転生した少女の人格が死を選んだので、代わりにその人生を生きようと思います
恋愛要素は薄い、というよりも皆無です。
よろしくお願いします。
嵐の後の朝だった。
十代半ばの黒髪の少女が一人でそこに立っていた。
彼女の目の前には濁流。
普段は穏やかな流れのそこは、濁った水が勢いよく流れている。
橋の欄干を乗り越えて、彼女は泣き腫らし虚ろになった瞳でその流れを見た。
死ねるだろうか?
一思いに死ねるだろうか?
答えを知るには、簡単だ。
一歩踏み出せば良い。
たった一歩。そう、家の玄関から仕事場に向かう時と同じように足を踏み出せば良い。
不思議と濁流は怖く無かった。
この濁流に呑まれて終わることも怖くは無かった。
濁った水、その先に苦しみがあったとしても、更にその先には幸福が待っている。
死という幸福が待っているのだ。
彼女は、そう信じて疑っていなかった。
死んだら楽になれる。幸せになれる。
心の底からそう信じていた。
死んで、天国に行って、そしてーー。
「笑って、楽しく暮らそうね」
彼女は自分のお腹を撫でながら、笑った。
幸せそうに、笑った。
現世に彼女の幸せは無かった。
両親は彼女が幼い頃、流行病で亡くなった。両親が彼女のために残してくれていた財産は親戚達に奪われた。信じていた人には裏切られた。
それでも、彼女は諦めなかった。
今が悪いだけ。あとは良くなっていくだけだと自分に言い聞かせ、必死に生きていた。
でも、運命の神様はいつだって彼女に意地悪をした。
借りている集合住宅で起きた空き巣事件の犯人にされたのだ。
住む場所からを追い出され、この事件を理由に職も失った彼女を拾ったのは、とある貴族の男だった。
下女として雇ってくれたのだ。彼女は、恩に報いようと頑張った。
しかし、それも束の間だった。
主人の息子が彼女に目をつけ、乱暴をしたのだ。
1回だけでは無く、何度も乱暴された。
抵抗しても無駄だった。
こんな人生はもう嫌だった。
それでも、彼女は自分を拾ってくれた主人に恩を返そうと頑張っていた。
自分を産み、育ててくれた両親のためにも生きることを諦めようとは思わなかった。
あの日までは。
それは、突然訪れた。
兆候はあった。
でも、怖くて確認出来なかった。
確認した時には、無かったことに出来ない所まで時間が経過していた。
妊娠したのだ。
どうすればいいのかわからなくなった。
助けを求める、その相手がいなかった。
日に日に体調が悪くなっていった。
やがて、恩人の耳にその話が伝わってしまった。
呼び出された彼女は、罵倒された。
可愛い息子を誑かした悪女だと、魔女だと、散々に言われた。
恩知らずめ、と吐き捨てられたかと思うと、そのままその家を追い出されてしまった。
元々住み込みだったので行く場所も、頼れるアテもなかった。
まともに話しも聞いてもらえず放りだされた身重の彼女に、選択肢は少なかった。
ただフラフラと歩きまわる。
ふと数日前から降り続いた雨のせいで、水かさの増した見慣れたはずの川が視界に入った。
雨は止んでいた。
子供の頃に何度も通った橋の真ん中から欄干から身を乗り出す様に、濁流を見た。
気付けば、一歩踏み出せば堕ちる所にいた。
人は、死ぬ直前に走馬灯を見るというが、それは彼女も同じだった。
死に瀕してはいないが、濁流を見つめる虚ろな瞳には確かに過去の思い出が映っていた。
もしも、普通に恋愛をして子供を授かっていたなら、そんな妄想も映る。
「おとうさん、おかあさん。怒るかなぁ」
頑張ったと思う。
生きるのを、彼女なりに頑張ったと思う。
人は生きていく上で、いろんな選択を迫られる。
その中には【死】の選択もある。
大事な命。大切な命。
彼女が考えて、考え抜いて出た答えが今立っている場所だ。
助けてくれる人はいない。
責任を持って、彼女の両親が、他ならない彼女にしたように子供を育てるなんて出来るとは思えなかった。
無責任と言われるだろう。
見ず知らずの人間に詰られ、罵倒されるだろう。
しかし、着の身着のまま追い出され、数日過ごすための金も無いのだ。
この状態で子供を産むなどできない。
仮に産めたとしても、共倒れは確実である。
現世に、今生きているこの時代、この瞬間に彼女の幸せは無かった。
そして、無理矢理乱暴され、結果的に孕まされた自分に宿る命を殺して生き延びることが出来たとしても、その事実に耐えられるほど彼女は強く無かった。
「ごめんね」
せめて好きな人の子を身籠りたかった。
こんな形での終わりなど、望んでいなかった。
彼女のそれは、だれでも思い描く平凡な望みだった。
普通に人を好きになって。
普通に結婚をして。
家庭を持って、やがて年老いて夫婦二人でのんびり今度は孫に囲まれて暮らす。
そんな平凡な望み――夢だった。
でも現実はそれを許さない。
試練の神様も、運命の神様も許さなかった。
この試練を乗り越えた先に幸福が待っている、そう考えることもできた。
でも、乗り越える自信が無かった。
もう一度、さほど大きくなっていない腹を撫でながら彼女は泣きながら笑って呟いた。
――こんな母親で、ごめんなさい――
――私の胎内に宿ったばかりに、産んであげることもできなくてごめんなさい――
そして、彼女は散歩に出るように一歩を踏み出した。
その背後で、なにか人の叫びを聴いたような気がしたが、すぐに濁流にのまれ、なにもわからなくなった。
そんな【彼女】の半生を他人事のように【彼】は見ていた。
彼女は人生を諦めた。つまり、いらないということだ。
なら、彼女の代わりに自分が生きたい。
彼はそう強く願った。
でも、願った所でもうどうにも出来なかった。
【彼女】の人生に【彼】は干渉できなかった。
彼の人生は、すでに終わっていた。
今は彼女の人生なのだ。
それでも、どんな人生でも良い。
どんなに辛くても、泥水を啜るような人生でも良い。
彼は生きたかった。
生きたい、と強く強く願った時だった。
口と鼻の中に水が入ってきて、とても苦しくなった。
必死にもがいた。
水に揉まれているらしかった。
目もまともに開けられず、ただ彼はもがいた。
――死にたくない――
また死にたくなかった。
そうやって必死にもがく彼の手を何かが掴んだ。
訳が分からず、掴んだ何かにしがみ付く。
そして、気付いた時には川岸に引きあげられていた。
「ばかだろ!!
死にたいのか、この馬鹿!!」
彼を引きあげたのは、男だった。
金髪に空色の瞳をした、ずぶ濡れだが仕立ての良いスーツをきた青年である。
眦を吊りあげ、本気で怒っている。
しかし、それに答えている余裕は彼にはなかった。
「ごめ、なさ」
それだけ呟くと、【彼女】あるいは【彼】は意識を手放した。
***
夢を見ていた。
彼は夢を見ていた。
生まれつきの病気のせいで、十代後半で終わりを迎えた人生。
それは仕方の無いことだった。
病気のせいで家族には本当に迷惑をかけた。
自分のせいで、家族はバラバラになってしまった。
他ならない家族に死を望まれた事もある。
そんな人生だった。
それでも、もっと生きたかった。
彼は生きたかった。
もしも、生まれ変わったら今度は健康な体に産まれたい。
もしも、生まれ変わりがあるのなら、どんなに不幸でも構わない。生き抜いて人生を全うしたい。
それが、彼の願いだった。
願いは叶い、彼は生まれ変わった。
もちろん前世の記憶は蘇らず、彼は彼女として生きていたのだ。
これは、彼女の人生だった。
でも、その人生に彼女は耐えきれず死を選んだ。
彼が望んでも得ることが出来なかった時間を、彼女は諦めた。
そんな彼女の考えを否定はできなかった。
彼女が頑張って考えて出した答えは、とても尊いものだ。
でも、だからこそ、俺にくれと思った。
いらないなら、俺が貰う、と。
そして、その願いは叶う事になった。
今までを夢に見て、目覚めると看護婦と目があった。
一瞬驚いたあと、慣れているのか彼女は安心させるように微笑んだ。
そして、すぐに担当医を呼ばれ診察を受けた。
お腹の子は無事らしい。それを聞いて彼は安心した。
「どうしてここにいるのか、わかりますか?」
彼は最初戸惑ったものの、彼女の人生に介入したのだとすぐに悟った。
なので、正直に自棄になって身投げしたのだと話した。
あまりにもサバサバ答えたためか、担当医が怪訝そうになる。
「まるで、生まれ変わったようなさっぱりした気分です。
御迷惑をおかけしました。それで、その私を助けた方がいたと思うのですが」
お礼を言いたいと伝えれば、通路でまっているという答えが返ってきた。
看護婦が呼んできてくれた。
担当医と看護婦の二人が見守る中、彼女となった彼は頭を下げた。
「アイリーンと言います。
助けていただき、本当にありがとうございました。」
「ライオネルだ。まったく、聞けば妊婦と言う話しじゃないか。色々あったんだと思うが君一人の体じゃ無いんだから」
そうして、他人なのにくどくどとお説教が始まった。
とても良い人だ、と彼ことアイリーンは思った。
今の人生は本来アイリーンのものだ。だからこう名乗った。
「本当、いろいろ嫌な事がありすぎて、自暴自棄になったんですよ。
でも、助けて貰って、こうして生きているということはきっとまだ生きてて良いよっていう運命の神様のお達しなんでしょう。
今は、生きて貴方と話せているこの時間が何よりも嬉しい」
自然とアイリーンの体を使って、彼は微笑んだ。
その笑みに、何故か命の恩人のライオネルはその端整な顔を赤くさせた。
「それで、旦那に連絡を取りたいんだが、連絡先は」
ライオネルの言葉に、一瞬きょとんとしてアイリーンは苦笑しながら返した。
「いませんよ」
その言葉に、担当医と看護婦が顔を見合わせる。
ライオネルもそちらを見て、何か視線で意志の疎通があったようだ。
もう一度ライオネルはこちらを見ると、
「また明日様子を見にくるよ」
一方的にそれだけ言って、その場を去ってしまった。
その後はアイリーンの様子を見ながら、詳しい説明を求められた。
彼にとっては自分の人生ではなかったので、特につっかえることも感情的になることも無く本当にただ説明することができた。
同情され、この後の手続きについても説明される。
妊婦のための保護制度については、何故か看護婦が熱心に説明してくれた。
役所に行って詳しい説明を受けると良い云々、その際は疑問を全てぶつけること、そうでないと他の情報教えてくれない等々。
しばらくは検査入院だが、数日後には退院である。
住む場所と出産までの間の仕事を見つけなければならない。
それも役所で正直に話して、さらにどうしたいのかはっきり言う事、と看護婦に助言された。
立場上、お役人は提案はするが助けてはくれないらしい。
なので今後どうしたいのか、はっきり伝え相談員への紹介が必要なら依頼することなどを教えてもらった。
翌日、言った通りライオネルが籠いっぱいの果物を持ってやってきた。
どうして身投げしたのか聞きたそうにしていたので、担当医と看護婦にしたのと同じ話をすると納得すると同時に、
「大変だったな」
そう言われ、何故か頭を撫でられた。
「じゃあ、行く所が無いのか」
「本当に大変でした。まぁ、そうですね。退院したら役所に行って色々手続きしなきゃいけないし。
なんか出産するためのサポートがあるらしいです。知らなかったんですけどちゃんと申請すれば補助金もでるんですね看護婦さんに教えてもらいました。
行く所っていうか、住む場所も探さないとでもお金もないし。それも含めて役所で相談しようかなって思ってます」
アイリーンの言葉にライオネルは少し黙考した後、口を開いた。
「なら、俺の所くるか?」
「へ?」
「いま独り暮らしで、部屋が散らかってきててさ。
君を俺が住み込みの掃除婦として雇う。んで、君は出産までの住む場所と職を得られる。
どうだ?」
いや、いきなりどうだと言われても、と戸惑ってしまう。
「部屋は別だし、ちゃんと鍵も掛けられる。なんなら教会に行って誓っていい」
「い、いや、そういうことじゃなくて。良いんですか?
こんな住所不定無職の怪しい女を雇うなんて」
「住所不定無職はともかく、君はただの母親だろう?
そんな疑ってばかりじゃないよ、人生は。むしろ、男が怖くないのか?」
言われて、いまアイリーンの体を使っている彼は確かになぁと思った。
要は強姦で孕んだのだ。
男に恐怖心を覚えるのが普通なのだろう。
もしもいまこうしているのが、本来のアイリーンだったならそうなったのかもしれない。
しかし、彼はアイリーンであって正確には違う人格だ。
「そうですねぇ、一度死にかけたからでしょうかね。
少なくともお医者さんや、貴方の事を怖いとは思いません」
「そ、そういうものなのか?」
「そういうもんなんです」
お互いに笑った。
生きている、そして妙な所から繋がった縁。
彼は、それを最大限利用しようと思った。活用しようと思った。
これは、眠ってしまった彼女の人生をもらった彼の話。
前の人生で、夢にまでみたそれを手に入れた彼の話。
自然とアイリーンはライオネルに手を差し出す。
「お言葉に甘えさせていただこうと思います。これからよろしくお願いしますご主人様」
「こちらこそよろしく、アイリーン」
ここまで読んでいただきありがとうございました!