緑の庭の城(三十と一夜の短篇第73回)
海で拾った宝石、従兄にもらったスーパーカーのラジコン、じいちゃんの書庫で見つけた外国語の図鑑に、宝の地図。
幼少期の俺は、見つけた大切なものを全部リュックに詰めて持ち歩きたがったらしい。
「優太は大切なものがいっぱいだなあ。持ちきれないだろう、じいちゃんの物置を使っていいよ」
それから毎年、じいちゃんの家に行くたびリュックいっぱいに大切なものを詰めては運んで、自分なりに並べて置いて。じいちゃんの庭のすみっこにある物置は、俺のとくべつな場所になったんだ。
大切なものがたくさん詰まった俺だけのお城。
***
じいちゃんの家を取り壊す。
そんな連絡が入ったの春もおわりかけたころだった。
『いま、解体業者さんと日取り調整してるところでねえ。だから必要な物があったら、梅雨に入るまでに回収しといてほしいのよぉ』
父から番号を聞いたのだ、と気軽に電話をかけてきて『元気してるかねえ』と話し出した伯母の言葉に驚いた。
「え、まだ家の物そのままなの? じいちゃん死んだ年くらいに形見分けだっけ、したんじゃなかった?」
両親が呼ばれた際「優太はどうする?」と聞いてきた記憶がある。就職してまだ数年のころで、仕事を抜けたくなかったから断ったのはもう何年か前のはず。
『家のなかは片付けたわよぉ。でも庭の草は伸び放題だし、家自体ももうね、誰も手入れしないから壊すしかなくなっちゃって。でもほら、庭のすみっこにあるじゃない、物置が』
「ああ」
さも知っているでしょう、と言わんばかりの伯母の口ぶりが、遠い記憶のなかに忘れていた物置を思い出させた。
『優太くん、ずいぶん熱心にあのなかにこもってたでしょ。おじいちゃんが生きてるころ、勝手に触っちゃいかんって言ってたからそのままになってるのよ。あんたのお父さんはもういいだろ、って言うんだけど、壊す前に一回、見に来るかしらって』
「いや……」
とっさに断りかけて、ふとやめた。
物置にこもって遊んでいたのは小学校にあがってしばらくまで。三、四年生のころにはゲームのほうが楽しくなって、じいちゃんの家に行ってもリュックに詰めていったゲーム機を持って部屋のなかで遊んでいた。
二十年近く前のことなのに、伯母のなかでは俺は未だにちいさな優太くんなのだろうか。
「いや、うん。見にいくよ。物置、のぞいてみる。行ける日に適当に行くから、勝手に庭に入ってもいい?」
そう返事をしたのはなんとなく愉快な気持ちになったから。
俺のなかで遠い昔だと思っていた過去が伯母のなかではまだほんの数日前のように語られるのが面白くて、土産を片手に大人になった優太が顔を出したら伯母はどんな反応をするかと思ったからだ。
「じいちゃん家に行った帰りに顔出せば、話のタネにもなるしな」
軽い気持ちで予定を立てた。
折よく仕事もあらかた片が付いたところ。夏季休暇を申請し損ねていたこともあって上司にも快く送り出され、週末には田舎へ旅立っていた。
「こんなに寂れてたっけな」
久方ぶりに降り立った田舎の駅の寂れ具合はまだまだ序の口。
祖父の家にバスで向かおうとバス停に立って、ほとんど空欄の運行表に驚いた。
「朝と夕方に一本ずつとか……冗談だろう」
朝のバスは数時間前に出て、夕方のバスまではまだ数時間。待っていられるわけもなく、ため息をついて途中でタクシーを拾おうと歩き出す。
シャッター、民家、民家、シャッター、廃墟。
進むほどに危険な香りが強くなる。ひび割れたアスファルトの車道を横目に歩いているというのに、すれ違う車はいまのところ皆無。人の姿も見つけられず、道の端に伸びた背丈の高い草ばかりが勢いを増していく。
記憶にある駅近くの土産物屋に着いたら、タクシーを呼んでもらおう。
そう思っていたのに。
「建物ごと無くなってるとか、まじかよ……」
あてにしていた土産物屋は更地になっていた。更地になって何年経つのか、雑草が生い茂るどころか小ぶりな木まで生えている。
呆然と立っていたら、ふとその木の向こうのコンクリ塀のさらに向こう側を横切る人影が見えた。
逃してはならない。
そう判断した俺は、間違っていなかった。
「いやー、まさか車を貸してくれるとはね」
駅から歩いてはじめに発見した人物は、自動車整備を生業にする初老の男性だった。祖父の家に行きたいからタクシーを呼んでもらえないかと声をかけた俺に、男性は代車用の車を貸してくれたのだ。バスやタクシーが見当たらなかったのは田舎すぎるせいだが、車を貸してくれる人の良さも田舎らしさだと思うとまあ悪くない。
借り物の車の窓枠に肘をつき、うろ覚えの道路を曲がって祖父の家を目指す。
ちらほらと目につく記憶にある建物はどれも古びてどこかよそよそしい気配を漂わせていたけれど、いよいよ祖父の家が見えてくるとそんなことは気にもならなくなった。
駐車場なんて気の利いたものの無い家の前、通りの端に車を寄せて庭に足を踏み入れる。
「……廃墟じゃん」
そこにあった光景が信じられなくて、思わずつぶやいた。
木造の平屋建てで、けど狭いどころか親戚一同が集まって宴会をしてもじゅうぶんな広さのある祖父の家。県外に住んでいる俺たち家族だけでなく、何人もの親戚が寝泊まりしても部屋に余裕があって、隣町に住む伯母一家まで「今日はここで寝てくかあ」なんて言って集まった祖父の家は、屋根が沈み込み壁の木材が落ちて、家の外いわず中までも生い茂る蔦に飲み込まれそうになっていた。
「壊すしかないって、そりゃそうだよ」
伯母の言葉に誇張はなかった。
思えば、祖父宅の近くに住む伯母夫婦も高齢だ。俺の父親の姉にあたるひとで、父とはけっこう年が離れていた記憶がある。八十歳まではまだいかないが、立派な、立派過ぎる祖父の家を管理維持する余裕はなかったのだろう。
緑に呑まれる家を呆然と見上げていた俺は、こめかみをつたう汗でふと我に返った。
「このぶんじゃ物置なんて壊れてるんじゃないか……?」
草の勢いがひどく、広かった庭を見通すことはできない。
たくさん植えられていた樹木が見当たらないのは、せめて木だけでもどうにかしようと伯母夫婦や俺の親世代が伐採したのだろう。そこここにあった木に登った記憶や木になった実をもいで食べた記憶はあるけれど、確かにあったはずの木々の名前はなにひとつ思い出せない。
「……見るだけ、見てくるか」
思い出せない虚しさから目を背けるため、ひとりつぶやいて庭の草を踏みつけた。途端に、むせ返るような青い香りに包まれる。
伸び放題の草に絡んで蔦が広がり、葉を生い茂らせている。よく肥えたツルは俺の指ほどもあり、力任せに引っ張っても千切れる気配はない。
「いてっ」
むしろ俺の手が先に負けてしまった。
草の汁の緑色が擦り付けられた手のひらに、赤い血の色がじわりとにじむ。
ひとり暮らしの部屋と会社を往復する毎日のなかで自分の血を見ることなんて髭剃りをしくじってカミソリで切るか、鼻血を出した時くらいのもの。じんじんと痛む手のひらの感覚が懐かしくて、まじまじと見つめてしまう。
「あ、裏道」
痛みが記憶を呼び覚ます。
行く手を阻む草むらに背を向けて、向かったのは隣家との間にある細い道。隣の家にひと気はないが、手入れをする人がいるのだろう。草のまばらな細い道を行くと、ぐるりと張り巡らされた塀にぽっかりと穴が見えた。
記憶のとおり破れたままの塀をまたいで下半身を通し、頭をぶつけないように屈んで上半身をくぐらせる。
「じいちゃん、俺もう余裕で入り口を通れるようになってたよ」
届かないと知っていながらつぶやいたのは、壊れた塀の隙間を『王国の入り口』と呼んでいた自分がいたから。
特別な場所には特別な道順で行くものだと破れた塀をまたごうとしては傷を作る俺に、祖父は「危ないぞ」と言いながらも塀を修理せずにいてくれた。そのやさしさに気がついても今更だ。
塀から入った庭はやはり草だらけではあったけれど、玄関側から見たほどではない。一面緑色ではあるものの背丈が総じて低く、茎やツルが弱々しいのは日当たりが悪いからだろうか。
さまざまな緑が入り乱れるなか、錆びた金属の赤色をした物置はひどく目立つ。
「まだあるんじゃん……俺のお城」
蔦に取り囲まれ、錆びていない箇所など無いほどに錆び果てて、それでも物置は形を保ってそこに立っていた。
ひどく頼りない壁を倒してしまわないよう、錆びついた引き戸を慎重にこじ開ける。
ほこりとかびのにおいに満ちたうす暗いお城のその中に、果たして俺の宝物たちは未だ存在していた。
「はは、これ、勇者の剣か」
手に取ったのは小学生のとき通学路で見つけた木の棒。あのころはあまりにもしっくりときて長さも手頃だったから、俺のための剣だと大喜びしたものだけれど。
握りしめるまでもなく、朽ちた木の棒は手の中で崩れて折れた。
「誰にもらったんだっけな。何色だったんだろ、このリボン……」
崩れた棒を捨ててつまみあげたのは、色褪せたリボン。バレンタインチョコの袋に結ばれていたリボンだということは覚えている。
捨てられなくて、だけど持って歩くなんて恥ずかしくてできなくて。リュックの底に忍ばせてここに持ち込んだのだった。
けれど今、そのリボンを前にして俺の心はドキドキするどころか何の感慨も浮かばない。
ほかのどんな宝物も同じだった。
海で拾った宝石はただの石ころ。
スーパーカーのラジコンはお古なうえにもう動かないガラクタ。
外国語の図鑑はかび臭い紙の束でしかなくて、宝の地図はただの落書きが描かれた紙切れだった。
あんなに大切だった宝物はひとつ残らず姿を変えて、俺を取り囲むのはゴミの山。
それを寂しいと思いはしても悲しくて泣きたくなることはない。
そのことがまた寂しいけれど、その感情すらどこか遠い。
もしも必要なものがあったら入れようかとポケットに入れてきた袋を取り出すことすらせずに立ち尽くす。
手にとっていない物をいくら見回しても、どれもこれも心を揺すりはしなかった。
あきらめて、ほこりにまみれたうす暗い物置に背を向けた時。
『優太』
祖父の声を聞いた気がして振り向いた。
振り向いて日差しにくらんだ視界に見えたのは、祖父の笑い顔。
やさしい視線のその先に、宝物に囲まれた幼い俺がいる。
その時になってようやく気がついた。
「じいちゃんが俺を王さまにしてくれてたんだな。じいちゃんがいないと、俺のお城はもうお城じゃないのか……」
ぼろりとこぼれた涙は、祖父の訃報を聞いたときにも流れなかったもの。
遠い町で祖父の死を聞いて、葬式にも顔を出さず墓の場所だって知らないまま今日まで過ごしてきたのに。
祖父の死から何年も経って、取り返しがつかなくなってからようやくその死の意味に気がつくなんて、どこが立派な大人なんだと泣きながら笑ってしまう。
悲しみと情けなさとでぼろぼろこぼれて止まらない涙に濡れた頬が、庭を吹き抜けた風になでられて引きつるような感覚がある。
こんなとき『ほれ』とよそ見しながら庭の木の実を差し出してくれるしわくちゃの手はもう無い。
だから自分の腕で乱暴にぬぐって、物置に向き直る。
「じいちゃん…………ありがとう」
いろいろと伝えたいことがあったような気がしたけれど、言葉になったのはひと言だけ。
やっぱり少しも立派な大人にはなれていなくて、でも祖父なら「優太は相変わらず泣き虫だな」と笑ってくれるだろう。
「俺の宝物を、お城を守ってくれてありがとう」
幼い優太のために、祖父が守ったこのお城から俺が持ち出せる物は何もない。何ひとつ持ち出せない。
俺のお城は幼いあのころのまま、祖父の暮らした家といっしょに置いていくのがきっと一番良いはずだから。
物置の外に出て、扉を閉めようと振り向いたとき。がしゃん、とあっけなくお城は壊れた。
錆びて砕けて限界まで薄くなっていた壁や扉や屋根が、宝物たちを下敷きに砕けている。
幼い俺だったなら大泣きしただろう。けれど今の俺の胸に浮かぶのは、これで良かったんだという安堵とかすかな満足感。
「車返して、伯母さんに会いに行こう」
未練もなくお城の残骸に背を向けられるのは、俺が大人になったからだろう。そう思うけれど、誇らしさはなく感じるのはかすかな苦み。
塀の穴に向かいながら、せめてむせ返るような緑の匂いを記憶に残していこうと息を深く吸った。