第二十四章 勇者と魔法使いの記憶(ゆめ)
そっと、目を開ける。無事に魔法が発動した気配は感じたけれど……そう思いながらリオニスはゆっくりと視線を巡らせる。
歩こうとしたが、足が動かない。声を出そうにも声が出ない。これは魔法の失敗なのか、はたまた元々こう言うものなのか……リオニスにはわからなかったが、今はただ、自分とオズワルドのために魔法を使っている仲間を信じるだけだ。そう思いながら、リオニスは顔を上げた。
しんしんと、雪が降りしきっている。どうやら、冬の景色らしい。
深い深い森の奥……降り積もっていく雪が覆い隠そうとしているのは、大きめの籠だった。その中からは、微かな声が聞こえる。弱々しい泣き声。……赤ん坊の声だ。
まるで、記録された映像を見ているようだ。そう思いながら、リオニスは唇を噛む。夢だ、幻影だとわかってはいても、泣いている子供を放置すると言うのは、歯痒い。
声が、弱くなっていく。雪が降るほどの寒さはきっと、赤ん坊には辛過ぎるだろう。誰か、誰か……そう、リオニスは祈った。意味などないと理解していても、祈らずにはいられなかった。
と、そのとき。積もり始めた雪をさくりと踏む音が響いた。
「おや……」
その籠にそっと歩み寄ったのは、何処となく幼さの残る少年だった。彼から感じる魔力の強さに、リオニスは思わず息を呑む。足が動けば、数歩後ずさっていたことだろう、と思うほど。
柔らかく長い雪色の髪に、晴れ渡った冬空のような鮮やかな蒼の瞳。少年はそっと籠の中を覗き込み、呟いた。
「赤ん坊か」
泣いている子供を覗き込み、少年は暫し、考え込むような顔をして。
「……やれやれ」
嘆息。それと同時に、少年は籠の中に手を差し込んだ。
「流石に此処で死なれては寝覚が悪い」
そう言いながら、少年は籠の中の子供を抱き上げる。泣いていた子供はぴたりと泣き止んだ。濃紺の髪に、榛色の瞳……
―― オズだ。
リオニスはそう呟く。当然そんな声も聞こえていない少年はそっと子供の額を撫でた。
「……あぁ、随分と魔力の強い子だな」
触れるだけで伝わってくるほどの魔力。オズワルドが捨てられた理由はその魔力の量と強さだったのだろう。それを察したらしい少年は一つ息を吐き出す。そして、もう一度優しくその子供の額を撫でた。
「まぁ、どうせする事もない生活だ」
子育て、と言うのも楽しいものなのかな。そう呟いた少年は、ふっと小さく笑みを溢したのだった。
***
忘れていた記憶。それが眼前で紡がれていくのは変な感じがする。知りたい、思い出したいと願った記憶。それは失われたピースが少しずつはまっていくように、しっかりと自分の中に埋め込まれていく。
その記憶の一つ一つは、とても穏やかなものだった。師の手でミルクを与えられ、あやされる姿。ゆっくりと歩き始めた自分を見つめる師の優しい瞳。初めて高熱を出した時、一晩中寝ずに看病してくれた時の嬉しさ……全て、全て、忘れていたもの。その一つ一つが、甘く胸を埋めていく。
幼い自分の姿を見ると言うのは何とも気恥ずかしくあったが……それ以上に、忘れてしまっていた師であり親である青年の姿を見られるのが嬉しくて。
気がつけば、オズワルドは"夢の中の自分"と一体化していた。
「フレア・ドラコニス!」
まだ幼さの残る声で、呪文を紡ぐ。噴き出す炎は狙いを過たず、設置していた的を射抜いた。やった、とはしゃいだ声がオズワルドの口から溢れる。
「オズ」
優しい声が聞こえて、オズワルドは顔を上げた。そこに居るのは記憶から消えてしまっていた、大切な師匠。柔らかな白髪が吹き抜ける風に揺れた。
「キサナ! おかえりなさい」
彼の名を呼び、駆け寄る。それを見て蒼の目を細めた彼の師……キサナは、先刻彼が打ち抜いた的を見て、言った。
「大分上達したね。魔法の威力が上がっている」
そう言いながら、キサナはそっとオズワルドの頭を撫でた。オズワルドは嬉しそうに微笑んで、そんな師を見上げる。
「お前は他の者より魔力が強い。使うのも上手いだろう。でも、だからこそ気をつけなければならないよ」
言い聞かせるように言いながら、キサナはそっとオズワルドの濃紺の髪を指先で弄った。不思議そうに首を傾げるオズワルドを見て、キサナは言った。
「強い力はそれだけで恐れられる。傷つけられるかもしれないからね。例え、本人にそのつもりがなくても」
その表情は、声音は、真剣そのもの。それを見つめ、オズワルドは榛色の瞳を瞬かせた。そして、表情を引き締めながら、小さく頷く。
「はい、気をつけます」
何の意味もなく、ただの脅しとしてそんなことを言う彼ではないことを、幼くもオズワルドは理解していた。彼が誰よりも自分を想ってくれていることも良く知っていた。だから、彼は頷く。真剣な顔をして。
そんな弟子を見て、キサナはふっと微笑んだ。
「良い子だ。さぁ、夕食にしよう」
表情と声色を和らげた彼は、ぽんとオズワルドの頭を撫でる。その手を嬉しそうに受け止めたオズワルドは明るく笑った。
「はい!」
***
共に夕食を食べながら、オズワルドはちらりと師の顔を見る。捨て子であったという自分を育ててくれた、親代わりの青年。大人びた……けれども父と子というには歳の近いはずの、師匠。彼を見つめながら、ふと思う。
―― 彼に、家族は居ないのだろうか?
彼の家族というものを、オズワルドは見たことがなかった。誰かがこの家を訪ねてくることもなく、キサナが特定の誰かを訪ねて出掛けていくということもなかった。
もしかして彼も、自分と同じだったのだろうか。それなら、彼を育てたのは一体誰だったのか? そもそも、捨て子だったと言うには彼はあまりに高貴で……
「どうかした? そんなに見つめられると穴が開きそうだ」
くすくす、と笑いながら、キサナが言う。どうやらよほど熱烈に、彼を見つめてしまったらしい。オズワルドは少し身を竦めて、彼への答えを探した後、口を開いた。
「えっと……あの、ずっと気になっていたのですが」
「うん? 何だい、言ってごらん?」
不思議そうに首を傾げるキサナ。長い白髪がさらりと揺れる。その様にさえ何処か神聖さを感じるのは自分の気のせいだろうか。そう思いながら、オズワルドは真っ直ぐに彼を見据え、問いかけた。
「キサナはずっと、一人で居たのですか?」
「ん、そうだな」
口に含んでいたサラダを飲み込んで、キサナは頷く。そんな彼を見つめて、オズワルドは震える声で言葉を続けた。
「ご家族、は?」
その言葉にキサナは一瞬驚いたように目を丸くした。その反応を見てやはり地雷だったか、と撤回しようとするオズワルドを見て彼は一つ息を吐き、肩を竦めた。
「居るよ。ただ、あまりに窮屈だから、逃げてきただけさ」
「逃げて……?」
彼の言葉に、オズワルドは不思議そうな顔をする。キサナはフォークで皿の上の野菜をつつきながら、答えた。
「お前も知っているだろうけれど、私は他人よりずっと魔力が強かった。生まれが少しばかり、特殊でね。家族は期待と恐怖を同時に抱いた。君のように捨ててしまおうとはせず、上手に使おうとしたのさ」
そう言いながら彼はぐさり、とフォークでリーフを突き刺す。ぴくりと体を強張らせるオズワルドを蒼の瞳で見据え、キサナは緩く首を傾げた。
「覚えているかい? 私の名前を」
それを聞いてオズワルドはぱちぱちと瞬く。そして、眼前の師の名前を紡いだ。
「キサナ。キサナ・ヴィオレトイド……」
は、と息を呑む。ファーストネームはともかく、ファミリーネームは、ありきたりなものではない。そう、その名は……――
「もしかして」
息を呑んだ彼を見て、キサナはくつりと喉の奥で笑う。
「国史の勉強もしっかりしているようだね。偉い偉い」
にこりと微笑んだ彼は指をぱちりと鳴らす。その指先に灯る炎に映るのは、オズワルドも良く知った姿だった。この国で、この人物を知らない人間は居ないという人物。
「アフェクト・ヴィオレトイド……この国を作った英雄は、私の先祖にあたるらしい。
それ故か、やたら強い力を持って生まれてしまった私は、家の中でもすっかり腫れ物扱い。半ば無理矢理、碧落の魔法使いとして国に登録された。国のため、街のため、と言われてね。
そんな窮屈な家にいるのがあまりに厭で、生きるのに困らない程度の知識や技能が身についた頃、家を出たのさ」
彼は、建国の英雄の子孫。家は相当大きいはずだ。道理で彼の振る舞いからは何処と無く気品を感じるのだとオズワルドは幼心に納得した。
建国の英雄の血を引く彼は、強大な力を持って生まれた。その力を恐れると同時、利用することを彼の家の人間は思いついたらしかった。
幼い頃から"国のために"と育てられた。"建国の英雄の末裔として"と。それは彼にとって酷く窮屈で、面倒で……そんな在り方はしたくないと、彼は家を出た。つけられた枷を外すことは出来ないが、これ以上の枷を付けられることはごめんだと思っていた。
オズワルドはそんな師の言葉に、視線を揺らす。彼の言葉に、返す言葉を上手に見つけられなくて。
そんな彼の様子を見て、キサナはすまなそうに笑って、言った。
「ごめんごめん、気を遣う話をさせたね。まぁともあれ、言いたいことは簡単で……気にしなくて良い、ってことだよ。家族が居ないのも、一人で居たことも、大した問題じゃあない」
そういった彼は一度フォークを置いた。そして身を乗り出して、ぽんぽんとオズワルドの頭を撫でる。
「強い魔法使いというのは往々にしてそういうものだってことはわかっていたからな」
肩を竦めながらそう言って、彼は笑う。全く気にしていない、と言うように。
しかしその瞳をじっと見つめたオズワルドはぽつり、と呟くように言った。
「……寂しいですね」
オズワルドは知っている。眼前のこの青年が、存外人好きであることを。厭われるより頼られる方が好きで、面倒だの厄介だなと言いながら周囲の街の問題を解決していることも知っていた。だから……そんな彼が孤独に生きることは寂しいだろう、と彼は思ったのだ。
それを聞いて、キサナは大きく目を見開いた。それから、ふっと笑みを零して、もう一度、今度は優しくオズワルドの頭を撫でた。
「そんな顔をするもんじゃあないよ。今、私は一人じゃない、そうだろう?」
君が居るんだから。そう言って目を細めるキサナは無理をしているという風ではなく。
―― ああ、自分が彼の支えになれていると言うなら……
これほどまでに、幸福なことはない。オズワルドは少し、表情を緩めた。
「……はい」
こくり、と頷く彼を見て、キサナは目を微笑む。そして椅子に座り直すと、軽くウインクをして見せて、言った。
「さぁ、食事はしっかり摂らないと。明日は新しい魔法を教えるよ」
強くなるには規則正しい生活を、がキサナの信条だ。それはオズワルドもよく知っている。
「はい!」
オズワルドは無邪気に笑って、頷いた。穏やかな木漏れ日の中のような暖かい日々は、とても幸福だった。
***
再生される記憶は、どれも幸福なものだった。
優しく頼もしい師と素直で熱心な弟子。二人が寄り添い合い、助け合いながら生きる姿は微笑ましい。リオニスはその様子を見守り続けながら、思う。
どうしてこの師匠は弟子の記憶から自分を消してしまったのだろう? こんなにも、幸福な日々を過ごしてきたのに。
そんなことを考えていた時だった。
「キサナ・ヴィオレトイドだな?」
二人が暮らしている森の奥の家に訪ねてきたのは一人の男だった。魔法管理局の札を首から下げた男は視線を家の中に巡らせる。昼食の支度をしていたキサナはそんな無礼な男の様子に眉を寄せつつ、問いかけた。
「そうですが、何か?」
どうせ自分になんらかの依頼だろう。いつものことだ、とキサナは思っている風だった。
しかし男は口を開き、言葉を紡ぐ。
「お前の弟子だと言うオズワルド・スチュアートは何処にいる?」
その言葉にキサナは怪訝そうな顔をした。
「オズ? 彼は今買い出しに行っていますが……彼が何か?」
そう。今オズワルドは不在。一人、街の市場まで買い出しに出ているのだ。そんな彼に中央都市の使いが何の用事なのか、とキサナは眉を寄せる。
「彼に命令が下った」
そう言いながら、男は鞄から丸めた羊皮紙を取り出した。それを広げて見せながら、男はキサナに言う。
「碧落の魔法使いとなり、中央都市アレキシアの警備につくことを命じる」
大きく見開かれる蒼の瞳。それを険しく細めたキサナは、吐き捨てるように呟いた。
「は……冗談でしょう? 彼はまだ15だ。物の分別もない子どもを碧落の魔法使いに? そんなに管理局の人材は不足してるのか?」
皮肉めいた声音で彼は言う。碧落の魔法使い……中央都市、魔法管理局に登録され、白と海色のマントを賜った魔法使いの異名。それになることができるのは"名誉なこと"とされている。しかし、オズワルドのような子供がなることなど、そうそうないはずで。幼く、分別もない魔法使いを登用するなどどうかしている、とキサナは声を上げた。
そんな彼の怒りを他所に、男は言葉を続けた。
「まだ幼いからこそだ」
「……は?」
キサナの喉から低い声が出る。しかしそれすら気にかかる様子なく、男は言った。
「幼いうちから適切に魔法を使えるように教育、指導する。強い力を持つ魔法使いが幸福に過ごすために必要なことだ」
さもそれが当然であるかのように、男は言う。適切に魔法を使う。それは国のために。否、国のためという名目で、一部の人間のためにだということをキサナは理解していた。
魔法管理局、とはよく言ったものだ。体良く強い力を持つ魔法使いを契約に縛り、自分たちの都合が良いように動かし、管理するための組織なのだから。
「……帰ってくれ」
かたり、と料理のために握っていたナイフを置いて、キサナは言う。獲物を狙う猛禽類のように鋭い目で使者を見据えながらキサナはぐっと拳を握る。
「何?」
怪訝そうに首を傾げる使者をキッと睨みつけ、キサナは叫んだ。
「この指輪に縛られるのは私一人で十分だと言ったんだ……ッ」
言葉尻は苦しげに歪む。彼を戒める、服従の指輪。碧落の魔法使いが権威の象徴であるマントと共に与えられるもの。国の意志に従わない魔法使いを痛め付け、服従させる魔法の指輪は、キサナの言った通り、枷以外の何物でもなかった。
国の従順な下僕でいるのなら、確かに眼前の使者が言った通りだろう。幼い内から訓練され、国のためにあれと躾けられ、それに従い続ける人生。国に守られ、崇められ、利用される生き方は、ある意味では幸福なのかもしれない。
しかし、大切な弟子にそんな生き方をさせたいと思うキサナではない。碧落の魔法使いが如何に不自由で、如何に誤ったものであるかを知っているのだから、尚更。
指輪の苦痛に喘ぐキサナを一瞥し、使者は口の端で笑った。
「愚かなことを。これは打診などではない、命令だ」
貴様も理解しているだろうに、と憐れむように使者の男は言った。苦しげに呻いているキサナを見下ろしながら、彼は言った。
「ヴィオレトイドといえば、建国の英雄の家系。お前はその力を強く受け継いでいると聞いた。その教えを受けた弟子ならば、きっと国にとって有益な存在になるだろう」
キサナはその言葉に一層顔を歪めた。苦痛のためにではない。怒りと、哀しみのためにだ。
彼が、彼らが欲しいのは、オズワルドという一人の優秀な魔法使いではない。強い力を持ち、自分たちの都合が良いように教育できる可能性のある幼い魔法使いなのだ。彼を個として見ることなど、きっと一生ない。それがキサナにはよくわかっていて、だからこそ許せなかった。
「は……っ、酷い目に遭うとわかっていて、可愛い弟子を差し出す師が、どこにいる……っぐ、ぁ……!」
止まない苦痛に、キサナは膝を折る。強く胸を押さえ、浅く喘ぐ彼を、使者の男は冷たく見下ろしていた。
「早く頷け。そうすれば楽になるだろう。お前の弟子である少年は、お前と同じ碧落の魔法使いになるべきだ」
ぎりっと、キサナは唇を噛みしめる。口内には苦い鉄の味が広がった。それでも、口は堅く引き結び、使者の言葉には首を振った。
どれほど苦しくても、どれほど辛くても、使者の言葉に頷く訳にはいかなかった。彼は自由な魔法使いだ。首輪を付けられた憐れな犬になどさせるものか。そんな想いで、キサナは必死に指輪の能力による苦痛に耐えていた。
……その時だった。
「キサナ?!」
響いたのは、叫び声。ばさりと何かが落ちる音。それが、帰ってきた愛弟子が買い物の荷物を落とした音だと気づくのに、少し時間がかかった。
心配そうに駆け寄ってきたオズワルドは榛の瞳を大きく見開いて、キサナに触れる。
「オズ、向こうに行っていろ、お前は……く、ぅ」
「キサナ、どうしたのですか? 苦しいのですか?」
眉を下げ、師の背を摩りながら、オズワルドは声をかける。
「お前がオズワルドか」
歩み寄ってきた使者の男をオズワルドは見上げる。キサナが掠れた声で叫んだ。
「オズに、近づくな……ッ」
手負いの獣がそれでも我が子を守ろうとするように、キサナは咆える。
「まだ話せるか、大人しくしていれば良いものを」
逆らえば逆らうほど、苦痛は大きくなるだろうに。男は憐れむようにそう言う。キサナが苦しげに顔を歪め、喘ぐ。その姿を見て、オズワルドの瞳孔がすぅと細くなった。
「お前が、やったのか」
ぞっとするほど、冷たい声。はっと、キサナは息を呑む。苦痛も怒りも忘れて、彼は愛弟子を見る。
いつも無邪気に笑っていた優しい弟子は、見たことのない顔をしていた。まるで氷のような、冷ややかな表情。その瞳の奥に灯るのは、決して消すことのできない憎悪。
「っ、オズ、駄目だ……!」
必死に、キサナは叫ぶ。しかしその声が届くより早く、彼から放たれた炎の刃が、使者の男を斬り裂いていた。
***
耳に痛いほどの沈黙。消え残った炎が、ぱちぱちと小さく爆ぜる音だけが、空間を震わせる。
「っ、……ぁ、ああ」
ふらふらとオズワルドは後退り、その場にへたり込む。
床に倒れ伏し、ぴくりともしない男が事切れているのは火を見るより明らかだった。流れ出た真紅がじわじわと床を侵していく。
そっと息を吐き出したキサナは、そっと弟子の名を呼んだ。
「オズ」
その声にびくりと肩を跳ねさせたオズワルドは悲鳴じみた声を上げた。
「違う、私は、ただ……っ」
先刻までの鋭さは鳴りを潜め、ただ怯え切った子供はかたかたと震えながら、師を見上げる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、キサナ……っ」
「わかっているよ、お前は私を助けようとしてくれただけだ」
落ち着かせるようにキサナはそっと微笑んでみせた。服従の指輪は先刻のオズワルドの魔力で壊れてしまったようで、戒めのように与えられていた痛みは、もうなくなっている。やはりこの弟子の魔力は自分以上に強いものなのだな、と改めて感じながら、キサナは彼に言う。
「全部、わかっているとも。だってお前は、私の愛弟子だ」
お前のことはなんでも知っているとも。そう言いながら、キサナはゆっくりと、オズワルドに歩み寄った。肩を揺らし、逃げようとする彼を見つめたまま、宥めるように彼は言う。
「大丈夫。私が全て、なんとかする。だから……泣かないで。心配いらない」
いつも通りの、彼の声。それに従っていれば本当に全てが大丈夫だと思える、それこそ魔法のような声だ。
「キサナ……」
「此方へおいで」
その言葉を聞いて、オズワルドはキサナにゆっくりと歩み寄った。怯え切った弟子の顔を見て、キサナは優しく微笑んで見せる。いつも通りのその表情に、オズワルドの表情も少しだけ、緩んだ。
そんな彼の大きくなった、けれどもまだ華奢な体を、キサナはそっと抱きしめた。唐突な師の行動に、オズワルドは榛色の瞳を大きく見開く。
「今日まで、楽しかったよ」
柔らかい声でそう言いながらキサナはさらさらとしたオズワルドの髪を指先で漉いた。
すっかり長く伸びた、濃紺の髪。幼い頃は風呂から上がった彼の髪をよく乾かしてやっていた。この癖のない艶やかな髪を一度乾かさずに寝かせて風邪を引かせてしまったのがキサナにとって子育ての失敗の一つである。
今はその髪を自分で手入れして、結ぶことさえできる。嗚呼、大きくなったのだ。きっと、これからも彼は……そう思いながら、彼は目を細めた。
彼の声音に滲む寂しさに気付いて、オズワルドは顔を上げる。
「何を、キサナ……?」
まるで、そう……別れの、挨拶のような。
しかしそれを指摘させる隙を与えず、キサナは言葉を続けた。
「私はお前を弟子に出来たことを誇りに思うよ。どうかお前は、私のように鎖に繋がれた生き方をするのではなく……」
―― どうか。
そう願う声と同時、感じたのは強い、師の魔力。
優しく突き放される感覚と、落下するような浮遊感。その感覚は、良く知っている。師と一緒に遠くに出かけるときしばしば彼が使っていた魔法。空間を、移動する魔法の感覚だ。
そして、自分を包み込む眩い白い光。それは……一度だけ、師が教えてくれた魔法。滅多なことでは使ってはいけないと念を押された、他者の記憶を消し去る魔法だ。あの時は朝食に何を食べたか忘れさせられた程度だったが……今彼がその魔法を使う理由は、厭でも推測がついてしまって。
師の意図を理解したときには、全てが終わっていた。
「っ、待っ……」
必死に伸ばした手は、届かない。
眩し過ぎる白い光の中で見えたのは、泣きそうな顔で穏やかに微笑む、大好きな師の顔だった。
***
オズワルドが見るはずのなかった、続き。それは、容赦なく再生される。
ノックもなく開くドア。バタバタと駆け込んでくる、揃いのマントを身につけた魔法管理局の人間たち。彼らが目にしたのは、床に倒れ伏した仲間の姿と、それをまるで気にかける様子もなく、優雅にティーカップを傾けている最強の魔法使いの姿だった。
恐らく、この場に来ているはずの魔法使いの魔力が途切れたために異変を検知してやってきたのだろう。
「キサナ・ヴィオレトイド!」
怒りの篭った声で、リーダーらしき男が魔法使いの名を呼ぶ。ちら、と視線をそちらへ投げたキサナはそっと、蒼い瞳を細めた。
「思ったより遅かったじゃあないか」
優雅に微笑んでみせたキサナは流れるような所作でカップを置く。警戒した様子の管理局の人間たちを見て、彼は軽く笑った。
「とっくに終わっているんだよ、全てね」
そう言いながら、キサナは靴先で無礼な来訪者の骸を蹴った。そんなことをすれば、当然服従の指輪の効力が発動するはず。しかし。
「な……」
「紅石の指輪の力が効いていない?!」
キサナは苦しむことなく、笑っている。驚き、動揺する彼らの姿を見て、キサナは声を立てて笑った。
「はははっ、こんな物で私を縛れるとでも?」
ひらひら、と手を振ってみせたキサナは妖艶に微笑む。人智を超えた存在のようなその圧倒的な存在感に、彼を捕らえにきたはずの人間たちは慄いた。
「この……ッ」
「叛逆の魔法使いを捕らえろ!」
鋭い声をあげ、魔法使いたちはキサナを捕らえにかかる。キサナがその気になれば、簡単に彼らを殺すこともできた。しかしそれでは意味がない。自分が逃げたのでは、何も意味がないのだ。
キサナの腕に、足に、魔法を抑制する枷が取り付けられる。そのまま無理矢理に押し倒され、拘束されても、キサナは笑っていた。笑ったまま、口を開く。
「狂ったこの都市に呪いあれ!」
朗々と、歌い上げるようにキサナは叫ぶ。空で、雷鳴が轟いた。
キサナが得意とする天候を操作する魔法。彼の感情に、言葉に呼応するかのように、雷の音が響き渡る。
抑制されても尚、この魔力。いっそこの場で殺した方が、否、しかし叛逆の魔法使いは見せしめとして……そんなやりとりをしている魔法使いたちを見つめ、キサナは問いかけた。
「あぁ、ところで……この使者は一体何をしに来たのだったかな?」
骸として転がる使者にちらと視線を向けて、彼は問う。その問いに、魔法使いたちは怪訝そうな顔をした。
「それは貴様への任務伝達のために」
それ以外に何もあるまい。そう言いたげな彼らの表情。それを見たキサナは満足げに目を細めた。
嗚呼、上手くいった。これで、可愛い可愛い弟子は、守られる。使者殺しの咎を負うことはない。使者を殺したのは自分だ。そして、そんな自分に"弟子などいない"。
……そう。キサナはオズワルドを"追い出した"後、記憶の混乱の魔法を使ったのだ。普通の人間では到底扱えない上級魔法を使って、弟子を知る人間たちから彼の記憶を抹消し、使者殺しの罪を自ら背負ったのである。
全ては、かけがえのない家族を守るため。大切な弟子を、守り抜くため。
「っ、ふ、あはははは!」
高らかに、キサナの笑い声が響き渡る。捕らえられ、自由を奪われても尚笑う彼は、きっと他の魔法使いたちには酷く不気味に映ったことだろう。しかし、笑わずにはいられなかった。
―― キサナにとってこの結末は、この結末こそが、完全な勝利なのだから。
***
場面が、切り替わる。
街の中心の、広場。そこに設置された、処刑台。そこに繋がれているのは、最強の魔法使いと呼ばれていた、美しい男性。雪のように真白の髪と、晴れ渡った空のような深い蒼の瞳の魔法使いは微笑んでいた。
魔法の言葉を紡げないように口枷をはめられ、手足も魔力を遮断する素材の枷で縛られた、憐れで無様な姿。それでも尚凛とした姿は、裁かれる罪人というにはあまりに美しかった。
静かな声が、脳内に響くのを、その姿を見つめている夢の傍観者……リオニスは感じる。それは他でもない大罪人として処刑される魔法使い、キサナの声だった。
お前は、無事だろうか? 突然一人にしてしまって、本当にすまないね。これでは、お前を棄てた親と同じになってしまうなあ。
お前の中から私の存在が消えることが寂しくないと言えば嘘になるけれど、それでお前を守れると言うのなら私はそれで構わない。
どうか、私を忘れて生きて。
どうか、自由に生きて。
……どうか、幸せになってほしい。
それが、師匠の最期の願いだ。
届くはずのない、願い事。
ぶつり、と彼の口を戒めていた枷が外れる。魔法の作用ではない、本当の偶然。焦った顔をして、今すぐに火を放てと叫ぶ魔法管理局の人間を見て、キサナは目を細めた。
愚かな彼らを呪う必要なんてない。そんな時間もない。そんなことをする暇があるのなら、紡ぐべきは……
「さようなら、私のかけがえのない愛弟子」
誰にも聞こえない声で優しく呟いた最強の魔法使いは、穏やかに笑っていた。何処かで自由に生きる、かけがえのない弟子を想いながら。その身が炎に包まれる瞬間も、ずっと。




