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第1話 全てが始まった日(1)

 慣れた手つきでログインすると、オレの貧相なアラサー会社員の肉体は、二十歳前後の青年のがっしりとした逞しいものへと塗り替えられた。無機質な白い空間に色鮮やかな世界が描き出され、やがて道を行き交う人々の足音や声が鼓膜を叩き、潮の匂いを孕んだ風が優しく頬を撫でた。


『ヒロイック・オンライン』。誰もが何者かになれるファンタジーVRMMO、という謳い文句でリリースされたこのフルダイブ型VRMMOも、ついに一周年の佳節を迎えた。


「やあ、そこのお兄さん。お久し振りだねえ。最近の景気はどうなんだい?」


 赤毛の三つ編みとそばかすが印象的な少女が、背負っていた荷物を地面に下ろしてニコニコとオレに話しかけてきた。


「アンヌか。まあ、それなりかな。そっちは随分と景気がよろしいようで」


 オレが苦笑しながらそう返すと、アンヌは荷物から紙袋を一つ取り出した。紙袋の中から食欲をそそる香辛料の良い匂いがしてきた。


「こっちは中々順調よ。いやあ、開拓祭、さまさまだわ。ところでお兄さん、開拓祭限定の開拓祭饅頭をお一ついかがかしら。値段はおまけしてあげるわよ?」


 彼女の商売上手な言葉と食欲に負けて、オレは懐から財布袋を取り出し、中の小銭をいくらか彼女に渡した。


 今までにもフルダイブ型VRMMOは多数リリースされてきたが、食事に味と匂いが設定されていなかったり、NPCの受け答えが明らかにおかしかったりと、今一つ没入感に欠けるものばかりだった。なので、この世界で初めて食事をした時と、流暢な受け答えをする目の前の彼女が、実はNPCだと知った時は驚いたものであった。


 オレは紙袋の中から取り出した、まだホカホカと温かい開拓祭饅頭の肉汁と香辛料のハーモニーを楽しみながら、このVRMMOの開発発表から今日までのことを思い出して感慨にふけった。


 世界最高のVRMMOにすると宣言しておきながら、度重なる不具合とリリース延期のお知らせ。挙句の果てに開発チームのトップが解任されたと聞いた時には、もはや怒りを通り越して呆れるばかりだった。


 それだけに正式リリースを迎え、この圧倒的なリアリティと美しさを体験した時の感動はといえば、初めてログインしてからしばらくの間、全身が震え、鳥肌が立ち、その場から動けなくなったくらいだ。


「あっ、そろそろ始まるみたいよ、開拓祭のメインイベント。内容も主催者もイベント当日に発表するだなんて、上の人達も面白いこと考えたわよね。そのせいで人混みもすごいことになっちゃってるけど」


 アンヌはそう言って荷物を背負い直し、「ほら、あそこ」と、町の象徴の一つである大聖堂を指差した。人混みのせいでよく見えないが、大聖堂の大扉がわずかに開いていて、白銀の鎧と片手剣を装備した大勢の騎士達が、隊列を組んで大聖堂の前にいる群衆を必死に押し退けようとしているようだった。


 運営は何をやっているんだか。どう見ても明らかに進行がグダグダになっているじゃないか。ウチの会社なら上司による一時間の説教コース確定だぞ。おそらくは派手な演出と共に、教会のお偉いさんがイベントの内容を告げる予定だったのだろうが、これでは興ざめもいいところだ。


 オレは見るに堪えない運営の醜態に呆れてため息をついていると、突然、大聖堂前の騎士達の動きに変化が起き始めた。群衆を押し退けようとするのをやめて、こちらにぐるりと背を向けると、片手剣を鞘から抜いて胸の前で構えた。


 オレも、アンヌも、群衆も、騎士達も、全ての人間が沈黙して大聖堂を見守る中、大扉の奥からついに今日の主役が姿を現した。


ツイッターもよろしくお願いします!

https://twitter.com/nakamurayuta26


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― 新着の感想 ―
NPCのこだわりも大事ですね。 自分はあくまでも競技としてのMMOを書いていますので。 今後の参考にさせてください。
現実世界と仮想世界のギャップを明確にしつつ、読者にVR世界への感覚的な移行を体験させており、「潮の匂いを孕んだ風が頬を撫でた」など五感に訴える表現が、まさにフルダイブ体験のリアリティを伝えています。 …
[良い点] ゲーム世界への受肉時の表現が繊細で分かりやすいですね。フルダイブ型のVRMMOの作品としてしっかり作り込まれている作品で素晴らしいですね! [一言] Xより参りましたねぶくろです。 X上で…
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