そのひと月、王女殿下は賭けをしました
『妖精王のお茶会』に出てきたルシアン王子の姉と、『彼女じゃなきゃ意味がない』に出てきた竜伯閣下の若い頃のお話です。
初めて彼に会ったのは、わたくしがまだ五歳の頃だった。
いつも通り王城内の庭園でお茶をして、そのあとお庭を散策して回っているうちに一人でどこか知らない場所に来てしまった。
今思えば、いくらはしこい子供だったわたくしでもそう簡単に侍女や護衛をまいて一人になるわけがないのに。
おそらく歩いている間に魔法で目隠しされた領域に知らずに迷い込んでしまったのだろう。
木々の間に若干開けた場所があって、そこで10歳くらいの銀髪の男の子に、彼より二回りくらい身体の大きな少年が、跪いて小さくなった姿勢で――――怒られていた。
「ほんと、なんなの!?
お前のその不器用さ!」
「…すまん」
「……まぁ、この前よりはかなりマシになってるけどな。
もともと力の親和性は高いんだから、あとは慣れだ、慣れ」
「本当か!?」
「喜んでんじゃねぇよ、このぶきっちょ坊主」
(怒られていたと思ったら褒められてる)
大男ともいえそうな体躯の少年の頭を、幼い男の子がその小さな手でわしゃわしゃと撫でていた。
褒められている方の少年の、嬉しそうな笑顔が眩しくて、幼いわたくしは思わず見惚れてしまった。
「たのしそう…」
「!? 誰かいる……!」
無意識に呟いてしまった直後、突風が巻き起こった。
髪やら服やらとにかく飛ばされそうになるのを必死で押さえながら目を閉じた。
そして吹き始めと同じで唐突に風が止んだ。
しゃがみこんだまま恐る恐る目を開けてみると、大きな影が覆いかぶさるようにわたくしを見下ろしていた。
「ひっ………」
「……迷われたのですか?」
訊いてきた入道雲、ならぬ大きな少年にこくこくこくっと急いで頷いた。
先ほどまでいたもう一人の小さな男の子の姿は消えていた。
さっきの風が吹いている間にどこかに行ったのかもしれない。
立てますかと差し出された大きな手にそっと掴まって立ち上がった。
覗き込まれている時もだったが、立ち上がっても上背の違いは埋められず、見上げるようにしなければお顔が見えない。
金にも銀にも見えるような暗めの金髪に灰色の瞳をした少年は、ほんの少し視線を上げて「結界は消えているな」と小さく呟くと、そのまま黙ってわたくしの手を引いて木々の間を抜ける小道を進んでいった。
わたくしの方を見ようともしない少年を横目でそっと見上げてみた。
騎士の訓練時と思われる簡素な服装だが、腰に剣は佩いていない。
さきほど自らより幼い相手に褒められていた時はまるで子供みたいにはしゃいで笑っていたのに、今はほぼ無表情。
日に焼けた横顔は幼さの中にも男らしさが混じった精悍な印象で、太陽光を鈍く跳ね返す髪が綺麗だと思った。
「このまままっすぐ行けば、城内に戻れます」
見覚えのある回廊が見える場所まで案内してくれたところでそれだけ言い残すと、少年は名乗りもせずに去っていった。
わたくしも名乗っていなかったけど。
偶然の邂逅からさらに十年の年月が経ち――――――
「これからひと月、よろしくお願いいたしますね」
淑女教育のお手本のような微笑を浮かべたわたくし、第一王女キャロライン・アディル・フェアノスティと、
「…………誠心誠意、務めさせていただきます」
強面の無表情を崩さないまま騎士の礼を取った、十年前よりもさらに厳つく成長した男性、パイライト・ザクト王立騎士団第三師団一番隊長。
対照的な表情のわたくしたち二人はこの時からひと月の間、専属護衛とその護衛対象として行動を共にすることになった。
わたくしはこの度我が国の王立学院初等部を卒業し、つい先日15歳になった。
学院には高等部もあり、優秀な講師陣によってより専門知識を学ぶこともできる。
学びたいことがあればそのまま学院に残ってもいいと両陛下は言ってくださったけれど、わたくしは高等部には進まなかった。
その代わりに、一つだけお願いというか、我儘を聞いていただくことにした。
これからわたくしは、学院時代には充分に出来なかった公務に精を出していくことになる。
王城内で国内外の貴賓に会うことも増えるし、城下や国内各所への視察にも出る。
そうなると必要になるのが専属護衛だ。
今までも要所要所で護衛は付いてくれていたが、都度顔ぶれが変わってしまう。
専属となると常に影のように張り付き、今まで以上に密接に護衛してもらうことになる。
今後増えていく公務にあたり、最初のひと月だけでも面識のある方に専属でついてほしいと願い出て、親友のセレニティ・ザクトの兄君で幼少から面識のあったパイライト卿を指名したのだ。
通常、王族の護衛や王城内の警備全般は王立騎士団の第一師団が担っているから、第一師団所属ではない騎士を専属護衛として指名するのは、異例のことだ。
しかもパイライト卿が在籍しているのは、外敵の侵入や魔獣被害などに対処するのが専門の第三師団で、いわば騎士団内でもの主力中の主力。
きっと、パイライト卿にとってはいかに短期間といえども非常に迷惑な人事であろう。
ここまでの見事な仏頂面が、彼のその心情を物語っている。
パイライト卿は確かにどなたにでも愛想を振りまくような方ではないけれど、けしていつも不愛想というわけではない。
第三師団が国境での小規模戦闘を鎮圧して城下に凱旋してきた時などは、誇らしげに胸を張って微笑を浮かべたお顔に女性陣がくぎ付けになったと聞きましたし。
王城内に軍務で来ておられたときに、行き会った令嬢や顔見知りの女官と談笑されているのも見かけましたし。
つまり、わたくし限定の仏頂面。
或る意味貴重、かつ非常に分かりやすい。
「そんなに怒らないでくださいませ。
ほんのひと月だけのご辛抱ですわ」
「別に怒ってなど、おりません」
「顔が強張っておられますわよ?」
「……この顔は生まれつきでございますれば、ご容赦ください」
卿の顔がさらにムスッとなったのを見て、苦笑するしかない。
輝かしい彼の経歴の中にあって、わたくしの専属護衛をするひと月はきっと傷以外の何物でもないものね。
一緒に行く最初の公務は、王都の南側を流れる河の治水工事についての会議。
わたくしは大地と水系統の魔法が得意なので、治水と灌漑は今後主に担っていくことになる分野だ。
「では参りましょうか」
***********************
許されたそのひと月の間、わたくしたちは様々な公務に一緒に参加した。
正確には、わたくしが勤めた公務にパイライト卿を付き添わせたという形で。
朝、決まった時間に部屋まで卿が迎えに来てくれるのに合わせて準備を整えて待つ。
公務と公務の合間に一緒に軽食をとることもあったし、ほんの少しだけ捻出できた隙間時間にお茶に付き合ってもらったりもした。
まあ、座ってと言っても頑なに断られましたけどね。
一日の公務を終えて居室まで送り届けてもらって、また明日と挨拶して別れる。
そんな日々が、ただただ穏やかに過ぎていった。
そんなある朝、扉の外に気配を感じてそっと近づくと、聞き覚えのある声がパイライト卿に話しかけていた。
(この二人、親しかったんだったわね)
卿と話をしていたのは、わたくしと同い年の公爵家子息カルロア・ガレリィだった。
幼い時から知っているから、幼馴染と呼んでも差し支えないかもしれないけれど、カルロアはあまり同世代とは親しく付き合わない少年だった。
同じく幼馴染の親友セレニティ・ザクト、パイライト卿の妹君が言うには、魔法の実験やら練習やらで南方辺境伯領に来ることがあって、パイライト卿とは昔から馬が合うらしい。
わたくしたちが15歳で、たしかパイライト卿は今26歳だから、齢の離れた友人というやつね。
その友人への朝の挨拶にしては不機嫌そのものな声でカルロアが話しているのが扉越しに聞こえる。
咎めるように睨んでくる古参の侍女の視線にはこの際気付かないふりをする。
「パイ、お前なにやってんだよ……」
「…仕事に決まってるだろう」
「”竜伯”が王女の護衛って、何そのふざけた人事」
(竜伯…?)
そのままはしたなくも聞き耳を立てていたら、この頃あまり耳にしない単語を拾った。
竜王と守護の盟約を結んだ者が竜伯と呼ばれるのだけど、今現在はたしか空位になっていると聞いていたのに……?
「だいたい、キャロライン殿下は、いずれ友好国に輿入れされるかどこかの貴族に降嫁されるか、だろう。
専属護衛を置いてまで公務に励まれることはないだろうに」
「……殿下の縁談がまとまりそうなのか?」
「まだそこまで進んだ話はないようだが、釣書は山のように届いているって噂だぞ。
まあ、王国一の美姫、だからな」
(まあ、そうなの?知らなかったわ)
わたくしに縁談が来ているなんて、当の本人は初耳ですわよ。
父は唯一の王女であるわたくしをもうしばらく嫁には出さないと公言していて、わたくしはまだ社交にも出ていないし、絵姿だって幼なすぎて自分では記憶にないくらいの頃のものしか描かせていないもの。
美姫だなんて噂はどこからでたのやら。
王の娘というだけで、縁談を申し込む方もいらっしゃるのかしらね。
湧き出た疑問も、続いて聞こえたパイライト卿の返答で全部吹き飛んだ。
「この場に私が相応しくないのは、承知している。
ひと月の間だけだ。
もうすぐ……終わる」
足音を立てないよう極力静かに、扉から少し離れた。
やっぱり、聞き耳を立てるなんてことはすべきじゃなかったわね。
もうすぐ、終わる。
そう苦々し気に告げたパイライト卿の言葉に貫かれた胸を、ぎゅっと押さえた。
そして――――――
「おはようございます、おふた方。
朝から仲がおよろしいこと」
とびっきりの王女の微笑を張り付けて扉を開けた。
まさかのわたくしの登場に、二人の殿方の驚愕した顔がちょっと可笑しい。
「盗み聞きをするなんてはしたないとよく言われますけれど、
盗み聞かれるような場所で聞かれては困るような内容を堂々と話す方もどうかと思いますの」
バツが悪そうにふいとよそを向くカルロア卿、まだまだお子様ね。
そこをいくとパイライト卿はさすがというべきか、先ほど一瞬見せた驚愕の表情をすんっと消して騎士の礼で静かに謝罪した。
「でも知らなかったわ。
わたくしってそんなに殿方から人気があったのね。
王女って身分も捨てたものじゃないわね、ねぇカルロア卿」
「……ようございましたね殿下、そのお達者な口まで噂になってなくて」
「おい!カル!!」
「いいのよ、パイライト卿。
彼とわたくしは幼馴染で、先日までは同窓生だったのだもの。
こんな言い合いは日常茶飯事、いちいち気にしてたら身が持ちませんよ?
そうそう、言い合いと言えば、ミュラー公爵家子息とは今も高等部でご一緒なのでしょう?
学院では毎日さぞや楽しい掛け合いが繰り広げられていることでしょうね、カルロア卿」
「……クラウスのやつとは学科が違う、今はそこまで関わっていない」
「あらそう?
では、セレニティ嬢から聞いたあの賑やかな噂は真実ではなかったのかしらね」
クラウス・ミュラーとカルロア・ガレリィ。
二人の公爵家子息が、馬が合わずに事あるごとに嫌味の応酬を繰り広げていたのは、学院の同窓生の中では有名な話。
高等部へと進級したセレンからは、学科が別になっても昼休みの食堂で飽きもせず口喧嘩をしていると半ば呆れ気味に報告を受けている。
「~~~~~~知らん!
私はもう行く!」
靴音を響かせながらカルロア卿が去っていくのを苦笑しながら見送った。
「ちょっと、揶揄いすぎたかしら」
「……殿下、申し訳ございません」
「謝ることはないわ。
言ったでしょう?
こんな言い合い、気にするほどのことじゃないの」
「いえ…それではなく……」
パイライト卿はいつもの無表情が崩れ、眉根を寄せた少しだけ悲しそうなお顔になった。
先ほどの吃驚顔といい、今日はいつもと違う表情をいろいろ見れたので少し満足。
「本当は、笑顔が見たいのですけれどね」
「殿下?何かおっしゃいましたか?」
思わず零してしまった呟きは小さくて、彼の耳には届いていなかったようでほっとした。
「なんでもありません。
さあ、今日も公務を頑張りましょうか。
釣書が本当かどうかは知りませんが、今わたくしにできることは務めなければね。
本職を離れて付き合っていただくパイライト卿にはご迷惑でしょうけれど」
「いえ、そんなことは……」
「でも、もうすぐそれも終わりです。
輿入れ前の王女の一時の我儘だと思召して、あと5日、お付き合いくださいな」
今日の公務のことを考えながら歩きだす。
無言で後ろに付き従ってくれるパイライト卿がどんな表情を浮かべているのか、確かめることは怖くてできなかった。
****************
そうして迎えた5日後、最後の公務は治水工事現場の視察だった。
馬車で数か所を半日かけて回る。
「今日もお願いしますね」
馬車に乗るのに手を貸してくれたパイライト卿に微笑むも、はいと何の感情も交えない短い返事だけが返ってきた。
わたくしは馬車で、パイライト卿を主軸に編成された護衛陣は騎馬で並走しながら王城を出て、視察は順調にすすんだ。
こうして何事もなくひと月が終わるのだと、思っていたその時。
馬の嘶きとともに、馬車が止まった。
外がざわめいているのが聞こえる。
「殿下、襲撃です」
「!……数は?」
「そう多くはありません。
殿下はそのまま、馬車の中で御身を低くしていてください」
「……わかりました」
わたくしも魔法は使えるけれど、なんというかちょっと豪快なので、対人攻撃には向かないものだ。
地形を変えることもできなくはないけれど、襲撃者がもう近くまで来てしまっているなら地形をいじるのは逆に護衛達の邪魔になる。
ここは言われた通り、大人しく馬車の中でじっとしているのがいいわね。
(ひと月の間、結構外行きの公務も行ったけど、襲撃は初めてね……)
誰のどういった差しがねだろうかと思考を巡らせているうち、剣戟の音が途切れた。
パイライト卿が指示を出す声がする。
対処が終わったようだ。
声が掛かり、馬車の扉が開く。
戸口から覗き込むパイライト卿の髪が、その背後から差し込む光によって微妙な光沢を放つ。
「殿下、お怪我はございませんか?」
(ああ、本当に、綺麗な方ね)
筋骨隆々と言うにふさわしい騎士然とした殿方に使うべき形容詞ではないから口にはしないけれど。
「おかげさまで無事ですわ。
ありが――――――――」
差し出されたパイライト卿の手に自分の手を乗せようとしたとき。
ゴオッという風切り音とともに衝撃が来て、馬車の床に倒れ込んだ。
同時に感じた、浮遊感。
「殿下っっ!!!!!」
何故か、パイライト卿の声が斜め下の方から聞こえる。
頭上からは馬の悲痛な鳴き声と、それとは違う鳥っぽい鳴き声。
馬車の床だ、と思ったのは先ほどまでわたくしが座っていた座席で。
要するに、馬車の車体が縦になっているようだ。
そしてちょっと、いえ、ものすごく車体が揺れている。
(もしかして、わたくし馬車ごと攫われてるのかしら?)
最初の衝撃で倒れると同時に、開いていた扉が閉まったのは不幸中の幸いだった。
扉から放り出されるなんて御免こうむりたい。
這いつくばった残念な状態で揺れに耐えながら扉でないほうの窓に近寄り、そっと外を見てみる。
「大鷲…じゃないわね、大鴉??」
どうやら、漆黒の翼をはためかせた大きな鴉が馬車につないでいる二頭の馬をその足で掴んで運び去ろうとしているようだ。
わたくしの乗っている馬車は、その馬たちにつながれた馬具でかろうじて一緒に持ち上げられている状態。
これは、車体が外れるのは時間の問題ではないだろうか。
下を見る勇気はないけれど、ぐんぐんと高度が増している気がする。
車体が揺れるたびミシミシと嫌な音がして、落下の恐怖が募る。
「た、助けて……っ」
とてつもない恐怖の中、あの方の名が口から出た。
「助けて!
助けてパイライトっっ……!」
「俺の殿下を、返せ!!!」
地の底からくるような怒りをはらんだ声。
思いの外近くから聞こえて驚きに目を瞠るわたくしの眼前で、縦になって揺れる馬車の扉が音を立てて弾け飛んだ。
「殿下!こちらに!!」
お早くと叫びながら、彼が戸枠に掴まっていない方の手をわたくしに向けて精いっぱい伸ばす。
わたくしは迷わずその手に掴まった。
捉まえられて引き込まれた腕の中、彼の騎士服にしがみつく。
背後で、ついに馬車の車体が外れ、遥か下の地面に叩きつけられ大きな音を立てた。
恐怖が一気に押し寄せてきて声にならない悲鳴を上げるわたくしを、もう大丈夫ですと抱きしめてくれる。
包み込んでくれるその優しさに縋りついても、身体が勝手に震えて止まらない。
その間もずっと、大きな硬い掌がわたくしの背をあやすように撫でていてくれた。
それから漸く震えが少し収まったとき、はたと気づいた―――まだ続いている浮遊感に。
(そうだわ、飛んで運ばれてたんだから、まだ空の上……?)
恐る恐る、自分を抱え込んで強く抱きしめてくれている腕の中から俯いていた顔を上げてみれば、目の前にあったのは金の瞳と―――――
「パイライト卿…はね、生えてるわ…」
てっきり風魔法で飛んでいるのだとばかり思っていたのに。
パイライト卿の背中には、騎士服を貫いて白銀に輝く翼が生えていた。
鳥のような羽毛に覆われているものではなく、皮膜のような翼。
驚くわたくしに、パイライト卿の表情が歪む。
「申し訳ございません…お見苦しい姿を……」
いつの間にか横抱きにして支えてくれていた彼の腕が、震えている。
すっと視線を逸らされた。
苦悩を滲ませる表情が、とっても悲しい。
そっと両手を伸ばして、白銀の鱗がある頬を包み込んで―――ぐいっとパイライト卿の顔をこちらに向けた。
「逸らさないで」
「で、殿下…?」
「貴方は綺麗だわ、とても」
「………は……?」
「いつもの灰色の瞳も綺麗だけど、金の瞳もとても綺麗。
白銀の翼も……そうね、竜だわ、そうなのね?」
「王女殿下……」
ゆっくりと高度が下がり、地面が近づいて来たのを感じた。
元居た場所からはだいぶ運ばれてしまったらしく、他の護衛の方の姿はまだない。
わたくしの願いを聞き届けてくれたのか、彼の瞳は逸らされることなくこちらに向けられたままだ。
(専属護衛をお願いしてからずっと傍に居たのに、こんなに近くに来たのは初めてね。
それにこの姿は……)
日に焼けた精悍な顔立ちは彼のもの。
このひと月でほんの少しだけ覚えた、彼の薫りも。
ただ、驚愕に見開かれたのその瞳は、いつもの灰色とは違う色に染まり、その瞳孔は縦にのびていた。
頬にうっすらと白銀の鱗のような光沢も見えるし、そして背にはわたくしを抱えて空を飛べるほど力強い翼。
あの話を聞いた後、竜伯についてあらためてわたくしなりに調べてみた。
竜王と守護の盟約を結んだ竜宮の主。
竜の力をその身に取り込んで戦う竜騎士の長。
ただ、ここ十数年竜王と盟約を交わした者がおらず、竜伯は空位であると聞いていた。
パイライト卿の生家であるザクト南方辺境伯家は代々竜王の守護を受けてきたのだから、彼が竜伯位についていても不思議ではない。
だが、誉れであるはずのその事実が伏せられていたのはなぜだろう。
「どうして、竜伯であることを伏せておられるの?」
少しかがんだパイライト卿に、そっと地面に降ろされた。
彼はそのまま、わたくしの前に跪く。
さぁっと溶けるように竜の羽が消えていく様も、美しいと思った。
けれど。
「これは竜伯というより、竜騎士の姿です。
貴女様にお見せするつもりは、ありませんでした。
それに、竜伯であることを伏せているのは……私の個人的な思いによるものです」
(ああ、やはり)
最後まで、彼がわたくしに心を開いてくれることはなかった。
今もこうして首を垂れた姿勢で、わたくしは拒絶されているのだから。
目の前の景色が、水の膜で揺らぐ。
せめて零すまいと、唇を噛んでぐっと堪えた。
「殿下……此度の失態、すべて私の咎でございます。
私は如何様にも、処分を受け入れる所存でございますれば、他の者は」
「皆様ちゃんとわたくしを護ってくださいました。
それにあの大鴉のことは本当に予想外だったのでしょう?
誰にも咎などありません。
陛下にもそのように奏上いたしますから、御心配にはおよびませんよ」
「ですが、周囲の確認を怠り殿下の身を危険に晒しましたことは、申し開きのしようもない事実」
「それも、パイライト卿が救ってくださいました。
卿が居なければ、わたくしは今頃子鴉の晩餐になっていたかもしれませんもの。
それよりも、わたくしを助けるために、皆の前で竜騎士の姿に……
わたくしの我儘で護衛をお願いしたことに始まり、パイライト卿には申し訳ないとしか言えません。
本当に、ごめんなさい。
卿にはご迷惑でしかなかったでしょうが、でもわたくしは、このひと月の間、とても……楽しかった。
憧れの騎士様に護衛をしていただけて、こんなにも近くにいてくださって」
「殿下……」
「わたくしね、賭けをしておりましたの」
「賭け…?」
「ええ。
別に金品を賭けたりはしていませんからご心配なく。
わたくしの心の中でだけのことです。
このひと月の護衛の間に、パイライト卿がわたくしに笑いかけてくださったなら、幼い頃より抱いていた想いを潔く諦めようと。
もし駄目だったら、すっぱり忘れようと。」
「は……?そ、それはどういう意味で…
いや、そもそもその二つに違いはあるのですか?」
「もちろん、大いにありますわ」
どちらにしても、彼に望まれていないわたくしは傍に居続けることは叶わない。
それでも、叶わないまでも自分の想いに区切りをつけるのと、何も無かったことにして忘れる努力をするのとでは、その心の在り様は全く違う。
どちらでも一緒だなんて、誰にも言わせない。
「大切な方を思い続けたいのは、殿方だけではありません。
フェアノスティの女だって、ただ一つの特別な恋をしたいのです。
叶うことがなくたって、無かったことになんて、したくなかった」
跪いたままのパイライト卿は顔を伏せたままにしておられて、表情はわからない。
きっとすごく困っていらっしゃるんでしょう。
困らせついでに、もう全部、伝えてしまいましょう。
「パイライト・ザクト卿、お慕い申し上げておりました。
このひと月、卿に傍近くにいていただけたこと、本当に嬉しゅうございました。
わたくしの我儘でご迷惑をおかけしたことに謝罪と、なにより心からの感謝を。
この思い出を胸に、これから生きて参ります」
俯いたままの姿勢で無言で固まってしまわれたパイライト卿の目には映らないだろうけど、精一杯の淑女の礼をした。
遠くから蹄の音が近づいてくるから、たぶんはぐれた護衛達でしょう。
踵を返そうとした、その時。
ぱしり、と、手首をつかまれた。
「………御手に触れます不敬をお許しください。
ですが、このような一方的な幕引き、納得いたしかねます」
「……」
掴まれた手首は、少し痛む。
でも仕方ない。
彼には文句を言う権利があるものね。
我儘で散々迷惑をかけて、その上自分の言いたいことはしっかりと吐き出したわたくしは、それを甘んじて受けなければいけない。
そのまま、彼の言葉を待つ。
「…………………………………………………………………………?」
待てども何も仰らないパイライト卿。
言いたい文句がありすぎるのかしら。
それで言葉を選んでいらっしゃる?
ゆっくりどうぞ待ちますよ、と声を掛けようと口を開きかけたとき、すっと、パイライト卿が顔を上げられた。
金色だった瞳も、いつもの優しい灰色に戻っていた。
それだけではなく、その目元が柔らかく細められている。
パイライト卿が、わたくしに笑いかけてくださっている……?
「初めて殿下にお目にかかったときのこと、しかと覚えております」
「え……?」
「あれは私がまだ、16になる少し前でした。
そのころ私はまだ騎士団の見習いで。
訓練の傍ら、王城の一角にナザレが張った結界で、竜騎士の修行も行っておりました。
誰も踏み込んでこないはずのその結界に、あるとき金の髪の妖精が迷い込んでこられた」
「ちょっと…いくらなんでも誇張がすぎるのではございません?」
「私の目には、そう映ったのです。
私は物心つく前に、竜の力との親和性の高さゆえに、竜伯として竜王と守護の盟約を結びました。
しかし、その力の大きさを恐れ、また何のためにそれを使うべきかにも迷い、竜騎士としての能力を上手く発現できずにおりました。
竜騎士の力の扱い方を日々特訓しておりましたが、なかなか習得することができず。
故に、あの頃の私は、この名の如く偽の金、愚者の黄金だと、陰で蔑まれておりました。
その通りだと、当時は悔しく思うことすら、ありませんでした。
しかし幼い貴女様に初めてお会いしたあの時、この美しい方を、この方のおられるこの国を護るために自分は居るのだと、漸く心から思えるようになりました。
貴女を護る力を得るためならと、騎士団での鍛錬も、竜宮の厳しい修行も、苦にならなかった。
今の私があるのは、全て貴女様のおかげ。
私は、殿下を護るため、竜伯としての自分を受け入れることができたのです」
「パイライト卿……………………
…………そんなにたくさんおしゃべりしてくださったのは、初めてですね。
いつもは表情筋一つ動かすのも惜しいとばかりのお顔でしたのに」
「お恥ずかしいですが……
余人はいざ知らず、殿下を前に致しますと、言葉が全く出てこなくなり……
カルロアにも、ナザレにまでも、馬鹿にされる始末で」
「…先ほどから仰っているナザレとは?」
「ナザレは竜王の名前です。
初めてお目にかかったとき特訓してくれていた少年は、竜王が変化していた姿です」
「まぁ……」
竜王様はそんなこともお出来になるのですね。
いえ、それよりも。
「不器用な方………」
「申し訳ございません」
「わたくしすっかり、卿に心底嫌われているのだと思っておりました」
「………………殿下。
心より、お慕い申し上げております。
私のような粗忽者、しかも殿下よりずっと齢も上で……それでも、諦めきれず。
専属護衛にと言われたときは本当に嬉しかった。
たったひと月でも、お傍近くに侍れるならと……情けない、男です」
本当に、こんなにたくさん言葉を交わしたのは初めてで。
わたくしの心臓はさきほどからばっくばくと大音量を奏でている。
パイライト卿の方もこれでもかと顔を赤くされていて、でも照れくさそうにしながらも灰色の瞳は逸らされることがなく見つめ返してくれる。
彼は上背があるので、跪いた状態でかがんだわたくしと目の高さが同じくらい。
漸く同じ目線になれたのが嬉しい。
「……それで、諦めてしまわれるの?」
「諦められ…ません」
「わたくしを、想ってくださっている?」
「王家に届いた釣書の中には、私の物も含まれておりますれば」
「本当に?」
「嘘偽りなく」
「では、わたくしの賭けはどうなるのしら……?」
「まだ、城に帰りつくまでは護衛の任を解かれておりません。
賭けは、殿下の勝ちなのでは?」
「そうね、勝ったわ……わたくし」
そこまで言って、わたくしの両目から大きな雫が零れた。
瞬きをするのも忘れたまま、次から次へと零れていく。
それを見ていたパイライト卿が慌てて胸元からハンカチを取り出そうとするのに、待ったをかけた。
「ハンカチも素敵ですけれど、騎士服の胸元をお貸しくださいません?」
年上の殿方とは思えないほどあどけなく破顔したパイライト卿が「いくらでも」と腕を拡げてくれたので、わたくしは遠慮なく胸元に飛び込んだ。
「賭けの勝敗はつきました。
でも殿下にも諦めていただいては、困ります。
どうか、その御心を、余すところなく私にお与えください」
「心なんて、とっくの昔に、全部卿のものです……」
駆け付けた護衛達の声がするけれど、構わない。
だってわたくしは、賭けに勝ったのですもの。
**********
「ということがあったのよ」
「あの父上が」
ザクト南方辺境伯領城館の談話室。
長椅子に座った私の膝に上体を預けるようにして見上げてくる一人息子の頭を撫でる。
「あら、意外だった?」
「父上がそんなに長く母上を想っていらっしゃったのは存じませんでした。
セレン叔母上からは、母上の方が父上をお慕いしたところからがきっかけだと聞いておりました」
「それは、セレンがわたくしの親友で、わたくしの心情しか彼女には話していないからよ。
この話をしたこと、父上には内緒ですよ?
恥ずかしがってしまうから」
「父上が竜伯であるのを伏せておられたのはなぜだったのですか?」
「それは秘密にしておきます」
「?」
竜伯が空位だと噂されたのは、守護盟約を結んでから竜騎士としての能力を完全に身につけるまでに思った以上に時間がかかってしまって、正式に竜騎士となった時点でいまさら改めて竜伯だと喧伝するのもどうなのだと、そのまま特に何もせず流してしまったのが主な原因。
それから。
『私のような無骨な者にすら、次期辺境伯だと縁談はきていた。
それが竜伯となれは余計に増えてしまうと思ったのだ。
貴女を諦めきれない以上、それは煩わしいものでしかないだろう』
照れながらそう言った旦那様を思い出しながら、小首を傾げる幼子に微笑む。
暗めの銀髪と、青味がかった灰色の瞳。
わたくしが彼と初めて出会った歳になったばかりの息子は、顔立ちはわたくしそっくりだとよく言われるけれど、瞳の色と、表情の変化が分かりにくいのは旦那様似。
分かりにくいだけで、二人とも感情表現はちゃんとしてくれているけれどね。
「カルスもきっと、いつか出会えるわ」
「運命のひとにですか?」
「運命は、必要ないかもしれないわね。
ただただ愛しくて仕方のない、そんな存在によ」
「?」
ますますよくわからないという思いをありありと顔に浮かべた(ようにわたくしには見える)息子を膝に抱き上げて、その柔らかな頬にそっと唇を寄せた。
そう、この子にも、きっといつか。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
余談ですが、
このお話の最後から一年後、カルスと呼ばれていたキャロラインとパイライトの息子は弱りきった氷竜を拾い、
その更に一年後、南海の王国カロッサに第三王女レイリアが生まれます。
カルスとレイリアの物語『参謀長は休暇中〜竜の眠る島』もよろしくお願いします。