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夢の国のミーたん

作者: 梅野飴

 春とはどのような季節か。

 高い空に桜が舞う季節。雪が溶け世界が暖かくなる季節。感受する者によって表現は様々だが、猫の世界においてそれは雄猫が雌猫の尻を追いかける季節だ。

 このくだらない季節に私はあくびをする。屋根の上から眺める下界の亡者たちの狂宴と、雌猫を追ってどこまでも行く雄猫たちの執念に吐き気すら催す。

 今日も一匹、また一匹とくだらない雄猫たちが旅立っていく。野良猫、家猫、黒猫、白猫、シャム猫、さまざまな形態の猫たちが尻と夢を求めて赴いていく。

 あぁ、今この屋根の下を往く猫のなんとブサイクなことか。のっそのっそと歩くその体躯はふとましく、どこか不貞腐れたようにむっつりと腫れぼったいその顔は全雌猫を慄かせるに充分な醜さを湛えている。悲しいかな、花が己が花弁の色を知らぬが如く、猫にも自らの姿を知る術はない。故に、あのような醜い様を呈していても威風堂々と雌猫を追いかけていけるのだろう。

 そのような悲哀の思いに馳せ、西へ西へと遠ざかるブサイク猫の尻を眺めていると、今度はミャーオと空へ抜けるような美しい鳴き声が、真下から私の鼓膜を揺らした。思わず声のする方角、つまり真下へと目を向けると、そこにはなんとも華奢で可愛いらしい白猫のお嬢さんが、細く長い尾をぴんっと美しく立てながら、つま先で姿勢正しく歩いているのが見えた。先ほどその道をぼてぼてと歩いていた不細工な猫とのあまりのコントラストに私は思わず吹き出す。と、同時に春の罪を嘆いた。この季節は、不細工な雄猫だけでなく、かように美しいお嬢をも狂わすのか、冬残りの肌寒さと桃色の陽光に当てられふらふらと、ここにはない何かを求めて旅立つには雌雄は問わないのか。

 そのように嘆きの思いに馳せ、西へ西へと遠ざかる白い尾を眺めていると、今度は「ミーちゃん!」と慌てた声が鼓膜を貫いた。なんともまあ、今日という日は世間が馬鹿に騒がしい。

 首を反対に捻ると、東から、若い人間の女が決死の形相で駆けてくるのが見える。黒髪を乱し、駆けながらも、道を左右に練り練り、気の触れた猫のように蛇行し、自販機の下、草むらの影、その他諸々のオブジェクトを一つ一つ隈なく確認しながらこちらへと近づいてくる。

 顔を上げ、再び西に目をやると、先ほどの可愛らしい白尻はもう随分と小さくなっている。遠ざかる白い尾尻、必死に名を呼び何かを探す人間の女。私の聡明な脳はこの二つの事象を即座に繋ぐ。成程、彼女がミーちゃんなのか。

 女はなおも愛しの白猫の名を叫ぶが、それでお目当てのミーちゃんがひょっこりワープしてくるはずもなく、人目も憚らず叫ぶその声ばかりが冬の風のように痛々しく往来を吹き抜ける。

 そのとき、なぜか仏心が沸いた。遠ざかる背中、届かない声、それらが私の記憶のどこかを刺激したのか、それともただの気まぐれか、今となってはわからない。

 ともかく、私は下界でもがく彼女に救いの糸を垂らした。

「おい人間。ミーちゃんはあっちに行ったぞ」

 彼女は私の声にハッと顔を上げた。しかし、私の声は届いても、言葉は彼女には届かない。人間と言うのはとかく知能の低い生物である。なにせ連中ときたら猫語がわからない。なんと野蛮な生物であろう。知能の低さは目前に垂れる救いの糸すらも透過する。哀れなものだ。

 しかし、そんな下等生物との知能差を知った上で声をかけた私もまた救われない、そして救えない。自らの愚かさに呆れその場を離れようとした時、まるで春の日差しのように煌めいた声が響いた。

「ミーちゃん!?」

 これは驚いた。この人間には崇高な猫の言葉が理解できるのか。勉強したのか。なんかそういう検定とかあるのか。人間にはまだ可能性が残されていたのか、未熟な生物故にまだ進化の余地があったのか。

 しかし、私のそんな感動は思わぬ形で裏切られることになる。

「ミーちゃん!そんなところにいたの!?」

 人間はそう叫ぶと、下界からこの屋根へとその両手を伸ばした。その瞳には一寸の曇りもなく、屋根の上に寝転ぶ私だけを嬉々と見つめている。そう、あろうことか彼女は糸を伝って私へとその手を伸ばしたのだ。

 いくら私が美しくとも己の愛猫と野良猫を見間違うとは、やはり人間。猫の見分けがつかない。やはり愚かな下等生物。

「おいで!ミーちゃん!ほら、怖くないよ!降りられる?」

 無視してもよかった。いや、無視すべきだった。なのに、次の瞬間には、私の体はふらふらと彼女の伸ばした手に向かって歩み始めていた。心と体が一致しない。まるで魔法にかけられたように、この美しくもどこかミステリアスな黒髪の魔女に魅入られたように私の身体はその腕の中に吸い込まれていく。

「もー心配してたんだからぁ」

 そんな言葉とともに涙と鼻水を私の額に降らせる彼女の温かな腕の中から逃げなかった理由はわからないが、とりあえず、まあ、春の寒さのせいにしておこう。


 私を抱いたまま玄関を開けた彼女は途端に声色を変えて言った。

「はーいミーたんおかえりでちゅよぉ」

 ミーたん?でちゅよ?

 その豹変に私が戸惑っていると、彼女が片手でスイッチを押し、暗闇だったアパートの一室に明かりが灯される。

 一面に広がったのは夢の世界だった。

 白・ピンク・水色・ピンク・ピンク。部屋一面を彩るパステルカラーたち。花に猫、犬、うさぎ、果てはユニコーンに至るまで所狭しと並べられた人形の類。そう、まさに夢。寝ていて見る方の夢。四日ほど飯にありつけずに生死の境にいる時に見る狂った夢。その衝撃の景色に私が目をぱちぱちさせていると、彼女はそっと、真白な床の上に私を下ろした。

「じゃあ私、着替えてくるからもう逃げちゃダメだよ!」

 念の為もう一度表現するが「美しくもどこかミステリアスな黒髪の魔女」のような彼女はそう言うとスキップするように隣の部屋に入っていった。

 改めてこの夢の中のような部屋を見渡す。

 私はこれまで幾度も道を過ってきた。そして現在、恐らく大きな過ちの中にいる。だってベットに天蓋が付いている。

 うん。よし、逃げるか。

 私は颯爽と本棚に飛び乗り窓をカリカリとやりはじめる。

「お待たせー。いい子にしてまちたかぁ……ってあぁ!またこの子は!」

 そんな声と同時に私は後ろから抱き抱えられる。

「にぎゃあ」と、私は思わず声をあげる。その腕の力強さに、後頭部にかかる鼻息に、絶対に逃すまいという危うい意志を感じる。我々に捕食される時の蜻蛉や飛蝗の気持ちが少しわかった。先代ミーたんの苦労も。

 再び床に降ろされた私の前に、数分前とは別人のような彼女が立ちはだかる。

「もう!悪い子!」

 めっ、と、人差し指を立てて私を叱った彼女は、先ほどまでのシャツとジーンズといった装いとは打って変わってどこか異国の少女のような出立ちになっている。フリルのついた水色と白のスカートに、縞模様の長い靴下。全体的に、なんだかこの夢の住人に相応しくフワフワしている。

 彼女は私と目が合うと、ニヤッと怪しげに口角を上げた。

 あ、まずい。食われる。本能的にそう感じ逃げの態勢を取ろうとしたが、予想に反し彼女はなにやら背中から皿を取り出した。

 その皿をおもむろに私の前に置くと、今度は缶詰を開け皿の上にその中身をほじり出した。

「うにゃああ」

 私は条件反射で叫んでいた。涎が止まらない。なんだその宝の山、いや肉の山は。食わせろ。食わせろ。食わせてくれい。

「あははは。ミーたんは相変わらず食いしん坊だねえ」

 私は目の前に盛られる大量の缶詰の中身を豪快に平らげていく。見かけによらず大喰らいであったらしい先代ミーたんの胃袋に感謝し、これまで一度も味わったことのないほど濃い味の肉を己の体に詰め込んでいく。

「おいちい?」

 しゃがみ込んだ水色のスカートに向かって私が「うにゃああ」と答えると、彼女はまた嬉しそうに笑った。

 あぁ、この女はやはり魔女かもしれない。こんな魔法のような飯をたらふく食わせ、肥えさせ、最後には私を己の胃袋に放り込むのかもしれない。しかし、そんな事はもはやどうでもよかった。これほど美味い飯が食えるならばこの女に捕食されても構わないとすら思えた。それほどにこの缶詰は魅力的だった。

「はーい全部食べまちたねえー。じゃあ最後に……」

 そう言って台所へと向かった彼女に、私は再び身を硬らせる。いよいよ、己が猫生の終わりの時か。運命の鐘が鳴る。捕食の予感。しかし、もう逃げることはできない。私は三分前までの私ではない。この魔女の魔法に囚われた悲しい猫。もっとはっきり言えば腹一杯過ぎてちょっと動きが鈍くなっちゃった猫である。

 しかし、三度私の予想は裏切られることになる。彼女は今度は銀色の深い皿を私の前に置いたのだ。

「はーいゆっくり飲みまちょうねえ」

 そう言って彼女は白い液体を私の前に注ぐ。私は恐る恐るそ液体を舐めてみる。甘い。

「ふふふ、ミルク飲んでると仔猫の頃思い出すなあ」

 ミルク、そうかこれがミルクか。美味しい。甘い。口中にまとわり付いた肉のしょっぱさを和らげていく。でも、それ以上に、これは……なんというか……。

「あらあら、おねむでちゅかー?ミーたーん?」

 温かくて……懐かしい。

 

 そして、私の偽物のミーたんとしての彼女との生活は始まった。

 彼女は肉の缶詰と暖かなミルクを私に与え、私はこの体を撫でさせてやる。

 まあそれは構わない。しかし、

「きゃー可愛いー!」

 このフリフリの服を着せられるのは勘弁願いたい。かつてのミーたんの心中を慮る。

「ミーたん初めて着てくれたあ」

 おいふざけるな。先代ミーたん着てなかったのか。とんだトラップじゃないかこんなの。

 そのような屈辱恥辱を受けながらも、私はこの夢のような空間、朝も夜も晴れ渡るパステルの空に彩られた世界の中で、ミーたんという名を与えられ、虚構の世界を泳いでいた。

 ここにいると、夢と現実の区別がつかなくなってくる。もしかして、私は初めからこの世界の住猫で、生まれながらミーたんであったのではないか。そんなことを夢の浅瀬のような朧げな意識に中で思ったりもする。

「よーし……よし……よし……!」

 今日もまた小刻みに震える手で、テーブルの上にトランプの塔を建設していく彼女。どうやらこのような一人遊びが彼女の趣味のようだ。この淡い空間の真ん中で、今にも崩れんとする頼りない紙の城を必死で支える彼女の姿は儚く、滑稽である。

 どうやら今日は建設の調子が良いらしく、念願の十段の塔がついに出来上がりそうである。だからなんだという話なのだが、きっと彼女にとっては至極重要なことなのだろう。

 どら、ここは彼女の家族であり、おそらく唯一の友であるこの私が見届けてやろう。私は軽やかに本棚から舞い、トンっと塔の隣に降り立つ。

 途端に崩れ落ちる紙の塔。と彼女。

「い、いやああああああ!ミーたんダメだよおおお!」

 なんか、ダメだったみたいだ。よくわからんけど。可哀想に。

 しかし、これはどうしたことか。あぁあぁと絶望する彼女を見ると私は何故かとても愉快な気持ちになった。

 ひとしきりうなだれた後、彼女は鼻を啜り再び塔の再建設に取り掛かる。存外めげない人間だ。

 しばらくの後、数度の失敗を経て再び彼女の塔は九段目まで積み上がる。私は棚の上からその様子を見守る。彼女の汗がポツリと滴る。呼吸が浅く、早くなる。部屋の空気がピンと張り、私達の意識は塔の頂点のみへと注がれる。そんな様子を再び本棚から見守る。

 あぁ、猫の性のなんと罪なこと、この状況が私の悪戯な心を刺激してくる。いつ、再びその塔を崩してくれようかと、そんなことばかりが頭を占める。しかしまた完成目前で壊してしまったのでは芸がない。となるとここは……。

 一層震えの強くなった指先が、最後の一段を建て終わり、彼女は慎重に手を離す。同時に、その顔がぱあっと明るくなる。頬は桃色に染まり、口からは声ならぬ声が漏れ、その瞳には潤みさえもうかがえる。

 よし、飛び降りるか。

 と、私が破壊を決した刹那、この家のチャイムが鳴った。私の知る限り初めて鳴った。彼女の上半身ががビクリと跳ねて、恐る恐る玄関へと向かう。数秒後、この夢の部屋には合わない声が響き渡った。

「あんた!またこんな子供みたいな格好して……」

「お母さん!?ちょっ、大きな声出さないで」

「じゃあ中に入れなさい」

 そう言ってズカズカと入ってくる、年の頃五十は過ぎたであろう女性。会話から察するに、まあ母親なのだろう。そうか、こんな空想上の人間のような身なりをした彼女にも当然母親はいるか。

「まーなんて部屋……気持ち悪い……」

「別に私の勝手でしょ!なんなの急にきて」

 なんだか揉めているようだが、私は憤っていた。勝手に現れ、好き勝手なことを喚くこの母親に。

 だって、お前のせいで、私は飛ぶタイミングを失ってしまったのだぞ。どうしてくれる。どう落とし前をつける気だ。

 私が怒りに震えている間にも親子は揉め続ける。

「あんた再就職もしないでこんな馬鹿みたいな部屋でゴロゴロして……いい加減にしなさい」

「そんなこと言わないでよ!」

「いい歳して子供みたいにいじけて!目を覚ましなさい!」

「やだ……私はまだここにいる!」

「じゃあ働かなくてもいいからせめてうちに帰ってきなさい!お金だってかからないしそっちの方がいいでしょ!」

「それは嫌なの!」

 全く、なんなのだ。いつ帰るのだ。あの母親は……私が飛び降りられないではないか。

 私はイラつき、足元をカリカリとやる。ああもう。

「なんでよ」

「そ……それは……」

 ああもう辛抱ならん!

 私は耐えきれずに塔を目掛けて棚から大ジャンプをした。つもりだった、しかし、着慣れないフリフリに足を取られてしまい「うにゃ」っと変な声を出しながらブサイクに舞ってしまった。それ故、必然飛距離が出ない。姿勢もうまく立て直せない。そんな私の着地先は。

「お母さんにはわかんないよ!今は、私は……あっ」

 ドン!

「ぎゃっ」

 彼女の母親の頭の上だった。

 目を丸くした彼女と、母親の頭ごしに目が合う。

 一瞬の静寂の後、この部屋に醜い叫び声がこだました。

「ぎゃああああ!」

 心外であった。どうしてこの私がまるでケダモノと出会ったかのような悲鳴を浴びなければならないのか。ケダモノではあるが。と、思ったのも束の間、今度は母親の激しいヘッドバンギングによりその頭から振り落とされる。

「ハッ、ハッ、ハックション!バアアックシュン!」

 私を振り落とすなりくしゃみをし始める母親。

「お母さん、大丈夫?」

「ハッ……ハックシュン!あんた、なんでこんな毛玉を……ハックシュン!」

「だから家に帰らないって言ったんだよ。お母さんアレルギーだから連れて帰れないし」

「と、とりあえずまたくるから!ちゃんとその時までにニャンと現実とニャンニャン向きニャンでニャンゴロニャン……ハッ、ハックシュニャン!!」

 逃げるように出ていきながら、母親はそのような感じの捨て台詞を吐いていたと思うが、鼻水とくしゃみのおかげで正直途中からなんと言っているかよくわからなかったので後半は適当に補足しておいた。

 兎にも角にも母親は出ていき、激しく閉められた玄関を並んで見送った私と彼女は無言で見つめ合う。

「……んんんやったああ!ミーたん!ありがとー!」

 数秒の後、彼女は急にそう叫ぶと私を高々と抱きあげた。

 まさかの展開だった。本来であれば今頃は彼女は束の間築き上げた塔を私に崩され、絶望に打ちひしがれ、私はそんな様子をトランプの瓦礫の上に香箱座りし眺め悦に浸っているはずだった。

 なんてことだ。計画失敗だ。

「ふふふ、ご褒美に缶詰あげるからね」

 否、これでよかったのだ。軽やかにキッチンに向かう彼女を見送りながら私は心の中でガッツポーズする。肉が食える。

 しかし、その時カリカリと窓を引っ掻く音がした。そちらに顔を向けると、そこにはいつかのブサイク猫がいた。

 おいなんだ貴様は、この家に何か用であるか。おい、窓を開けるな、この世界に入るな、この家の一等猫のミーたんが相手になるぞ。おい、待て。待てっておい。聞けよお前。

 ブサイク猫はこの守り猫ミーたん様の静止も聞かずズカズカと入ってくるとそのままなんの躊躇もなく本棚の上から宙を舞った。

 ドシーンという爆音とともに机に着地し、部屋中がミシミシと揺れる。

 母親騒ぎの時は綻びながらもまだすんでのところで耐えていたトランプの塔が、この振動でばらばらと崩れていく。

 その紙の塔が崩れてゆく瞬間は、まるでこの世界が崩れてしまうみたいで、私の心臓がドクンと大きく鳴るのを感じた。

「ど、どうしたのミーたん!」

 慌てて駆けつけた彼女が、その光景を見て絶句する。

 あー、ええと、ミーたんは止めたんだけどな。このブサイク猫が無理やり入ってきて……。

「み……ミーたん……ミーたん!!!」

 彼女は、私の説明に全く耳を貸す様子もなくそう叫ぶと。そのブサイク猫を抱き上げた。

「ミーたん……!ミーたん!本物だ……やっと帰ってきてくれたんだ……!」

 彼女の言葉と、ブサイク猫を抱き上げるその光景を、私の聡明な脳は瞬時に繋ぐ。あぁ、そうか。

 全く春とは恐ろしいものだ。猫を狂わせ泡沫の夢を見せる。私ともあろう者がそんな春の夢に当てられて、卑しくも名を貰い、この世界を守ろうと、夢を壊すまいと願った。

 しかし、そんなものは長くは続かない。私は名もなき野良猫。もうこんな水色の牢獄に囚われている謂れはない。

 やはり此処も、私の居場所ではなかったのだ。

 しかし、去ろうとした私の体を彼女の声が止めた。

「ミーたんどこにいくの!?」

 その声を私は無視する。無視すべきだった。なのに、足が止まってしまう。まただ。彼女の温かな声にかかると、まるで魔法にかけられたように心と体が一致しない。

 彼女の温かい手が私の両脇から腹にするりと伸び、私の体はその腕の中に吸い込まれてしまう。

「そっちのミーたんも、あなたも、どっちも私にとっては大切なミーたんだよ」

「なにを世迷いごとを」うにゃにゃ。

「ずっと一緒だよ」

「私は偽物なのだ」うにゃあ。にゃなにゃな。

「うんうん。私もあなたのことが大好きよ」

「君にとってミーたんとはそのデブ猫だけだろう」うにゃんうにゃん。

「ほら、こっちにきて缶詰食べよう?」

「このような偽物の家族ごっこはもう終わりだ」うにゃにゃにゃにやにゃな。

「もーずっとなんか言ってて可愛いでちゅねええ」

「よせ。離せ。離してくれ」うにゃ、なや、なやなやな

 腕の中で暴れるのに構わず彼女は私を部屋の中に連れ戻す。

 やはり人間は低脳だ。猫の言葉が届かない。私の思いが届かない。

 私はまた家族を失いたくはないのだ。なのに。

 やめろ。やめてくれ。

 叫び続ける私の鳴き声がにこだまする。

 フリフリを着た私の声が。

 部屋中に。


「ミーたんとミーたん。ふたりともこっち向いてー」

 その声に顔をあげると、無駄に高級そうなカメラを抱えた彼女が肉を頬張る私たちをレンズに収めようとしている。隣のブサイクな方のミーたんの方もそれに気づいたのか顔をあげる、私たちはなんとなく目が合う。

「あっ!その向き合ってるの超可愛い!」

 シャッターを閉じる音とともに二匹のミーたんは一枚のフィルムの中に収まる。

 花が散り、緑が茂ろうとしている今も、私は此処にいる。いつか崩れるこの世界で、私は頼りない夢を見ている。それはきっと彼女も同じだ。

 どうせ迷い込んだ夢ならば、最後まで泳ぐもよし。たとえそれが永遠でなくとも。それが私の結論だった。

 そんな風に思い巡らせ、再び缶詰の肉を喰らおうとした刹那、私の脳裏に衝撃が走る。私はハッと顔を上げ、隣で醜く肉を喰らうブサイクなデブ猫をじっと見る。

 そして、震える声で彼女に尋ねた。

「なあ、もしかして……私は……こいつに似ているのか?」

 彼女はたった今納めた写真をニマニマと嬉しそうに確認しながら答える。

「ふふふ、そっくり」

 何故こんな時ばかり言葉が通じるのだ。


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