どうか今だけは穏やかに
佳月紗那のターンです
場面転換が多いです、申し訳ありません。
「街に行こうと思うんです」
レイモンドを迎え入れてすぐに、リンは生真面目にそう言った。
それを耳にしたレイモンドは会話の流れで頷きかけて、ふと彼女の言葉を頭の中で反芻してみたところで、動きを止めた。
人の前に姿を現さないという『緑の魔女』が、街へ。
「...は?」
「聞いてませんでした? 今日は街に出掛けるんですよ」
どうやら空耳ではなかったようだと、レイモンドは自分の耳に対する疑いを捨てた。
「いや、君は森から出ないのだろうと...」
彼のそれを聞いた瞬間、きょとんとした顔をした彼女は、そしてーー笑い出した。
「わ、私だって色々なところに行きますよ。このティーカップだって、街で買ったものですし」
「皆気が付かないものだな。『緑の魔女』が近くに居たというのに」
リンが笑ってしまったからか、自分が少なからず人の噂を信じてしまっていたと気が付かされたからか。
不機嫌さを醸し出して椅子に腰掛けるレイモンドに、リンは人さし指を口元に添えてみせた。
「魔法で変装するんです、これでも魔女ですから。...他の方達には内緒ですよ?」
指をあてたまま唇に弧を描かせる彼女の様が、妙に艶めいていた。
その色気に、くらりとする。
それを誤魔化そうと、レイモンドは口を開く。
「それなら今日はもう、帰ったほうがいいか」
「...付き合ってくれませんか?」
自然と彼を見上げるかたちになった彼女の、眉が僅かに下がっている。
レイモンドは、長い溜め息をついた。
彼女の『お願い』には弱いのだと自覚はしている。
「別に構わない」
安心したように頬を緩ませる彼女に、なぜか胸がざわめいた。
人、人、人。とにかく人が多い。
子供のはしゃぐ声もする、騒めきの中で、リンは目を輝かせていた。
「お祭りか何かでしょうか。楽しそうですね!」
肩ほどの長さの金髪に碧い瞳。いつもとは違う格好をしていることにも、少なからず興奮しているのかもしれない。
彼女の隣を歩くレイモンドの表情も、心なしか明るいようで。リンの足取りは、はずむ。
香ばしい匂いや、可愛らしい小物をあつかう露店が多く並んでいる。
薬草の種を買いにきたはずなのに、他のものに目移りしてしまう。
ふと、あるものがリンの視線を奪った。
「...レイモンド、ちょっと待っていてください」
ーー......
空が茜色に染まる頃、森のそばまで一緒にいたレイモンドを、リンは振り返った。
「ここまでで、大丈夫です」
「そうか」
レイモンドが抱えてくれていた荷物を引き取りつつ、彼にゆっくりと告げた。
リンは嘘を、ひとつ混ぜて声に乗せる。そこに色を付けないように苦労する。
「...明日は来ないでくださいね。用事で家を開けるので」
彼の空っぽになった手を、片手だけ握りしめた。
少しの間だけ力を強く込めてから、その中に小さな飾り石を落とした。
彼が不思議そうに目を瞬かせるのを見て、ひっそりと笑う。
「今日の、お礼です。ありがとう、ございます」
「...あぁ」
「じゃあ、」
別れ際、彼女の耳の奥でーー平穏の端が、崩れていく音がした。
ありがとうございました。
written by 紗那