第三章 勇者に憧れる小鳥
リオニスは元々旅の目的を彼らに告げるつもりはなかった。伝える必要はないと思っていたし、自分自身もその"役目"が今一つピンと来ていなかったためでもある。しかし彼らの住処に泊まった翌朝、あっさりとその目的は露見することとなった。
事の始まりは朝、住処の近くにある泉で顔を洗っていた時に、隣で顔を洗っていたスラッシュの言葉。
「なんだその痣?」
腕を捲れば当然、望みもしないのに刻まれた痣は表に出る訳で。ぶつけた痣だと言い張るにはあまりに存在感のある、独特な模様のそれは当然目を惹く。
「え、あ……」
誤魔化すのが下手なリオニスは視線を揺るがせた。言葉を探す彼を横に、スラッシュはまじまじとそれを見つめ、子供らしい素直な感想を漏らす。
「痣っていうには模様みたいな……」
「少し前に騒ぎになってたな。世界を滅ぼす魔王を倒す勇者の痣がどうこう、って」
そう言葉を紡いだのは朝食の支度のための水を汲みに来ていたスワローだ。それを聞いたリオニスの肩が露骨に跳ねたのをシュライクは見逃さなかった。
「リオ?」
「……はは」
照れたような困ったような笑みを零す彼。それを見て、その場に居た一同はぽかんとして……事情を呑み込むと同時、驚愕の声を上げた。
「え?!」
「アンタが?」
「っぽくねぇ……」
スラッシュ、シュライク、スワローの順である。住処である廃墟に戻れば寛いでいるクロウと朝食の支度を手伝っているロビンにもどうせ伝わるだろうな、と半ば投げやりに思いながら、リオニスは肩を竦めた。
「俺自身がそう思ってるから……」
らしくない。それは自分が一番思っていることである。崇高な理想を抱いたことなど一度もない。平穏無事な日々を何となく過ごせれば良いな、程度のことしか考えたことがないのだ。適当に魔獣を倒して、適当に金を稼いで、適当なタイミングで何処かの誰かと結婚して家庭でも持てたら楽しそうだがそもそも"家庭"を良く知らない自分には無理だろうなぁなどとぼんやり考えていただけの自分がこの国を救う勇者だと言われたところで、未だに人違いではないかと問いたいぐらいである。
とはいえ、予言者の言葉は絶対だというし、例え外れていたとしてもそれを周囲が信じて期待するのならばとりあえずそれに応える他ないだろう、とリオニスは考えているのだった。
そんな訳で、スワローが用意してくれた朝食の席でリオニスは自分が旅に出ることとなった流れをロビンとクロウを含めた一同に話すこととなったのだった。朝食は決して豪華とは言えないが、確かに美味しいものだった。リオニスが報酬として支払った銅貨で買ってきたという生みたての卵を使ったふわふわのオムレツは何もつけずとも食べられるくらい格別に美味しいし、野菜の切れ端しか入っていないスープすらも美味しく感じる。みんなで食べるからだよね、と無邪気に笑うロビンの言葉にも頷ける。
「へぇ、じゃあ魔王城を目指す冒険、って訳か。良いじゃねぇか! ロマンだ、ロマン!」
リオニスの話を一番興味深そうに聞いていたのはシュライクだった。ネモフィラ色の瞳をきらきらと星のように煌めかせて、頬を上気させながら彼は叫ぶ。そんな彼の様子を見て穏やかに目を細めたクロウは落ち着いた声で言った。
「シュライクが好きだった絵本みたいだな。勇者の冒険の」
そんな彼の言葉にシュライクは一層頬を赤く染める。年下なのに大人びたクロウの言葉は決して揶揄うものではなかったのだが、まるで子供を慈しむそれのように聞こえたためだろう。照れ隠しのように乱暴な声音でシュライクは"うるせー"と言った。
「でも、それ一人で出来るものなのか?」
ふと思いついたように口を開くのはオムレツの残りを口に飲み込んだスラッシュだった。彼は幼く、まだ子供のような言動が多いが、一方で時折酷く鋭いことを言ったりする。絵本でもなんでも勇者が一人で戦って解決するようなストーリーは聞いたことがない気がする、と彼は言った。リオニスはそれを聞いて決まり悪そうに頬を引っ掻いた。
「それなんだよなぁ」
勢いで(自棄で、ともいう)街を出てきてしまったのは良いが、此処から一人でやっていけるかと問われたら答えは否、である。実際、眠っているときに獣に襲われたらあっさり死ぬだろうし、病気になったり魔獣や悪い魔法使いに呪いや魔法でも掛けられてもあっさり死ぬだろう。仲間が必要だ、と言うのはわかりきった話だと理解したのは昨夜この家に入ってきてからだった。
孤児たちの集まりである此処の子供たちでさえ、役割を分担して生活している。戦闘能力と運動能力があるシュライクが稼ぎに出て(その稼ぎ方が著しく間違っているという話はおいおいするとして)、足を悪くしていて外に出られないクロウは住処を守るために魔法を使う。足の速いスラッシュは街を駆けて情報収集をしているそうだし、手先が器用で要領の良いスワローは家事をし、一番幼いロビンは家の手伝いをしながら時折シュライクの"仕事"の手伝いもしているという。だからこそ生活が破綻せず成り立っている訳で、一人で旅をするリオニスがそれをこなせるとは到底、考えられない。
それに……魔王が一体どういう存在なのかは不明だが(予言者たちもそこまでは言い当てられていないらしい)魔王が住むとされる禁じられた土地の周辺には強い魔獣が大量に住み着いているという。それを討伐出来なければ魔王退治どころの騒ぎではない訳で。
「仲間も、探さないといけないよなぁ」
本当に行き当たりばったりの旅を始めてしまったな、とリオニスは今更のように言う。
「一緒に行ってくれる友達とかいなかった訳?」
テーブルの片づけを開始しているスワローに言われ、リオニスは肩を落とす。
「…………」
悲しいことに居なかったのである。だから今此処に居るのである。しかしそれを言葉に出すのは何だか……とても切ない。
しかし言葉に出さずとも、ばればれであった。テーブルについていた一同は笑い声を上げる。
「その沈黙が答えだな」
「いい奴だけど頼りないもんなーリオ」
リオニスの皿に残っていたベーコンの欠片をさっと攫って口に突っ込んだシュライクはにっと笑う。
「此処に居る間に俺が鍛えてやるよ! 体術には自信があるんだぜ!」
***
体術には自信がある、と言うのは本当で、シュライクは優れた格闘家だった。どちらかと言えば小柄な方に入るであろう体を十全に使い、相手の懐に飛び込み、的確に急所を狙った攻撃を繰り出す。拳にせよ蹴りにせよ本気で喰らえば骨の一つは折れそうな勢いだ。隙を見せれば後ろから締め上げられて逃れることもできなくなる。前回勝てたのはあくまでリオニスが追う側、シュライクが追われる側だったからなのだと理解した。
リオニスも剣術に関してはそれなりの自信があったが、剣なしでの戦いはからきし駄目なのだと理解することとなった。
「凄いな、シュライク」
地面に組み伏せられて、何度目か。リオニスがそう声を上げれば、シュライクは得意げに笑った。
「へへっ、兄貴分たちに散々鍛えられたからな!」
彼は嬉しそうに語った。イーグルと言う男に拾われてからの日々を。拾われた後にこの廃屋に住んでいた兄貴分的存在に強くなった方が良いと言われて教え込まれたという体術。その兄貴分も途中で"世界を見に行く"と旅立っていったという。他に子供が入ってきたり、出て行ったりを繰り返してはいるが今のメンバーのスワローとクロウとは同じ頃イーグルに拾われて以来ずっと一緒だという。道理で本当に家族のように見える訳だ、とリオニスは笑った。
シュライクはリオニスにかけていた技を解き、彼を起こす。そして服についた土埃を払いながら、言った。
「リオももうちょい体鍛えた方が良いんじゃね? 剣ぶっ飛ばされたりしたら一発で魔獣の餌になるぞこのままじゃ」
確かに、とリオニスは頷く。武器を失ったら戦えない、と言うのは割と致命的だ。武器を手放さなければ良い、などと言える程剣術への自信もないし、魔法を使われてしまえば簡単に武器を奪われる可能性もある。あらゆる状況を想定するのは今後を考える上で必要不可欠だな、と考えてリオニスはそっと息を吐き出した。
「そうだな、ありがとうシュライク」
そうするよ、と頷くリオニスを見てシュライクは満足気に頷いた。
「此処に居る間は俺が面倒見てやるからさ!」
そう言って、シュライクはとんと自分の胸を叩く。"此処に居る間は"と言う言葉の時、ほんの一瞬だけ、そのネモフィラ色が翳ったように見えたのは、気のせいだろうか。そう思いながらリオニスは頷いたのだった。
***
「シュライク、強かったでしょ?」
すっかり土に汚れた体を水浴びで流していた時、街中の探索から帰ってきたロビンが言った。自分のことでもないはずなのに得意げに。リオニスはそれに頷いて見せると、苦笑混じりに肩を竦めた。
「全然勝てなかったよ、剣があれば何とか、ってレベルだ」
素直にそういうと、ロビンは一層得意げに笑った。自分の兄貴分が強いと褒められるのが嬉しいのだろう。そして、懐かしむように目を細めて、言った。
「元々凄くセンスがあるんだよ。イーグルも言ってた。ちゃんとしたところで鍛えれば、きっと……」
そこまで口に出して、ロビンは黙った。何か言いたげな彼の表情にきょとんとしながら、リオニスは近くに置いていたぼろぼろのタオルで体を拭う。彼が洋服を着直し終わる頃、ロビンはやっと口を開いた。
「ねぇ、リオさん、リオさんが育った街には、そういう道場とかあったりした?」
その問いかけにリオニスは一瞬面食らう。いきなりどうした、と思いつつ自分が育った街を思い出す。
「道場、って言えるかはわからないけど……あったにはあったな」
ちょっとした体術、護衛術などが習える場所。ある程度の金が必要だったためにリオニスが世話になることはなかったが、子供たちの将来に役立つだろうからと子供を通わせている親も居たな、と思い出す。
「そっか」
「もっと大きい街に行けばそういうとこもあるし、そうでなくても弟子を取ってるような有名な格闘家も居るだろうな」
……きっと、ロビンが知りたがっているのはシュライクの力が活かせる場所が"外"にあるのか、と言うことだ。そう推測して言葉にすれば、ロビンは少し寂しそうに笑った。
「そっかぁ」
小さく、息を吐いたロビンはいつものようににこっと笑った。そして着替え終わったリオニスの肩をぽんと叩いて、言う。
「今日の夕飯はシチューだって! 珍しく野菜がまともなの売ってたから買ってきたんだ!」
楽しみ! と言って笑って駆け出す彼。リオニスはそれに頷くと、その小さな背中を追いかけたのだった。
***
夕飯のシチューも絶品だった。牛乳だの小麦粉だのは高いからあまり使いたくないんだけどな、などと零していたスワローだったが、リオニスが今まで食べたことがないくらい美味しかった、と褒めたのが効いたと見えた。材料費は一応宿泊費として支払っているのだが普段にない贅沢だとロビンやスラッシュが零していたため、普段の食事はもう少し質素なのだろう。それでも、此処に住んでいる彼らはやせ細ってはいない。きっと、スワローがそれなりのものを食べさせているために栄養失調になっていないのだろう。好ましい環境とは言い難いが、劣悪な環境と言う訳でもないこの家は、なんだか酷く不思議なものに思えた。
「スワローは料理、どうやって覚えたんだ?」
せめて片付け位は、と申し出て洗い物を手伝いながら、リオニスはそう彼に問いかけた。スワローは"いきなりインタビューか? "と苦笑を漏らしたが、すぐに笑って答えてくれた。
「この屋敷に転がってたレシピ本見て美味そうだな、って思って作り始めたのがきっかけだったな。
初めは酷いモンしか作れなかったけどだんだん慣れてきて、此処に居る奴らも美味しいって食べてくれるようになってさ、嬉しいもんだよな。誰かに作ってもらった料理を食べるのってさ」
そう言って笑うスワローの頬は薄紅だ。照れているのだろう。そう思いながらリオニスは質問を重ねた。
「料理人になりたいとか、思わないのか?」
そんなリオニスの言葉に、一瞬スワローの手が止まった。すぐにその手を動かしながら、スワローは言った。
「ん、んー……思わない、訳ではない、けどさ。
でも、ま、素性のわからない奴を雇ってくれるような店なんてそうそうないよ」
やや煮え切らない口調でそう言って彼は肩を竦める。でも、と言いかけるリオニスの方を見たスワローは小さくウインクをして、言った。
「それに、俺は顔も知らない誰かに飯を作るより此処に居る"家族"に飯を作ってやる方が性に合ってるからさ」
そう言われてしまえば、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。そうか、と呟いてリオニスも洗い物の続きを手伝う。かちゃかちゃと少し欠けて、大きさも不揃いな皿が洗われて積み重なっていくのを見ながら、リオニスはこの場所で身を寄せ合って生きる"家族"たちを思った。
***
いよいよ明日、中央の街からの行商が来る。シュライクたちの住処に世話になるのも最後だ。スラッシュとロビンは"ずっとここに居てもいいんだぞ"などといって寂しがってくれたし、スワローも最後の飯が味気ないんじゃ此処の記憶も悪くなるってもんだろ、などと言ってそれなりに凝った食事を用意してくれた。クロウは口数が多くないなりに、また困ったことがあれば訪ねてくれば良いと言って旅の安全のためにと魔法をかけてくれた。
シュライクはと言えば、最後にもう一度特訓をしよう! と言って、外に誘ってきた。リオニスもそれに乗って、二人で組み手をする。
少しずつ、シュライクの動きも読めるようになってきた。どのタイミングで背後に回ろうとするか、どうすればそれを躱せるか、振りかぶった拳が何処を狙うか、どうすれば相手の隙を見つけられるか……シュライクに文字通り叩き込まれた知識をフル活用して、漸く互角の試合が出来たところで、リオニスはシュライクに呼びかけた。
「なぁ、シュライク」
「なんだ?」
「一緒に、この街を出ないか? 勿論、他のみんなも一緒に」
その言葉に、シュライクは大きく目を見開いた。それを幾度か瞬かせると、苦笑混じりに彼は肩を竦めた。
「いきなり何言い出すんだよ、勇者風のジョークか?」
笑えねぇよ、と言う声は微かに震えている。本当は冗談などではないとわかっているのだろう。
「ジョークじゃない、本気だよ。
この街を離れれば、皆それぞれにもっと良い暮らしが出来るようになると思ったんだ、俺。
そのために、俺と一緒にこの街を離れよう」
リオニスがそういうと、シュライクは鋭い視線を彼に向けた。荷物を盗んだ彼を追いかけ、路地に追い込んだ時ぶりに見た鋭い視線。彼はゆっくりと口を開いた。
「余計なお世話だ。……いきなりどうしたんだよ、今日までそんなこと、一度も言わなかったじゃねぇか」
「此処で、お前たちと一緒に暮らしてみたからこそ思ったんだ。お前たちは、もっと幸せになれる道があるのにって」
そう。一緒に暮らしたからこそ、思ったのだ。盗みなどせずとも、彼らは生きていける。あんなぼろぼろの屋敷で、誰かにその居場所を侵される可能性を考えながら生きる必要なんてない。それが出来るだけの下地は彼らにあるのに、どうしてそれをしないのかと、彼らを知れば知るほどリオニスは思ったのだった。
「この街じゃ確かに良い仕事も居場所も見つけられないかもしれない。でも、この街以外ならそうじゃないかもしれない。
実際此処から出て行った仲間もいるって言ってたじゃないか。何でお前らもそうしないんだろうって、思ってさ」
クロウは足が悪いが魔法の腕前は人並み以上だ。その腕を買いたいと思う者はきっと少なくないだろう。スワローの料理の腕もそうだ。十分にあるとは言えない食材を使って美味しくて栄養のあるものを作ることが出来ている。シュライクはあの優れた戦闘術を使えば護衛の仕事も出来るだろう。昼間にロビンと話したように、何処か名のある格闘家の下でその技能を磨けば一層強くもなるはずだ。ロビンやスラッシュはまだ幼いからわからないが、リオニスが居たようなもう少しまともな孤児院に入れば教育は受けられる。素直でしっかり者の二人ならば、十分な教育を受けた上で仕事を自分で探すことだってできるだろう。
そんなリオニスの言葉にシュライクは首を振った。
「他所の街になんか移動出来ねぇよ。何処に行くにしたって森を越えないといけない。
スラッシュとロビンは戦えないし、クロウは魔法は使えるが足があれだ。スワローは脚は速いが戦闘はそこまでだし、俺が守ってやるにも限界がある」
街を出て次の街を目指すうちに誰かが傷つく。下手をすれば死ぬかもしれない、とシュライクは言う。しかしそれは言い訳にしか聞こえなかった。
「それなら、俺がそういう街まで護衛でもなんでも……」
「それに」
リオニスの言葉を遮って、シュライクは言葉を紡いだ。
「……俺たちが此処を離れたら、"俺たちみたいな奴"が助けられなくなるだろ」
その言葉にリオニスははっとしてライラックの瞳を大きく見開いた。
シュライクは何処か遠くを見るような目をしていた。いつか、此処に来ることになるかもしれない、報われない子供。その居場所が、自分たちが此処を離れることでなくなってしまうと、彼はそう言っている。シュライクは、守ろうとしているのだ。自分たちが育った場所を。弱い、力を持たない者を守ることが出来る場所を。それが、彼がこの場所を離れない答えだった。
「クロウもスワローも、スラッシュやロビンも出るべき時が出たら勝手に出ていくさ。今までもずっとそうだったんだから」
あの屋敷はそういう場所だ、と彼は言う。大人と言える年齢の者がいないのがその証だ、と。それを引き留めるつもりはない、とシュライクは言った。その言葉に迷いは一切ない。きっと、本当に……例えば明日クロウが、スワローが、スラッシュやロビンが、此処を旅立つといったとしても、シュライクは笑って送りだすのだろう。気を付けてな、と明日自分にしようとしてくれているように、街の端まで見送りに行くのだろう。
でも、それならと。リオニスは最後の問いを彼に投げた。
「……シュライクは、外に出てみたいんじゃないのか?」
そう、問いかけた。シュライクはその問いに一度大きく目を見開いた後、言った。
「思ったことねぇよ、ばーか」
下手糞に笑ったその顔が、網膜に焼き付く。リオニスはぐっと唇を噛んだ。次に紡ぐべき言葉をリオニスが探している間に、シュライクはぐっと伸びをして、言った。
「とにかく、失くしたテントの代わりやらなんやらを仕入れたら安全なところまで送ってやるよ。それでサヨナラだ」
これ以上何も言うな、と言うシュライクの牽制にも思える言葉に、リオニスは頷くことしかできなかった。
***
しん、と静まり返った深夜。いつもならば眠りに付ける時刻になっても何だか眠れなくて、リオニスは外に出ていた。ぼろぼろの廃屋。此処で過ごすのも最後だ。明日には必要な荷物を調達して、この街を発つ。すっかり世話になった彼らとも、これでお別れだ。
「……これで、良いのかな」
そんな弱気な言葉が零れる。らしくもない、と苦笑するが、脳内に焼き付いたシュライクの下手な笑顔は離れなかった。
仲間の旅立ちは歓迎する。でも自分は離れない。この場所を、弱者を守れるこの場所を守るというシュライクの強い意志を感じる言葉。その裏に滲んでいる彼自身の願望に気づけない程、リオニスは鈍くなかった。
「あぁ、もう」
がしがしと、自分の頭を掻く。そして自嘲するように笑いながら、彼は言った。
「こういうとき、"勇者様"なら何て言うんだろうなぁ」
気の利いた台詞一つ出てこない。何を言ってやれば良いのかがさっぱりわからない。人付き合いが下手すぎる自分ではどうすることもできないな、と彼は諦めたように溜息を吐き出した。
と、その時。こつり、と地面を叩く音が聞こえた。足音とは少し違うそれは、ここ数日で何度も聞いた音。杖をつく音だ。
「起きてるんだな、リオニス」
振り向けば案の定、そこにはクロウが居た。彼は今までになく穏やかに微笑むと、緩く首を傾げて問うてきた。
「なんだ、シュライクが気になるか?」
思えば、こうして一対一でクロウと話すのは初めてだな、最初で最後になりそうだけれど。そう思いながらリオニスは彼を見つめて、ふっと笑った。
「……あぁ、さっき色々、話してさ」
先刻シュライクと話したことをクロウにも語った。クロウは口を挟むことをせずそれを静かに聞いていた。
「エゴだ、ってわかってはいるんだけどシュライクはこの街から出たがってるように見えて、さ」
リオニスは言葉をそう締めくくった。エゴだということはわかっている。たった二、三日一緒に過ごしただけの自分が彼の本心を理解出来ているとは口が裂けても言えない。けれど、それでも……彼は本当は、外に出てみたい、冒険をしてみたいと思っているのではないか、とリオニスは思っていた。そして、もし彼が望むとしたら……――
しんとした静寂が、満ちる。星が鳴る音さえ聞こえそうなその静寂を破ったのは、静かなクロウの声だった。
「彼奴は、冒険に憧れてる」
外の世界の話を一番目を輝かせて聞いていたのはシュライクだった。勇者としての冒険に出るリオニスを羨む視線を向けていたのはシュライクだった。
「彼奴がずっと好きだった絵本は、勇者が魔王を倒しに行く物語だ。その世界、いろんな街の話をイーグルに聞いては、目を輝かせてた」
そこで一度言葉を切ったクロウはリオニスを見た。星一つない空のような漆黒の瞳でじっとリオニスを見つめながら、彼は言う。
「本当は、お前と一緒に行きたいんだろう」
付き合いの長いクロウが言うなら、きっと間違いないのだろう。リオニスはそう思いながら、言葉を紡ぐ。
「俺が、一緒に行こうって、誘ったら」
「頷かない」
緩く首を振ったクロウはそういう。それは何故か、とリオニスが問えば彼はそっと息を吐き出す。そして澄んだ夜空を見上げながら、言った。
「彼奴は誰より優しいんだ。今此処に居る俺たちをおいていけない。いつか此処に来るかもしれない子供を見捨てられない。第二のイーグルになってやりたい、って思ってるんだろう、彼奴は」
それはリオニスの推測と同じだった。彼は、かつて自分たちを拾って守ってくれた存在となりたいのだろう。弱っている子供を守れる、育てられる場所を此処に作っておきたいのだろう、と。そのために、彼は旅に出ない。けれど……
「でも、今のままの彼奴じゃ無理だ」
クロウはそう続ける。その結論も、リオニスと同じだった。
「イーグルが何処から来たのか、なんで俺たちみたいな奴の面倒を見てたのかはわからないけど……イーグルは、大人だったからな。学があったし、戦えた。金策だって、盗みじゃあなかった。正しく、上手く働く方法を考えて教えてくれてた。
……この街じゃ、どうにもうまくいかなくて俺たちは今盗みと言う形をとりがちだけどな。
強いだけじゃ、どうにもならない」
本当は彼奴だってわかってるはずだ。クロウはそう言うと、肩を竦めて、屋敷の中に戻っていった。
その杖の音が聞こえなくなると、リオニスはそっと息を吐き出して、空を見上げる。きらきらと瞬く星々は自分の話を聞いているときのシュライクの瞳の輝きによく似ていた。