或る男の復讐
あのことがあって以来、男は決して歯を磨かなくなった。
歯間に残った食べかすが口腔内の細菌によって分解されもの凄い悪臭を放っても、あえてそのままにしておいた。それどころか彼は、ネギやニンニクなど臭いのきつい食材を好んで食べるようになった。結果、男が口を開くだけで誰もが顔をしかめるほどのもの凄い口臭の持ち主となった。
そんな状態だから男の妻は子供をつれ家を出ていった。仕事はすでに辞めている。誰もいなくなった家で、男は来る日も来る日も自分の口臭に磨きをかけた。やがて努力の甲斐あって、彼がふっと息を吐くだけで飛んでいた蠅が床へ落ちるまでになった。それで男はようやく満足した。
なにが彼をそのような行動へと駆り立てたのか。すべては復讐のためであった。男から、地位も名誉も財産も、全てを奪っていったあの傲岸不遜な奴らへの……。
ある星のない夜、男は満を持して自分の車のキーをひねった。いよいよ奴らに復讐するときがきたのだ。しばらく夜の市街地を走らせると、やがて前方に黒ずくめの一団が現れた。みな、これ見よがしに武器を携帯している。
奴らだ――。
男はにやりと口角をつり上げた。
車が近づくと、奴らの一人が駆け寄ってきて強引に停車を命じた。あいかわらず傲慢なやり方だ。しかし男の胸は踊った。やっと奴らに復讐できる。たかぶる感情を抑え男はゆっくり車を路肩へと寄せた。すぐに奴らの一人が駆け寄ってきて、こんこんと窓を叩く。
――さあ、いよいよだ。いよいよ我が復讐は成就されるぞ。ははは、愚か者どもめ思い知るがいい。
男は、静かにパワーウィンドウを下ろした……。
「飲酒検問です。私に向かってはあーっと思い切り息を吐きかけてください」