Ⅵ
眩しいくらいに輝いていた夕日は沈んでしまい、夜闇が船内を包んだ。薄暗い部屋に吊るされたランタンは、船が傾くたびに揺れ、互いの顔を交互に照らした。ベッドに入った娘は眠らず、じっとアンジーを見つめていた。椅子をベッドの方に向け、アンジーは腕を組み険しい顔をして黙り込んでいたが、娘の視線に気づくと小さく笑って口を開いた。
「俺はガキの頃、街の大通りにあった店の前を通るのが楽しみだったんだ」
アンジーは目を伏せたまま、そう言った。
「何の店だったか忘れたが、やたら高価なもんばかり並んでいて、長い間店の前にいると店主みたいなやつに追い払われちまうんだ。でも、店の前を通るときは決まって俺は、窓ガラスから店の中を覗いてた。ちょうどそこから見える位置に、陶器の人形が置かれてたんだ。滑らかで艶のある、海みたいな真っ青なドレスを着た、貴婦人人形だった」
目を伏せていても、アンジーは娘の深く青い瞳を思い浮かべていた。
どこまでも透き通った、故郷の海のような瞳を。
「その人形を眺めているときが、俺は一番幸せだった。だけど、そいつを手に入れられるだけの金を俺は持っていなくてな。ようやく、そんなもんなくても自分のものに出来ると気づいたときには、その人形は消えていた。海賊になってから、金貨やら宝石やら色んなもんを目にしてきたが、あの人形より綺麗な物はなかった」
顔を上げると、娘はもう眠っていた。
「だから、もう一度その人形を見つけたら、俺は絶対に手放してやるつもりはないんだ」
娘の寝顔を見ながら、アンジーは独り言のようにそう呟いた。
自分のすぐ傍で娘が眠っている。それだけでアンジーは幸せだった。
緊張が解けたせいか、たまっていた疲労感からか、アンジーはそのまま目を閉じていた。
気が付いたとき、娘はいなくなっていた。
ロウソクは消え、部屋の中は真っ暗だ。娘を探そうと起き上がったとき、部屋の外から声がした。あの、透き通った美しい声だ。歌うような、囁くような、どこの言葉かまるで分らないその声は部屋を出ると、よりはっきり聞こえてきた。
呪文のようでもある。
アンジーは娘の声だと思った。
甲板に着くと声は大きくなったが、娘を探すうちに止んでしまった。そのかわりに、生臭いにおいが漂ってくる。
血のにおいだ。
その先に、屈むようにして娘はいた。その足元に、哀れな航海士の首が転がっているのが目に入った。その顔には表情がなく、虚ろな瞳は曇った夜空を見つめている。喰いちぎられたような断面からは、どくどくと赤黒い血が流れ出し歪な血だまりをつくっていた。
なのに、どうしてだろう。
アンジーはゆっくりとした足どりで近づいていく。
娘はアンジーに気づくと静かにふり向いた。彼女は何も言わず、まるでそこに死体などないかのように、にっこりと笑った。黒い雲の切れ間から満月が覗き、娘の顔を冷たく照らす。
優しく天使のような微笑みはアンジーが手を取ると、弓なりになった目を見開き、もの問いたげな表情に変わった。それを見つめながらアンジーは思う。シレーヌか、ハルピーか、それとももっと別の化け物か。そんなことはどうだっていいと。
やはり、この娘が愛おしい。
翌朝、ジェム・ラ・モウル号は近くの港にたどり着いた。
船から誰も降りてこないため、訝しんだ船乗りたちは船を調べた。
だが船内には誰ひとりいなかった。
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