第13話 ウォーナイツ、死す! 後編
息を切らし、ホーリィは洞窟の奥へと進む。やがて彼女はドーム状の広大な空間へと躍り出た。
「ここは……」
地下水脈が荒々しく流れるそこは、天井を、壁面を、無数の蜘蛛の巣が覆っていた。
「鋼糸蜘蛛……」
漆黒の体を持つ巨大な蜘蛛が何匹も壁を這いずり回っている。彼らは敏感に侵入者を察知し、闇の中で赤く光る複眼をホーリィへと一斉に向けた。
「ほら、僕らの助けが必要だろう?」
聞こえてきたのはウォードの声。余裕たっぷりに剣をちらつかせ、ホーリィの傍に立った。
「協力出来るかい? ま、逃げようとしたら背後から斬り付けるだけだけど」
「くっ……」
迷っている時間はない。ウォードとノリス、そして大量のアラクネ。単身切り抜けるのは不可能だ。
ホーリィは魔杖を握り締め、覚悟を決めた。
「どれを飲むよ? ウォード」
グレンから奪ったバッグに手を突っ込み、ビンを取り出しては眺めているノリス。種類はたくさんあるものの、それぞれの効能がわからない。
「さぁ、僕は薬には詳しくないから」
「二人とも、来ますよ!」
遂に、アラクネ達が動き出した。地上へと数匹が降り立ち、ウォーナイツの3人に向かって走り寄ってくる。同時に壁面伝いで別の個体も迫る。
「あーもうどれでもいいや。適当に飲めば効くだろ。ほらよ」
ノリスはビンを二本、ウォードへ投げた。そして自身も、効果不明の薬を一度に二本、一気飲みする。
「くーっ、相変わらずマズいな、何だよこりゃあ」
「だが、体が熱くなってきたね。僕のは肉体強化系の薬、かな」
防御魔法を詠唱しようとしたホーリィを肩で突き飛ばし、ウォードが前へ。剣の横薙ぎ。眼前に迫る一体を難なく両断する。
「いいね、剣技も冴えてる。楽しくなってきたよ!」
目の前で、次々とアラクネを切り刻んでゆくウォード。唖然としてそれを見詰めるホーリィだったが、すぐに彼の様子がおかしいことに気付く。体から煙が、白煙が上がり始めていた。
「生命力を無理やり引き出している? ウォードさん、戦ってはダメです!」
「うるさいね。僕は今、最高にいい気分なんだ。黙って見ていたまえ!」
聞く耳を持たず、奥へ奥へとアラクネを斬りながら進むウォード。そしてホーリィの背後では、大斧を散々に振り回してノリスが高笑いしていた。
「クハハッ! なんだ、ザコばっかりじゃねぇか! こんな蜘蛛、何匹いたって俺の敵じゃねぇよ!」
目が、充血していた。隆起した腕の筋肉や血管からの出血。
「薬の副作用? 飲み合わせの問題!?」
ホーリィでは判断がつかない。そしてウォードもノリスも躁状態にあって冷静な判断力を失っている。
「その薬は、効果が強すぎます! 内臓や精神に回復不可能なダメージを被りますよ! 今すぐ戦いを中断して、退却しましょう!」
戦いに夢中の二人には声が届かない。
肉体強化系の薬は往々にして精神に何らかの変調を起こさせる副作用を持つ。だから薬法師はその用法容量についてしっかりとアドバイスし、薬の管理や改良を怠らない。
グレンがこの場にいなければ、彼の作った薬を正しく使用することは無理だ。何も考えずに飲んだせいで、ウォードとノリスは狂戦士状態に陥ってしまった。
ホーリィは、二人を助けるのを諦めた。せめて自分だけでもこの場から逃げなくては。あの状態のウォードとノリスに近づけば、自分も斬られるかもしれない。
そっと、通路の方へ向かおうとする。が、頭上からアラクネが降ってきて道を塞いだ。
「きゃっ!」
驚き尻餅をついた拍子に、杖が地面に転がる。手を伸ばす寸前、アラクネの脚が杖を遠くへ弾き飛ばす。
「そんなっ!」
「ぐわあっ!」
悲鳴。
振り返るとそこに、
「ホ、ホーリィ、顔が熱いんだけど……これ、どうなってるんだい?」
アラクネの口から吐き出された溶解液を浴びたウォードが立っていた。右半身から煙が上がっている。それは薬の作用によるものではなく、今まさに肉体が溶解しようとしているから。
端正な顔の右半分が見るも無残に溶け落ちて骨が露出していた。
「た、助けてよ……」
ザン!
ウォードの体が、腰の所から上下に両断される。吹っ飛んだ上半身は無様に地に落ちた。
脚が鋭い刃物のような形状になったアラクネが分断したウォードの下半身を口にくわえ、ぞぶり、ぞぶりと血肉を啜る。
「いや……ウォード!」
「あ、あれ……僕はどうなって……ホーリィ、ホーリィ、助けておくれ」
弱弱しくウォードが手を伸ばした。彼の頭部は上から降ってきたアラクネの脚に叩き潰され、脳漿を撒き散らし、粉々になった。
「あぁ……」
嘆きの声を上げる暇すらない。突如、背後のアラクネの大顎がホーリィを捕まえ、振り回した。彼女は壁に背中から叩き付けられる。そこへ複数のアラクネが糸を吹き付ける。ホーリィの両腕、両足、そして胴体が壁面に磔にされた。
「ダメっ、離して!」
身動きが取れない。じりじりと距離を詰めてくるアラクネ達。
「ぎゃああっ!」
ノリスの絶叫が木霊する。彼は地面に押し倒され、生きたままハラワタを引きずり出されていた。溢れ出る血のにおいに誘われ、次々とノリスにアラクネが殺到する。すぐに、悲鳴も途絶えて消えた。
「どうして……どうしてこんなことに」
ウォードとノリスは鋼糸蜘蛛を侮っていた。グレンの薬さえあれば楽勝の相手だと。でも違った。薬は、そんなに簡単に扱えるものではない。
強烈すぎる肉体強化薬は彼らを勇敢で冷静な冒険者から単なる野蛮人へと変えてしまった。たとえ高い技術や経験があったとしても、頭を薬に焼かれてしまえば意味がない。
アラクネが、ホーリィに顔を近づける。
「やだ、ゆるして……」
そんな懇願など、聞き入れるはずもない。彼らはただ、旨そうな肉を喰らうだけ。獲物がどういう感情を持って、何を言っているかなんて理解する知能はない。
脚がゆっくりとホーリィの服の襟首にかかる。一気に、真下へと生地が引き裂かれた。艶めかしい体が露わになる。
アラクネの真っ赤な複眼が、ホーリィの顔を正面に見据える。鋏角が開く。
(私、死ぬんだ……これからこいつらに食べられて)
絶望だけが、ホーリィを支配した。
股の間を、温かな液体が濡らしていった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……グレン」
あの時、二人を止めておけば。命を懸けてでも、グレンのバッグを守り抜いておけば。
何かが変わったのだろうか。
後悔が胸に去来する。
形ある殺意が、ホーリィを捉える。
「ゆるして、ね」
ホーリィは言った。
次の瞬間、アラクネの鋭い大顎がホーリィの頭部を挟み潰さんと迫り……
動きを、止めた。
「……え?」
彼女の目の前でアラクネの体に無数の細かなヒビが入っていき、やがてすぐに、この巨大な蜘蛛の魔物は灰のように分解されて塵と化した。
さらさらと灰塵が舞うその向こう、漆黒の洞窟の中に一つの影。
「ったく、こんな事になってるんじゃないかと思ったよ」
飄々としたその声。
「嘘……どうして、あなたがここに?」
ホーリィが目にしているのは、この場にはいるはずのない人物の姿だった。ノリスによって酔い潰され、しばらくは身動きすら出来ないであろうはずの。
「ウォードとノリスは、やはり薬で自滅か。バカな奴らだよ。でもまぁ」
その手のぬくもりが、ホーリィの頬に触れる。
「君だけでも助けられて良かったよ」
「あぁ……あぁ……」
嗚咽が喉を鳴らす。言葉は詰まって出てこない。魔力を点したホーリィの瞳は、その赤髪を見据えていた。その太々しいまでに自信に満ちた表情を、凛とした佇まいを、そして頬から離れた右手の指先が天高く掲げられるのを、見た。
「あなたは一体……何者なんです!?」
「そうか、ちゃんとした自己紹介はまだだたっけな。俺は……」
アラクネ達が新たな侵入者目掛けて一斉に糸を射出した。方々から迫り来る、鋼の強度と絹のしなやかさを併せ持つ蜘蛛糸。体を絡め取られれば人間一人など簡単に身動き不能となる。
赤髪は燃えるように輝き出し、指先から炎にも似た魔力の迸りが起こる。
「元・ヤンク王国主任宮廷薬法師……」
大気中に拡散した彼の魔力に触れた瞬間、膨大な量の蜘蛛糸は一斉に分解され、眩いばかりの七色の輝きへと変換された。洞窟内が爆発的な光に包まれ、アラクネを怯ませる!
ステンドグラスよりも鮮やかな光線に照らし出され、彼は己のかつての役職とその名を告げた。
「グレン・レオンハートだよ」
「宮廷……薬法師様!?」
そう呼ばれて彼は少しはにかんだ笑みを見せた。
「“様”はつけなくていい。もう追放された身だしね。疲れただろうし、そこでゆっくり見物しててくれ。滅多に見られるもんじゃないぜ、この俺の真の実力なんて」
ホーリィへ背中を向け、グレン・レオンハートは両手をゆるく持ち上げ、手招きした。
「さぁ、かかってこいよレア素材共。次はこの俺が相手だ」
体勢を立て直したアラクネが次々と、強大な魔力を持つ薬法師目掛けて殺到する。
並の冒険者ならその絶望的な戦力差に心を折られるであろう状況下にあって、グレンは唇を吊り上げて不敵に笑う。
「一攫千金、頂きます!」
戦いが、始まった。