第五話 簡単な仕事-3
ビギナー……中級者の目の敵。
「いてえ!」
大声でムライはうめいた。この日だけでもう三十回ほど彼はうめいている。
低木の枝に足をからませ、ごろごろと坂を転がり落ちたのだった。自然の悪意を彼は感じたが、じっさいのところどうなのかというと、たしかに悪意はあったのである。というのも、森の中でさんざんムライは皮膚をひっかく枝々に文句をたれていたから。
まだ視界に星がめぐっているような感じ。ムライはそのなかに山羊座を見出した。ヤギか。彼はヤギがきらいだった。とはいえ、彼は世の中の九割のものをきらっていたのだが。
まあそんな余計なことばかり考えていたからだろう。彼は目の前にうずくまるクリーチャーに気づかなかった。
「グルル……」
まあなんと典型的な肉食獣の唸り声。胸の内でとっさにムライはそう思うも、よくよく考えてみると、すぐそばでそんなものを耳にしたこの状況、お世辞にも好ましいとはいえないのであった。
「すー……」
この風船から空気が抜けるような間抜けな音「すー……」は、彼がひどく緊張した際に無意識で行う呼吸法である。その効能はよくわかっていない。というのも、本人自身これがいったいなんの役に立つのかがわからないからだ。
頭上に枝が張り巡らされているせいで、陽の光もあまり差し込まず、あたりは薄暗かった。薄暗いなかのさらに薄暗がりで、しかもそのクリーチャーは毛むくじゃらだったから、いまだ正体をつかめない。
これはそっと逃げたほうがいいのかな、とムライは思った。それともさっさと逃げたほうがいいのか? どちらもかなり魅力的な選択肢だ。悩むならこういう岐路に立たされたいと常日頃から彼は願っていた。
「グルル……」
また唸った。気のせいだろうか、これはあまり威嚇の雰囲気をもたない唸り声だとムライは思う。クリーチャーがする威嚇は他の動物やら昆虫やらのそれとは比べものにならないくらい強力で、訓練を積んだ兵士やら冒険者やらでなくてはとうてい耐えられぬ。耐えられぬっていうのはつまり、気を失ってしまうということだ。だが目の前にいるやつ、それの唸り声は赤ん坊だってきょとんとするくらいの……
じーっと目を凝らしていたので、しだいにムライは暗闇に慣れてきた。そこでようやっと、このクリーチャーの正体を確認したのだった。
「……ウルフ?」
ウルフというのは狼のようなクリーチャーで、狼ではない。なにがどう狼と違うのか、その差異についてはだいたい千人くらいの怪物学者が議論を戦わせているところで、いまのところは百勝九十七敗。なにをもって勝利とするか敗北するのかについては、その基準が議論のたびに変動するので、定かでなし。
まあとにかく、ふつうの狼よりは体格が大きいというくらいの認識を持っていれば問題はなかった。
いまムライの目の前にうずくまっているウルフは、だいぶ前からそうしているようであった。たいていの動物は常に行動しているもので、自分のすみかで場合によると一日中うずくまっているのは、人間くらいのものだからである。
なんにせよ、動けないのならよし。ムライはそっと立ち上がった。もちろん彼の(五話目になってすらいまだ明らかでない)力をもってすれば、ウルフ一体くらい問題ではなかった。そもそも大したクリーチャーではないのである。もっとも動物に近いクリーチャーと呼ばれているくらいだ。……するとまた動物とクリーチャーの区別について論戦が開始されるが。
「ねえ、死んだあ!?」
唐突にハームフルの大声がひびいた。その声にムライはウルフよりぎょっとさせられた。
「死んだなら返事してよお」
「ハームフルさん、死んでたら返事はできませんよ」
「でもほら、あいつ死んでも動きそうな雰囲気があるし」
「どういう雰囲気ですかそれ」
無意味な会話に反応したのか――いや正直そんなことはぜんぜんなく、ただムライ以外の生物の声に反応しただけであるが――うずくまっているウルフがわずかに身じろぎした。
ちょ、ちょ。なにをやっておるのか。
ムライはいますぐ出ていってハームフルの声を止めついでに息の根も止めてやりたかったが、ウルフの動きからは目を離せない。そしてウルフも、ムライから目を離さないのであった。
ん? と、そのクリーチャーの視線にムライはなにかを感じ取った。下等クリーチャーとの会話は、高等クリーチャーたるドラゴンへのそれとはちがってまったく不可能なムライだったが、このウルフはなにごとかをおれに伝えようとしているのか? と考えてみた。そしてそれがなんにせよ、ウルフは動けず言葉もしゃべれない以上、こちらから近づいてそれを確かめてみるしか方法はないのであった。
そろそろと近づくムライ。踏みしめられた葉の音。差し込む木漏れ日。小鳥の声。風にその枝を研ぐ木。ハームフルのバカでかい声。ただ最後の一ファクターにより、このシチュエーションは緊張感をまったく欠いていた。
それでも慎重の演技をやり通してみせ、ついにムライはウルフに直接触れ得るほどの距離にまで至った。そしてすぐウルフの視線の意味、ひいてはずっとこのクリーチャーがうずくまっていた理由を発見した。
「ケガしてんのか」
ムライは目の前の魔物の足を見、だれともなしにつぶやいた。人語を解せるはずもないのだが、ウルフからはなんとなく同意を伝えようとしているかのような息遣いを感じ取れた。
矢傷であった。おそらく下手くそな狩人か、盗賊か、レンジャーか、まあその他弓を扱う職業のビギナーのしわざであろう。ウルフは初心者向けとされるのだ。
下手くそとはいえ矢になんらかの効果を付与するという知恵はあったようで、その証拠に傷からはまだ血が滴っていた……この世界にはやたらと毒になる植物が多いことを、ムライは思い出した。
それならハームフルに聞いてみるのがいいだろうか……
とはいえ、彼に治せぬ傷でもなかった。
「ほら」
ともう一度ムライが口を開いたとき、すでに傷は癒えていた。跡形もない!
ウルフは目を見張った(ように見えた)。試すように、ぎくしゃくと足を動かしてみる――軽快。なんの支障もないようだ。その快癒には戸惑ってすら見える。
「気まぐれだ。もう下手くそに射たれるんじゃないぞ」
そう言い捨て、彼は坂をのぼった。
いうまでもなく、ハームフルの息の根を止めるためである。