◆第9話
◆
神社から離れると、シバは急に足取りを変えた。目的地があるかのように、街の方へと一直線に進み始める。
灰里はリードを軽く握ったまま、少し引きずられるように歩を進める。
「なんか、行きたい場所でもあんのか……?」
街の中心部に近づくにつれ、ぽつぽつと人の姿が見えてくる。
スーパーの袋をぶら下げた年配の夫婦、正月飾りを扱う小さな店の前で立ち話をする人たち。
都会のような喧噪はないけど、それでも年の瀬特有の、どこかそわそわした空気が町に満ちていた。
ふと、三城は灰里の横顔をちらりと見る。
こうして歩いていると、どこからどう見ても、地雷系男子と犬の散歩。だというのに、どこか不釣り合いな違和感がつきまとう。いや、見たまんまの意味じゃなくて。
『さっき神主が言ってたろ。お前に似た姿のやつが、お前を消したくないって……あれって……』
問いかけてみたものの、灰里は何も言わなかった。まるで、考えること自体を拒絶しているような沈黙だった。
通りすがりのショーウィンドウに、自分たちの姿が映る。
銀髪の少年、白い犬、そして──存在しない自分。
鏡じゃないからだろうか、当たり前のように、そこには三城の姿はなかった。
『……』
視線の先、人の流れが途切れた歩道に、どこかで見た私服姿の少女が立っている。
綺麗な黒い髪が、風に揺れる。
「あれは……」
──舞だ。
旭に紹介された時にアノマロカリスなんて言われたことが脳裏によぎる。あの時も声をかけられず終わったが、そもそも今は声をかけることはできない。幽霊なのだから。
──こんなところで、何しているんだろう?
そのとき、シバがぴたりと足を止めた。鼻先を少し持ち上げ、何かの気配を感じ取っているようだった。
『……どうした?』
灰里もつられて立ち止まる。
するとそのすぐ足元に、ころんとした小さな影が駆け寄ってきた。
「わんちゃん! かわいい!」
幼い声。五、六歳くらいの女の子だ。シバのふわふわした毛に手を伸ばし、嬉しそうに撫でまわしている。
「えっ、あ、ちょっと……」
灰里が困ったように声をあげてリードを引くが、シバはびくともしない。
「飼い主さんですか?うちの子が勝手にすみません」
少し離れたところから、母親らしき女性が声をかけてくる。
「……違う」
即答しかけた灰里を、慌てて三城が制止する。
『いやいや、そこは飲み込め! 不審者まっしぐらだろ!』
当然その声は、灰里にしか届かない。
「……」
しばらくの間を置いて、灰里はしぶしぶ口を閉じ頷いた。
母親はにこやかに笑う。
「優しい子ですね」
無表情のまま、灰里は肯定も否定もしない。
言葉に詰まって、ただ無言で立ち尽くしていた。
三城は吹き出しそうになるのをぐっと堪えながら、もう一度舞がいたはずの場所を振り返る。
そこには、もう誰の姿もなかった。
しばらくして女の子とその母親が去り、通りは再び穏やかな年の瀬の空気に包まれていった。
スーパーの袋を提げた人がひとり、またひとりと歩いていく。誰もが、少しだけ急ぎ足だ。
けれど、静けさが戻る前に──何かが、ふと、変わった気がした。
『……あれ?』
灰里が、手元のリードを少し引き寄せる。
それまでおとなしくしていたシバが、突如として首を持ち上げた。鼻先をひくつかせ、空気の匂いを確かめるように。
「なんか……感知してんのか?」
その言葉に応えるように、頭上で一声、カラスが鳴いた。
シバの耳がぴくりと動き──次の瞬間、鋭く前方を見つめる。
『おい、急にどうした』
三城が思わず問いかけた、その直後だった。
頭の奥に、ズキンと鋭い痛みが走る。
……まただ。
前触れもなく、視界が切り替わる。
──いつもより低い視界、知らない街角。すれ違う人の気配。地面を踏みしめる足音。
その視線の先、見覚えのある、私服姿の男が立っていた。
ゆっくりとこちらを振り返ろうとして──
『……え?俺?』
視界がぶつりと途切れる。
痛みが引いたとき、三城の呼吸は荒く、浅くなっていた。胸の奥を掴まれるような焦燥感だけが残る。
『……今、近くにいる』
灰里も、シバの挙動から何かを察していたのか、すでにリードを持ったまま周囲を見渡している。
言葉に出すと同時に、三城はすでに周囲を警戒していた。シバもリードを引くようにして歩き出す。まるで、匂いを追っているかのようだった。
──もう一人の俺は、このあたりにいる。
確信だけが脈打つように胸を叩いていた。
◆
シバに導かれるようにして、三城と灰里は細い通りを抜けた。
抜けた先には、小さな商店街がぽつぽつと並び、正月飾りを扱う露店がひとつ、店先に数人が立ち止まっているだけだった。
耳に届くのは、風に揺れるのぼりの音と、時折交わされる短い会話。年末とはいえ、騒がしさとはほど遠い。
けれど、どこかざわつくような気配が、通りの空気に混ざっていた
そんな中でも、シバの足取りは変わらない。まっすぐに──まるで、何かを辿っているかのように。
ふと、前方に立つ二人の姿が目に入った。
──舞だ。
黒く緩く巻いた髪を後ろで軽く束ね、ほんの少し照れたように笑いながら、目の前の相手に頷いていた。その向かいに立っているのは──。
まぎれもない、自分だった。
不自然に強ばった表情。どこか所在なげに視線を泳がせている。けれど、舞に気を遣っているのか、無理にでも笑みをつくろうとしていた。
──何してる、あれ。
まるで、自分の身体が“勝手に人生を進めている”ような、言いようのない焦りが、背筋を這い上がる。
そのときだった。
シバが低く、喉の奥から唸った。
ぐるる、と控えめながらも、はっきりとした警戒の音
視線は、一点──もうひとりの自分の横顔に、まっすぐ注がれていた。
反応するように、その肩がわずかに揺れる。
──そして、振り向いた。
もうひとりの自分は、ぴたりと動きを止めた。
目を見開いたように見える。表情が変わり、顔色が、すうっと青ざめていくようにみえた。
三城は思わず息を呑んだ。
──あいつ、今……灰里の顔を見て。
その瞬間だけ、世界が凍りついたような沈黙があった。
舞が何かを言おうと口を開いたが、それより先に、もうひとりの自分は体を反転させる。
何も言わず、走り出した。
「逃げた!」
「行くぞ!」
灰里の声が飛び、シバが素早く反応する。
リードを引いた灰里が駆け出すと、三城も後を追った。
狭い通りを抜け、曲がり角をいくつも越え、人の間をすり抜けて走る。
──だが、逃げ足は異様に速かった。
「……くそっ、見失った」
灰里が息を切らせて立ち止まる。
周囲にはもう、あの姿はどこにもなかった。人通りの少ない裏道。看板の陰にも、建物の隙間にも気配はない。
ただ、わずかに錆びた鉄の匂いと埃っぽい空気が漂っていた。振り返ると、近くに無人の工事現場があるらしく、道路の一角に養生シートとロープが無造作に絡まり、使いかけの資材や、雨に濡れた鉄パイプが無造作に積まれていた。通行人の姿もほとんどなく、声も音も遠い。
「逃げ慣れてんのか、あいつ……」
小さな舌打ちが、静けさの中に響く。
シバは鼻をひくつかせていたが、やがてその動きを止めた。
諦めたように、その場でおすわりをする。
三城はただ、悔しさを抱えたままその場に佇んだ。
──チャンスを、逃した。
焦りと、不安。
その奥で、言葉にできない嫌な予感だけが、じわじわと広がっていく。
灰里はリードを引き直し、静かに息を吐いた。
「……逃げられたな」
彼の低い呟きが、吐く息とともに白く広がる。
三城はその場に立ち尽くしたまま、小さく息を吐いた。あれだけ近くにいたのに、またしても──手が届かなかった。
そのときだった。後ろから、ためらいがちに声がかけられる。
「……あの!」
振り返ると、舞が小走りで近づいてくるところだった。
息を整えながら、背中まで伸びた髪を揺らして立ち止まる。その顔には、わずかな不安と、戸惑いの色が浮かんでいた。
灰里はちらりと目を向けたが、反応はない。いつものように無言で、わずかに視線を逸らしただけだった。
三城は何か言おうとして、すぐに思い出す──自分の声は聞こえないのだと。
そのとき、舞の口から名前がこぼれた。
「なんか……佐藤さん、急に顔色変えて逃げちゃって。びっくりしたから……」
──佐藤?
三城の思考が、ほんの一瞬止まる。
胸の奥に、ひやりとした違和感が残った。
名前も、声も、何も知らないはずの他人が。
自分の顔で、自分の知らない人生を、あたりまえのように歩いている。
──佐藤、か。
ようやく“あいつ”が、一人の人間として輪郭を持った気がした。
けれど、だから余計に──許せなかった。
感情が言葉にならないまま、静かに胸の奥で煮えたぎる。
そんな三城の想いに気づくはずもなく、舞はそっと視線をシバに移した。
「シバ、久しぶり」
手を伸ばして首元を撫でると、シバはじっと動かず、落ち着いた顔でそれを受け入れていた。
「……灰里くん、だっけ?」
舞は灰里のほうを見上げる。
灰里は相変わらず無表情のまま、ほんのわずかに視線を下げただけだった。
「お兄ちゃん、いつもああだから。気にしないでね」
そう言って舞は、気まずさをごまかすように笑う。
「……あの、お兄ちゃんは誤魔化してたけど、そこに──幽霊さん、いるんでしょ?」
三城ははっと息を飲む。
灰里がちらとこちらを見る。表情は変わらないけれど、「答える気ないんだけど」とでも言いたげな空気が、無言のまま漂っていた。
けれど、しぶしぶといった調子で、短く答える。
「……そうだ」
「やっぱり」
舞はぱちぱちと瞬きをして、小さく頷いた。迷いなく、そして少しうれしそうでもあった。
「どんな幽霊さんなの?」
好奇心のにじんだ声で、舞は問いかける。
灰里は一瞬だけ視線を動かし、三城のほうを見る。
無言のまま、「どうするんだよ」と言いたげな顔。
三城は目をそらしながら、「好きに言えよ……」と心の中で呟く。
灰里はわざとらしく小さくため息をついてから、適当に言葉を選ぶ。
「……さっきの男みたいな間抜け面」
「おまえさ!?」
三城は思わず抗議したが、もちろん音にはならなかった。
もちろん、その抗議は声にはならない。ただの空気の震えにもならずに、胸の内で虚しく弾ける。
舞は目を丸くし、そしてこくりと頷いた。
「へえ……いいなあ」
舞は、ぽつりとそう呟いた。
その一言に、思わず三城は舞の顔を見た。驚き、とまではいかない。ただ、少し意外だった。
「は……なにが?」
灰里の問いかけに、舞はシバの頭を撫でながら、小さく笑う。
「だって、お兄ちゃんもお父さんもお母さんも、“幽霊なんて視えても怖いだけや”って言うけど、なんか……楽しそうに話してるから」
その言葉は、思っていたよりもずっと素直で、少しだけ、切なかった。
「私は視えないから、なんかちょっと、さみしいなって」
灰里は黙ったまま、答えを返さなかった。
三城も、何も言えなかった。言えるはずもなかった。
「視えていたら、怖がっていたかもしれない。けれど──視えないまま、ぽつんと取り残されるのも、それはそれで」
舞がぽそっとつけ足した。
「でもまあ、ほんとに怖い幽霊だったら嫌だけどね。……今のところ、平気そう」
まるで、見えもしない“誰か”に向かって、舞はほんの少しだけ、微笑んだように見えた。
しかし、その笑顔が、なぜか灰里の眉をわずかに動かした。
喜んでるのか、苛立ってるのか、三城にはわからなかった。ただ──何かが引っかかったように、彼は小さくため息をついた。
「……幽霊なんて、視えねえほうがいいに決まってんだろ」
言い方は淡々としていたが、その声には棘のようなものが混じっていた。
舞は一瞬きょとんとして、それから、かすかに眉を寄せた。
「……そうかな」
「視えていいことなんて、なにもねえよ」
灰里の目は舞を見ているようで、その実どこも見ていないようだった。
その返答は、舞に向けられたものというより、もっと別の誰か──あるいは自分自身に言い聞かせているようにさえ聞こえた。
日が傾き始めていた。西の空には朱が滲み、街の空気も、昼間よりぐっと冷たさを増していた。
舞はふと空を見上げる。
「……もう帰らなきゃ。お父さんに頼まれてた用事、あるから」
そう言って、肩から提げたハンドバッグの持ち手を軽く握り直す。小さな仕草だったが、それはもう話の終わりを告げていた。
「じゃあね」
小さく手を振ると、舞は角を曲がって歩き去っていく。その背中が見えなくなっても、三城はしばらくその場から動けなかった。