「“生きたい”って、どういうことか。──俺にも、わかるようになったら、少しはマシかもな」

 三城は、少しだけ視線を落としたまま、口角をゆるめた。

『……お前こそ、自分の生きる理由ぐらい、一つくらい作っとけよ』

 風が吹いた。誰のものでもない、ただ冬の気配を連れてくるだけの風だった。

 二人は、そのまま並んで歩き出した。


 何も言えないまま、風が通り抜けていく。

 その風に乗って、どこか遠くで金属の擦れる音がした。


 ──ギィッ。

 乾いた金属音。

 警告のような、不吉な響きがどこかから届いた。風に混じったわずかな気配。通りの奥、視界の端に、一瞬だけ影が閃いた。

『危ない、灰里──!』

 三城は反射的に叫んだ。

 その声に、灰里が肩をひるがえす。だが、完全に避けきれなかった。鋭く振り下ろされた鉄パイプが、彼の腕をかすめる。

「っ、ち……!」

 鈍い音がした。灰里の表情が歪む。手にしていたリードが、パッと手から離れた。

 痛みを堪えるように、灰里が歯を食いしばる。

 シバはぐるると喉の奥で唸った──けれど、吠えもしない、動きもしない。

 ただ静かに、その場で灰里の前に立ちはだかり、低く、確かな敵意を返した。

 鉄パイプの持ち主──その姿を見た瞬間、三城の思考は一瞬で凍りついた。

 ──あいつ……!

 先ほどまで舞の前でオドオドしていた“同じ姿をした自分”は、また別人の顔をしていた。

 その目に宿っていたのは、恐怖でも後悔でもないように見える。

 言葉にできないほどの──何かが、そこにあった。

 理由も、意味もわからない。ただ、その視線には、こちらを“排除しよう”とする、はっきりとした敵意が滲んでいた。

 三城は凍りついたように動けなかった。

 それは自分の顔をした、まったく知らない誰かだった。

『……なんだよ、あいつ……完全にイカれてんじゃねえか……!』

 三城は震えながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。自分の見た目をした男が、再びこんな化け物じみた行動に出るなんて、想像もしていなかった。

 灰里は痛む腕を押さえながら、殴りかかろうとした“もうひとりの三城”──佐藤の正面に立つ。

「……っざけんな!」

 鉄パイプを再び構えた佐藤の腕を、灰里が正面から受け止めた。取っ組み合いになる。佐藤は鉄パイプを離そうとしない。

「おまえ……!なんで死んでないんだよ!」

「死ねたらこんな苦労しねえよ!」

 一瞬、佐藤の目が揺れた。

 だがすぐに、思い直したようにパイプを振り上げた。

「やっぱり……死神じゃねえか!!」

 叫びとともに、ふりほどかれた佐藤の手が再びパイプを振り上げる。

 三城の声が届く前に、それが──灰里の頭を、鋭く叩いた。

「──っ!」

 その瞬間、時間が凍ったような錯覚があった。

 灰里の身体が、糸が切れた人形のように、ゆっくりと、音もなく崩れ落ちた。地面に頬をつけたまま、ぴくりとも動かない。

 鉄パイプが、ガランと音を立てて転がった。

 三城は思わずその場に立ち尽くした。

 灰里の血が、コンクリートの地面に、音もなく滲んでいく。

 信じられなかった。視界の端で、白い犬の姿が微かに揺れて見える。

 ──灰里が、倒れた。

 その現実だけが、冷たい鋼のように胸の奥を突き刺す。

「……え?」

 ぽつりと呟いたのは、佐藤の方だった。

 その目が、ゆっくりと灰里の倒れた身体へと降りていく。

「……死んだ?」

 佐藤の口が、かすかに動く。自分でも信じられないといった声音だった。

 だが次の瞬間、その目が、ぐらりと揺れた。

「……いや、違う……あいつ、生きてる。あの時だって……!」

 佐藤の手が、また、パイプの柄を持ち直す。

 三城の背筋に、ゾッとする冷たいものが走った。

『やめろ!!やめろって……!!』

 声を張り上げても、それは空気を震わせることもできない。

 佐藤は、今まさに倒れた灰里に向かって、もう一度──いや、それ以上──鉄パイプを振り上げようとしていた。

『おい……やめろって……!死ぬぞ……本当に、今度こそ……!』

 懇願のように、叫ぶ。

 届かないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。

 けれど、佐藤の表情はどこか別のものに変わっていた。

 恐怖、錯乱、執着……いや、それらすべてをまとめて飲み込んだような、何か、壊れかけた感情の混ざった目だった。

「壊さなきゃ……壊さなきゃ、俺が……」

 ぶつぶつと、佐藤が呟く。

 その手が、振り上げられたパイプごと、再び振り下ろされかけた―

 誰か──誰でもいい、止めてくれ。

 そんな願いが、喉の奥でせき止められたときだった。

 ──カァアッ!

 頭上で、鋭い一声が空を裂いた。

 三城が顔を上げると、電柱のてっぺんに一羽のカラスが羽を広げ、こちらを見下ろしていた。

 まるで、何かを告げるように鳴いたその直後──

「……ええ加減にせえや、お前」

 どこからともなく、静かで、それでいて深く響く声が届いた。

 その声がした方を見たときには、もうすでにそこに立っていた。

 ──旭だった。

 舞とは全く雰囲気の違う男。長身で、緩く口角を上げた表情のまま、目元にはいつもの笑みをたたえていた。……いや、その目だけは笑っていなかった。

「やっぱり、おまえやったんか。何かしたな思てたけど──ここまでとはなあ」

「誰だ、おまえ!」

 佐藤が振り返る。

 が、次の瞬間、旭の足が一閃する。

 パイプを持つ手を蹴り飛ばし、鉄の棒は手から離れて地面に転がった。

「っ……!?」

 佐藤が体勢を崩す。

「それ以上、友達になんかしたら、今度はお兄さんが怒る番やで」

 旭の声は静かだった。

 だが、そこにあったのは、三城がこれまで見たことのない、凍りつくような怒気だった。

 旭の蹴りで手から弾かれた鉄パイプが、カラン、と地面を転がっていく。

 佐藤は数歩、よろけるように後ずさった。けれど、足元が覚束ないのか、背後の壁にぶつかってバランスを崩す。

「や、やめろ……!」

 怯えきった声だった。

 まるで、目の前に立つ男が、「死神」より恐ろしいものに見えているかのように。

「こっちの台詞や。どの口が言うとんねん」

 旭はそう言いながら、一歩、また一歩と佐藤に近づく。

 歩みは遅い。けれど、逃げ場がないと理解させるには、十分すぎる威圧だった。

「やだ、やだ……!こいつが……こいつが、俺を殺そうとして──!」

 佐藤が叫ぶ。誰に言い訳しているのかもわからない、錯乱の叫び。

 その口に、旭は冷たく言い放った。

「見た感じ、逆やったけどな」

 抵抗しようとした佐藤の肩を、旭が軽く押さえる。

 次の瞬間、手刀が喉元に滑り込んだ。

 大きな音もなく、佐藤の身体が地面に沈む。

「──うまくいくと気持ちええんやけどな」

 旭はそう言いながら、手首を軽く振って気怠げに笑った。

「っ……あ゛……!」

 佐藤が蹲った。まるで心臓に直撃でも食らったように胸を押さえ、膝から崩れ落ちる。

「大人しくしとき」

 旭はそう言って、倒れ込んだ佐藤の背を軽く押さえ、手際よく両手をシバのであろう予備のリードで縛る。

 動きを止めた佐藤は、もはや抵抗する力も残っていないようだった。うめき声すら上げず、呼吸だけが荒く続いている。

 ──そうだ灰里は!?

 三城は気づけば、灰里の元へ駆け寄っていた。彼の肩を触り、何度も名前を呼ぶ──けれど、返事はない。

 顔色はひどく青く、血が額から少しずつ流れている。

『……生きてるよな? なあ……灰里……』

 返事がないことが、こんなにも恐ろしいと思ったのは、初めてだった。

 その背に、旭の言葉が投げかけられる。

「……死んでない。少なくとも、今はな」

 その声に、俺は思わず顔を上げた。

 旭は、拘束した佐藤を手際よく座らせていた。さっきまでとは違い、淡々とした口調だったが、その目だけは、まだ鋭く周囲を警戒しているようにも見えた。

「けど、すぐには目ぇ覚まさんやろな……」

 俺は何も言えなかった。ただ、倒れた灰里の肩に手を添えたまま、彼がまだ息をしていることだけを確認し続けていた。

 灰里の額からは血が流れていた。白黒のボーダー柄のニット帽も、今では赤く染まり、まるで別物になっている。

『灰里……おい、灰里! 返事しろよ……!』

 何度呼びかけても、反応はない。ぴくりともしない。

 そんな中で旭が、ちらりとこちらに目を向けて、短くため息をついた。

「……救急車と警察……、呼んだほうがええな」

 ポケットからスマホを取り出しかけた、そのときだった。

「……あれ……?」

 俺は、灰里の額に視線を落としたまま、小さく声を漏らした。

 さっきまで、もっと血が流れていたはずだった。

「……今、もっと……血、出てたよな?」

 傷口を思わずなぞろうとした、そのとき──

 傷が、ふさがっていく。

 本当に、目の前で、皮膚が再生するように。血の跡だけを残して、赤くなった肌が元の色を取り戻していく。

『……は?』

 俺の声が、震えた。

 旭もスマホを下ろして、こちらに寄ってくる。

「うそやろ……」

 しゃがみ込み、傷を確かめる旭の顔も、さすがに驚きの色を隠せていなかった。

「……こいつ、ほんまに人間か?」

 俺は答えられなかった。確かに息をしている。脈もある。けれど、こんなの、人間の身体の治り方じゃない。

『……なんなんだよ、灰里って……』

 俺の口からこぼれたその呟きに、旭はほんの少し顔をしかめた。

「とりあえず、病院はナシや。……なんか違う」

『違うって、どういうことだよ』

「そのまんまや。連れてったって、説明つかん。……ていうか、これ、医者に見せて信じてもらえる思うか?」

 旭の言葉が、妙に現実味を持って胸に突き刺さる。

 現実が追いついてこないのは、むしろ三城の方だった。

「ちょっと、ごめんな」

 旭は、灰里のポケットにそっと手を差し入れた。何かを確かめるように、ゆっくりと。

 そうして取り出したのは、角の欠けたプラスチックのカード。

『……保険証?』

 旭が覗き込む。その顔が、すぐに微妙なものに変わる。

「……なあ、これ……」

 三城も眉をひそめて、彼の手元を覗き込んだ

 氏名の欄、苗字の部分だけが黒のペンで何重にも塗り潰されている。重ねた線の荒さが、ただのミスではないことを物語っていた。

 残された名前は──朔。

 有効期限は、十年以上も前に切れていた。

『……なんで、こんなの……』

 言葉が思わずこぼれた。

 灰里の性格からして、こんな過去のものを持ち歩くようには思えなかった。執着なんて一番遠いところにいるはずなのに。

 それなのに、この保険証は妙にしっくりきていた。

 だからこそ、どこか、ぞっとするほどに似合っていた。

『……この線、わざとか?』

「さあな。でも、こんなことする奴、そうそうおらんやろ」

 三城はその名前を、ゆっくりと、口の中で転がすように呟いた

『……朔……』

 意味なんてなかった。ただ、喉の奥が急につかえたような、そんな感覚だけが残った。

 灰里──いや、“朔”。

 どこか、似合っていないようでいて、妙にしっくりくる響きだった。

「こんだけ擦れてて、苗字だけ黒塗りで……しかも有効期限、10年以上前。拾ったにしては、妙に“馴染み”ありすぎやろ」

 旭がぽつりと呟く。

『……じゃあ、やっぱ本人の?』

「かもな。“昔の名前”……やったんちゃうかって、思わんでもないな」

『なんで……持ってたんだ……』

 三城の小さな呟きに、旭は少し間を置いて、静かに応えた。

「さあな。……捨てる気にはなれんかったんかもな。全部じゃなくて、……どっか、切り離せんもんがあったんやろ」

 風が吹いた。

 血のにおいと、夕方の冷たい空気が混ざって、この場にだけ、現実と少しずれた時間が流れているようだった。

 三城は、もう一度、灰里──朔の顔を見下ろした。

『……灰里。お前、いったい何者なんだよ……』

 けれど、返事は、なかった。

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