第一話:この人を見るな
ドラゴン……続編が出るたび影が薄くなっていく、哀れな存在。
村は騒がしかった。
正確にいうと、今日も騒がしかった。
もっと正確には、「昨日よりも」騒がしかった。
それというのもこの村<コマンド>ではしょっちゅうトラブルが起こるので、一般的な都市と比べてもバカみたいにやかましかったのである。
(ちなみにコマンドは村と呼ぶにはあまりにも大きすぎるため、ひょっとしたら都市なんじゃないかという者もいたが、村長はかたくなに村だといい張っていた。というのも、都市は村より多くの税金を納めなくてはならないからである。)
そんなトラブルの中心には、だいたいいつも同じ男がいた。この物語の主人公でもある彼が今回起こっているトラブル(そう、今この瞬間にもトラブルは起こっているのだ)にも関わるか、どうか――まあいってしまえば、大いに関わるのだが。
とはいえ、いますぐというわけでもない。彼は朝に起きるという一般的な常識をくだらないと思い、昼に起きるようにしていたからだ。
「起きたいときに起きればいいだろ。朝に起きれば人生が楽しくなるわけでもないし」
というのが彼の主張だった。
まあそんなことはともかく、騒がしい理由はドラゴンにあった。
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「ぎゃああああ! ドラゴンだあああ」
「バカいうな飲みすぎ……ああああ!」
「おいおい集団幻覚か? ……ああああああ!」
村のあちこちで村男・村娘・村子供・村老人・その他もろもろの悲鳴が上がった。上空で巨大なドラゴンが旋回しているのだ。影がいくつもの家をおおい、いくつもの道を黒く染めた。
この村は山中にあり、わりと魔物の襲撃は多かった。それでも襲ってくるのはたいていゴブリンとかコボルトとか、大きくてもトロールであり、今まさに空を飛んでいるこんな大物の襲来はめずらしかった。あまりうれしくないめずらしさであったが。
ドラゴンはこの村一番の金持ちが昨年領主の街に買った庭付きプール付き別荘の二階部分くらいの大きさで、色はその壁にペンキ職人が臨時で雇ったバイトが間違ってぶちまけたペンキくらいにベタベタした黒だった。
「おい、だれかアイツを呼んでこい!」
どこかで男がだれかに叫んだ。
「えっ、アイツか? ……それはちょっと」
叫ばれた男は気乗りしないようすだった。
「そんなこといってる場合じゃないだろ!」
「でもアイツの寝起きの悪さ……」
二人目の男はためらいがちにいった。
「ドラゴンより怖くねえか?」
「一理あるな」
最初の男も真剣にいった。
そのアイツはいま、三十回目の寝返りをうつところだった。
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村中央の大通りは、少しでも安全な場所を求めて駈ける人びとでいっぱいだった。いよいよドラゴンが低空飛行をおっ始め、獲物の品定めをするようすを見せたからだ。
「おいお前太ってんだからみんなのために食われろ!」
隣を走る女にそう叫んだ男がいた。
「はあ?」
女は怒っていった。
「わたしがあのドラゴンの喉を通れると思う?」
「ムリそうだな」
男は答えた。
そのふたりの会話はべつにどうでもよいが、いま彼らの背後で転んだ少女はどうでもよくなかった。
「いたっ!」
悲鳴を上げて道に転がる娘。見れば足から血。うう……とうめくも、なんとか立ち上がり、もう一度走り出す。集団からはだいぶ離れてしまった。つまり少女はひとり。ドラゴンから見れば、エサが大皿から飛び出たような感じだろう。人間なら皿から飛び出た料理に手なんかつけないだろうが(この村の住人ならそれでも食べるだろう。下品だから)、ドラゴンはそこまで潔癖でもない。
ギャアアアだかグオオオのように聞こえる雄叫びを上げ、ドラゴンは獲物に狙いを定めた。
ちなみに、いまアイツは四十回目の寝返りをうつところだった。
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必死に走る少女。ゆうゆうと追うドラゴン。転びかける少女。あくびをするドラゴン。
追う者追われる者の力の差は歴然としてあり、これはちょっと助かりそうもなかった。少女自身、そのことはよくわかっていた。それでもなお走らずにはいられなかった。
少女の母親は今朝死んだ。そのショックを少女は自分ひとりで飲み込まなくてはならなかった。というのも、父親は三年前に死んでいたからである。彼の死因は腎虚であった。母親の死因はわからなかった……確かめようとした直後、ドラゴンが襲ってきたのだ。
つまり少女は肉親の死と、ドラゴンに追われるという二重の不幸に見舞われていることになる。まあ、わりと悲劇的である。けっこう絶望的である。かなり意気消沈ぎみである。けれども少女はなお駈けて、駈けて……転んだ。なにか気を張る糸のようなものが、ぷつんと切れた音が少女には聞こえた気がした。
転んだのは村にひとつだけある、とびきりオンボロな教会の目の前だった。ドラゴンはとくに急ぐこともなく、その全力の百分の一も出さないで、あっさり少女の真上に滞空した。勇敢な村人たちが投げつける瓶やら酒瓶やら空っぽの酒瓶やらにも、まったく気を取られる気配はない。
少女は目を閉じた。涙が……出なかった。非常に疲れていて、そんな感情表現にまわす体力すら残されていないのだった。しかし、祈るくらいの余裕はあった。
「……神さま」
少女はつぶやいた。助けてほしい、とはいわない。けれど、お母さんと、お父さんのところへ……無駄かもしれないけれど。
「ああ、無駄だ」
背後から声がした。
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「なんかうるさくてぜんぜん眠れねえ……と思ったら」
アイツ――この村唯一の教会の神父――が外に出ながらいった。
「なんだこのトカゲ」
ドラゴンという種族はそれなりに頭がいいので、自分の種族名を聞きわけることができた。しかし、トカゲ? このドラゴンはトカゲという語を初めて聞いた。初めて聞いたのだけれども、手ひどく侮辱された気がするのはなぜだろう?
「ギャアアアアキシャアアアア(それはどういう意味ですか)?」
「なに? トカゲの意味か?」
少女は目を見張った。この人(少女はこの神父と初対面だった。少女の両親はそれなりにまともな人たちで、まともな人はこの神父には近づこうともしないからである)、ドラゴンと会話を……?
「……すっごく情けないヤツ、って感じかな?」
「ギャアアアア!」
ドラゴン語はさっぱりな少女にもわかった。神父はめちゃくちゃにドラゴンを怒らせたようだ。
「おい怒るなよ。これでもだいぶ意訳したんだ。ほんとのところの意味は……」
彼が説明する間もなく、ドラゴンはその首をもぎ取ろうと急降下した。もはや少女は眼中にないようであった。危ない! ぎゅっと少女は目をつぶった。
「……取るに足らない雑魚ってことだよ!」
中指をおっ立てて彼はそういい、すると轟音。目の前が真っ白になり、少女はなにも見えなくなった。
「……?」
しばらくしておそるおそる目を開けると、やっぱりまだなにも見えなかったので、もう一度目をつむり、またしばらくして開けた、とたんに煙が目に入り、またなにも見えなくなった。
……ようやっと少女がはっきり目を開けると、
「……え!」
目の前にドラゴンの頭があった。食べられる! ととっさに思うも、その瞬間はいつまでも来ず。
ドラゴンは気絶していた。
「短期なんだよなあ~ドラゴンは」
神父が手を叩きながらいった。
「こちとら六十回も寝返りをうって、それでもなお平和的対話的な解決を試みようとしたっつーのに」
あくびをして教会へ入ろうとした神父に、少女は声をかけた。
「あの!」
「はい?」
「……そ、その」
「なに?」
「助けてもらって、ありがとうございました」
ぺこりと少女は頭を下げた。
「わたし、マリアっていいます」
「へえそうなんだ」
あまり興味もなさそうに彼はいった。
「おやすみマリアさん」
「あ、それで!」
「まだなにか?」
「あ、あなたのお名前は……」
少女はしどろもどろになりつつも、最後まで言葉を紡ごうとした。
「すみません、わたし、村に住んでるのに知らなくて……」
「そのほうが身のためだぞ」
わりと真剣そうに神父はいった。しかしその直後、また表情はゆるみ、
「でもま、おれは意地悪じゃないんで、教えてしんぜよう」
彼は少女に向き直った。
「おれはムライ。ごくふつうの神父だ」
そのときドラゴンが目を覚まし、ムライの顔を見るなり、慌てたようすで飛び逃げ去った。
「ちなみにべつだん神は信じてない」