第二十七章 勇者と楽士の心
「う……」
小さく呻き、シュライクはゆっくりと瞼を開く。ゆっくりと瞬くネモフィラ色の瞳。一瞬記憶が混乱したように揺れたそれが鮮やかな光を取り戻すと同時、彼はがばりと起き上がった。窓に視線を向ける。すっかり日は暮れて、月が眩しく空で光っていた。
「クソ、俺もやっぱり眠っちまったのか……!」
がしがしと頭を掻いて唸った彼は部屋の中に視線を巡らせる。相変わらず、仲間達は眠っている。小さく舌打ちをしたシュライクは甘ったるい香の出所を探した。
それは存外あっさりと見つかった。カーテンに隠れた窓辺。そこに置かれた香炉から、その甘い匂いは漂っていた。それを見つけたシュライクはぐっと唇を噛んだ。
「原因はこれか!」
すぐに気が付かなかったことを一瞬悔いるが、致し方ない。まさか、厚意で用意されたと思った部屋にこんな仕掛けがあるとは欠片も疑わなかったのだから。
苛立ちを全てぶつけるようにそれを破壊したシュライクは荒く息を吐く。香りは魔法によってまき散らされていたものらしく、香炉を壊すと同時に薄れる。それに安堵の息を吐いたシュライクはベッドで眠っているリオニスの身体を強く揺さぶった。
「起きろリオ!」
大声で呼びかければ、リオニスは目を開ける。ふわふわと揺れる瞳が彼の顔を捉えた。
「っ、シュライク?」
ベッドの上に体を起こし、リオニスは掠れた声を上げる。自分はどうしたんだったか。あぁそうだ、甘い匂いに気が付いて……それで?
幾度も瞬くリオニスの額を一度小突いたシュライクは、真剣な表情で口を開いた。
「呑気に寝てんな! 起きろ!」
そう叫ぶと、シュライクはリオニスから離れ、ユスティニアとオズワルドの体を揺らした。
「起きろユスティ、オズ!」
魔法の効力が切れたためだろう、彼らもシュライクの声ですぐに目を覚ました。ユスティニアもオズワルドも額を押さえて、小さく呻く。
「うぅ、くらくらします……」
「っ、催眠の香か……一体、何が?」
混乱している様子の二人を見て、シュライクは首を振った。
「良くわからねぇ! 変な香で皆眠っちまってたっていう事実しか。でも、ロレンスが戻ってこない、もう夜だ。こんなの絶対おかしいだろ!」
そう叫ぶシュライク。それを聞いて表情を引き締めた二人は魔道具を手に、ベッドから下りる。
「そうだな。そもそも、こんな香で眠らせる時点で、好意的とは言い難い」
オズワルドは固い表情でそういう。
「とにかく、ロレンスを探しに行きましょう」
そう言ったユスティニアはドアノブに手をかけた。しかしすぐにはっとした顔をして、声を上げた。
「っ、出られなくなっています!」
ドアノブを回そうとしても、回らない。鍵がかかっているのとは少し違う、まるで……閉じ込められているかのような。
「一体何でこんなことを……」
リオニスも動揺したようにそう声を上げる。悔し気に顔を歪める彼は、きっと軽率に村人の厚意を受け入れてしまったことを悔いているのだろう。しかし今はそんな場合ではない。
「ユスティニア、一度離れろ」
そう声を上げたオズワルドは魔道具である杖を構える。そして、そのまますうと息を吸い込んで、呪文を唱えた。
「フレア・ドラコニス!」
刹那放たれる業火。最強と謳われた魔法使いの魔法の炎。しかしそれはドアにあたると同時、まるで水の壁に当たったかのように消えてしまう。それを見てオズワルドは顔を歪めた。
「……駄目だな、魔法が弾かれる」
随分と念入りだな、と苛立ったように声を上げたオズワルドは杖を強く握りしめる。リオニスはオズワルドの魔法でも破ることが出来ないドアを見て唇を噛みしめた。
まだ香の力が残っているのか、頭が少しぼんやりする。混乱した頭に浮かぶのはどうして、と言う感情ばかりだ。どうして村人たちは自分たちを閉じこめたのか。どうしてロレンスは戻ってきていないのか。どうして、どうして……――
「どいてろ!」
そんな混乱した感情を振り払うような高い声が響く。オズワルドとユスティニアがドアの傍を離れると同時、シュライクは素早く脚を振り抜いた。一度、二度、三度……彼が蹴りを加え続けていると、バキッと派手な音を立てて、ドアが破れた。はぁはぁと荒く息をするシュライクは仲間達の方へ振り向いた。
「これで良いだろ!」
どうだ! と言わんばかりに笑顔を浮かべるシュライク。しかしその足を見て、ユスティニアが小さく悲鳴を上げた。
「シュライク、足が……!」
彼の足からはぼたぼたと鮮血が滴り落ちている。それも当然だろう。恐らく魔法で封印されていた頑丈なドア。それを無理矢理に蹴り破ったのだ。ドアの破片で切れたらしい傷は深い。
治療しなくては、と駆け寄りかけたユスティニアを止めたのは、他でもないシュライクの声だった。
「俺は良いから!」
咆えるように、シュライクは言う。自分の傷など構っている場合ではない、と。真剣そのものの表情と声に、誰も何も言うことが出来なかった。
「行こう、ロレンスが心配だ!」
そう声を上げたシュライクは誰よりも早く部屋を飛び出す。仲間達はその背を慌てて追いかけたのだった。
***
宿屋を出た四人は絶句する。自分たちが見て回った時は賑やかだった村が、まるで元々機能していなかったかのように静まり返っているのだ。すっかり暗くなったこの時刻に明かりが灯った家は一軒もなく、村を照らすのは高い空で煌々と青白い光を撒き散らす月だけ。ロレンスが連れて行かれたはずの診療所にも人影はなく、淡い消毒の匂いがするだけだった。
「クソ、何処行った!?」
村の中に人間の気配はない。自分たちが寝入っていた時間は決して長くはなかった。村人全てが遠くへ逃げおおせたとは到底思えない。……思いたくない。
一体何が起きたのか。村人たちは何処へ行ったのか。ロレンスは無事なのか。リオニスが混乱した思考でもう一度村の中で手がかりを探そうと提案しかけた、その時だった。
「え」
リオニスが見つけたのは足元で光る、小さな何か。それを拾い上げたリオニスは思わず息を呑んだ。
「これ……!」
絶句する彼の手元を仲間達は覗き込む。リオニスの手の中で月明りを受けて鈍く光っているのは、ブローチだった。青に金色の星が散ったような宝石……ラピスラズリが填まったそのブローチは、良く見慣れたもので。
「ユスティがロレンスに渡したブローチ、だよな」
シュライクがユスティニアを見ながら、そう言う。ユスティニアは大きく目を見開いて、それを見つめていた。
「何故、こんな所に……」
震える指先でユスティニアは自分がロレンスに渡したブローチをつまみ上げる。そこにはもはや彼の温もりはなく。思い出すのはそれを受け取った時の彼のはにかんだような笑顔だけ。
ぐ、とそれを握りしめたユスティニアは涙を堪えて、顔を上げた。
「っ、探しましょう! このブローチに残った魔力の残滓で、必ず探してみせます!」
絶対に見つけ出してみせる。そんな強い意志の籠った声。それを聞いて仲間達も表情を引き締め、頷き合ったのだった。
***
ぱちぱちと炎が爆ぜる音が聞こえる。それに混ざって聞こえてくるのは、祈りの言葉。儀式のために必要らしいそれをぼんやりと聞きながら、緑髪の青年は青白い光を落とす月を見上げていた。
村から少し離れた森の奥。ロレンス達が村に来るきっかけになった魔獣に襲われた森の奥にある廃墟の中の、祭壇。腕の傷の治療のために診療所に行くのだと思っていたロレンスはそこに強引に連れてこられていた。
彼の足には硬い足枷が嵌められている。こんな風に何処かに繋がれるのは随分と久しぶりだ、と思う。しかし彼の顔に恐怖は一切ない。いつも通りにぼんやりと穏やかに微笑んでいた。
「こんな状況なのに笑っているぞ」
「不気味だ……」
そんなロレンスを見て、彼をこの場所に繋いだ村人たちはひそひそと言葉を交わす。そんな人々のやりとりは、ロレンスにとって聞き慣れたものだった。
不気味。呪いの子。感情がない。そんな言葉たちは今までも幾度もぶつけられてきたもの。今更何を感じることもない。
「二色の瞳は呪いの証だとも聞いたことがあるぞ」
「否、そういう存在だからこそ、きっと贄には丁度良い。これできっと、私たちの村は救われる。何せこれは、勇者の仲間だ。それも、魔法を使って戦うことが出来ないらしい」
贄。魔王。村を救うため。そんな言葉の断片で、ロレンスは自分が此処に連れてこられた理由も、これからの自分の運命も理解する。
―― なるほど、それがボクの"役目"か……
そう思いながら、ふっと息を吐く。
此処に繋がれながら、村人たちの話に耳を傾けていた。この村はオニキスが近いためか、最近やたらと魔獣に襲われるのだと言う。畑を作っても獣に荒らされ、時には人が喰われる。そんな日々の果てに思いついたのが、遠い昔に禁じられた儀式。贄を捧げれば、この禍が収まるのではないかと言う藁にもすがるような思いつきだった。
挙句、偶然にも訪ねてきた客人は勇者の一行。その中の一人を捧げれば、例え神には届かずとも、元凶である魔王の庇護を受けることはできるのではないか。一度思いついてしまった残酷な手段は、まるで唯一の光のように思えて。
「でも、こんなことをして本当に……世界を救う勇者様のお仲間なのに」
尻込みする村人の声。しかしそれを否定する声がすぐに響く。
「だからこそだろう! きっと、勇者様達もわかってくださる、これはこの村を救うための唯一の手段だ」
恐怖に呑まれた人間の顔は、久しぶりに見た。ロレンスはそう思いながら、ゆっくりと瞬く。
―― ……あぁそうだ、"あの時"もそうだったな。
大きく揺れた馬車。上がる悲鳴と、怒号。自分が先に逃げるのだと叫ぶ、誰かの声。笑う魔族の声。慌てて逃げ出す劇団員と、それを追い詰めて弄ぶ魔族の声。ぐちゃぐちゃとした水音。ロレンスがそんな記憶を辿っていたその時だった。
「ロレンス!」
大きな声に、自分の名を呼ぶ声に、ハッとする。それは村人たちも同じだった。
「な……思ったより早いな」
視線が向くのは祭壇に向かって駆けてくる勇者たちの姿。それを見て村人たちは焦りの表情を浮かべる。
「早く、儀式を!」
「魔王様へ、生贄を……!」
この状況を見られた以上、言い逃れは出来ない。ならば自分たちの目的を完遂しなくては。そんな言葉と同時、ロレンスはぐいと体を引っ張られた。じゃらり、と足枷の鎖が鳴ると同時、首筋に刃を当てられる感触。震える刃で、首筋が僅かに切れたのか、微かな痛みを感じた。
「ふざけたことを!」
怒りの籠ったリオニスの声が響く。その剣幕に、ロレンスを害そうとしている村人たちの手が震える。
「こ、こうするしかないんだ! オニキスから近い、弱いこの村を守るためには……!」
震える足で立ちながら、リオニス達に向き合う村人の一人はそう声を上げて、武器の代わりとしようとしていたらしい農具を構える。他の村人たちも、各々に武器を構える。もう今更引き下がれない。そんな思いで構えられる武器は、微かに震えていた。
「ふざけんな!」
鋭く叫んだシュライクは足を振りかぶる。そのまま、手近の人間を蹴り飛ばそうとする。
「やめて!」
ふわり、と風が吹く。制止の声を上げたのは、その祭壇に繋がれたロレンス本人だった。長い緑髪が緩く揺れる。
「駄目だよ、シュライク。ボクは、平気だから。やめて」
そんな彼の言葉と同時。シュライクはその場に膝をつく。まるで不意に糸を切られた操り人形のように。
「な……?!」
不意に力が抜けた。一体どうして、と混乱した顔をするシュライク。
「やめて、戦わないで。誰かが傷つくのを、見たくない」
そんな彼の言葉と同時、リオニスの手から、村人たちの手から、武器が地面へと転がる。一体何が起きたのかわからず、リオニス達も村人たちも、茫然とした。その中で声を上げたのは、ユスティニアだった。
「っ、ロレンスの魔法です」
自分たちを包む魔力は他でもないロレンスのそれだ。戦うことを阻む魔力。戦意を削ぐそれは彼の言葉に乗って放たれたもの。
「彼の魔力は、他者の力の増強をすることが出来る。それと同時、"相手を弱体化する"こともできるようです」
弱体の魔法を使う機会などなく、今まで知らなかった。それも、言葉で魔力が出力されてしまうことも。ずっと傍に居た仲間のことなのに、とユスティニアは悲し気に顔を歪める。
「……私たちも、これでは普段の半分の力も、使えないな」
オズワルドもそう言って、自身の手元に炎を灯す。暗闇を照らす程度の炎しか灯らず、これでは戦うことなど到底無理だとオズワルドは呟いた。
「ならなんで逃げないんだよ!」
武器を奪えるのなら、戦意を削げるのなら、逃げることが出来ただろう。それなのに、何故。そうリオニスは混乱した声を上げる。
「それ、は」
ユスティニアは口を噤む。そして真っ直ぐにロレンスを見つめた。彼の表情は変わらない。穏やかに微笑んだままだ。そのまま、動こうとしない。
「ロレンスが、逃げるつもりがないから、かと」
その姿を見て、ユスティニアは言う。オズワルドは目を伏せ、リオニスは拳を握る。そして溜息を吐き出しながら、呟いた。
「……それしか、考えられないだろうな」
そんな仲間達の反応に、何より逃げる意思を全く見せないロレンスを見つめ、シュライクはぎりっと唇を噛んだ。そして鋭い視線でロレンスを見つめると、口を開いた。
「何言ってんだよ! 今お前、殺されかかってんだぞ!?」
わかってるのか?! そう叫ぶシュライク。彼の魔力によって今は村人たちも力を奪われているが、その気になれば彼を斬り殺すことが出来るだろう。そんな状況になっていること、そんな状況から逃げ出せる状態にあること。それを理解しているのか、とシュライクは叫ぶ。
そんな彼の言葉にロレンスは困ったように眉を下げて、答えた。
「ん……それが、みんなのためになるなら」
構わないよ。そう言って、ロレンスは微笑んだ。その言葉に、行動に、仲間達は絶句する。
「はぁ?!」
「ずっと、考えていたんだ。ボクは、キミたちの力になれるだろうか、って」
ぽつりと語られるのは、ロレンスの想い。それを聞いて仲間達は息を呑んだ。
「ボクは戦えない。魔法も他者を強化する魔法しか使えない。キミたちの力になるよりも、足手纏いになることの方がきっと多い」
此処に来るきっかけだってそうだった。そう言って、ロレンスはそっと拳を握った。
あの時怪我をしたのは自分だった。けれど、もしかしたら仲間の防御にあたっていたユスティニアが怪我をしていたかもしれない。攻撃の要であるリオニスやシュライク、オズワルドが怪我をしていたかもしれない。そう思うと、胸の奥がきつく締め付けられるような感覚になるのだ、とロレンスは語った。
仲間達から少し離れた祭壇の上、困ったように微笑みながら、ロレンスは言葉を紡ぐ。
「キミたちに嫌われるのが怖いんだ。それに何より……自分の所為で、キミたちが傷つくのが嫌だし、キミたちが、ボクの所為で誰かに悪く言われるのも、嫌だ」
もし此処で、彼らが村人たちを害したとしたら、彼らはどう思われるだろうか。それは、ロレンスがこの場に繋がれながらずっと考えていたことだった。正当防衛と言えばそうだろう。しかし、力なき村人を害したという事実は変わらない。もしかしたら、これからの彼らの旅路に影を差すことになるかもしれない。"取るに足らない楽士"のために、彼らの旅路が阻まれるのは、何としてでも避けたかった。
「……だから、このまま生贄になろうってのか?」
震える声でシュライクは問いかける。
「うん。……大丈夫、怖くないよ。本当なら、ボクはあの馬車の中で死んでいたのだろうから」
此処まで来られただけで幸福だ。そう言ってロレンスは笑った。それを見つめ、シュライクは叫ぶ。
「何で笑ってるんだよ!」
鋭い声。空気を震わせるようなその声で、彼はロレンスに言った。
「何でこんなことするんだって、酷いだろって! 怒れよ!!」
村人たちの行動はどう考えても間違っている。怒れば良い。悲しめば良い。其れなのに、何故受け入れているのか。そうシュライクは叫ぶ。
「怒らないよ」
至極冷静に返ってくる言葉。凪いだ水面のような声で、ロレンスは言った。
「ボクは、ずっと笑ってないといけないから」
そう言って微笑むロレンスの長い緑髪が揺れた。その二色の瞳には確かな悲しみが、寂しさが灯っているのに、それが潤むことはない。
―― そう。ボクは、笑っていなければいけない。そうしないと、ボクは。
そう思いながら、ロレンスはかけがえのない仲間達を見つめていたのだった。




