Last world
ここは、とある世界の辺境、「この世の端っこ」と呼称される土地である。濃緑の樹木が生い茂るこの森は、近辺に住む人間たちからは別の名前でも呼ばれている。通称「魔女の住む森」、と。
「うん……しょっと!」
その森に流れる小川、その岸辺で木製のバケツを抱える一人の少女。どうやら彼女は、川の水を汲んでいるらしい。
「ふぅ~、早くご主人様のところに戻らないと」
まだ若干の幼さを残した少女は、人間で言えば十代後半くらいだろうか。手入れの行き届いた銀髪は、それこそ銀糸で出来ているのかとさえ思えるほどに美しく、剥き出しになった彼女の肩を申し訳程度に隠している。
「よい……しょっと!」
バケツを持ち上げると、髪が揺れて、その特徴的な耳が姿を見せる。先端が尖った、独特の形状をした耳の傘。それはつまり、少女がある種族―――エルフであることを意味していた。
「わわわっ……!」
一度に持ち上げたためか、バランスを崩してしまった模様。しかし、背後の川へ落ちないようにと体を捻ったため、勢い余ってバケツを放り出してしまった。
「いたたた……あっ、バケツ!」
それに気づいた少女は、宙を舞うバケツを追って、慌てた様子で駆けていく。だが、慌てたのがいけなかった。途中にある障害物に気づくことが出来なかったのだ。
「―――きゃっ!」
悲鳴を上げながらすってんころりん。道のど真ん中に転がっている何かに足を取られて、ひっくり返ってしまった。さっきから見ている限りだと、結構ドジなようだ。
「うぅ、痛い~……」
ぶつけた箇所を擦りながら、起き上がる少女。自分が何に躓いたのか確認しようと、後ろを振り返った。
「え―――人?」
道に横たわっていたのは、二十歳そこそこの青年だった。ボロ布を身に纏い、腕に血の滲んだ包帯を巻く彼は、まるで誰かから追われてきたかのように見えた。
「ど、どどどどうしよ!? と、ととととにかく運ばないと……!」
エルフの少女は、見知らぬ青年を引き摺るようにして担ぐと、どこかへと連れて行った。
◇
「―――で? それが水も汲まず、バケツを失くして、挙句こんなものを拾ってきたことの言い訳か?」
「ご、ごめんなさい……!」
三十分ほど経過して。エルフの少女は、青年をこの古びた小屋に運び込んでいた。それから傷の手当てやらなんやらをして、ひとまず落ち着いたところに小屋の主が帰ってきたのだ。そしてこの有様。どうやら彼女は、この男性に命じられて水を汲んでいたようだ。
「まあ、お前のドジは生まれつきだから諦めているが……にしたって、なにも人間なんか拾ってくるなよ」
家主の男性は、古びたローブを身に纏い、フードで顔を隠していた。長身で、ローブの上からでも分かるくらいに痩せ細っているので、顔が見えないのもあってかなり不気味である。
「お前……俺の何だ?」
「わ、私は、ご主人様の……ど、奴隷、です」
男に問われて、少女はオドオドしながらそう答えた。
「なら聞くが、奴隷が勝手なことしてもいいと思ってるのか?」
「い、いえ……だ、駄目、です」
自分の不義を咎められ、恐縮してしまう少女。それを見た男性は、小さく溜息を吐くと、近くにあったバケツを少女に向かって放り投げる。
「わわわっ……!」
宙を舞うバケツを、少女はどうにか受け止める。それを確認すると、男は彼女にこう命じた。
「もう一度水を汲んで来い。失くしたバケツはもういい。それから、今度は絶対に余計なものを拾ってくるなよ」
「は、はい……」
しょんぼりと肩を落としながら、小屋を出て行く少女。叱られて、気を落としているのだろう。
「……何か、言いたいことがあるかの?」
「ああ、山ほどな」
男が問いかけるように呟くと、奥の部屋に通じる扉が開き、中から青年がやって来た。先程まで向こうの部屋で手当てを受けていて、今し方までベッドで横になっていたのだ。
「あの子は俺を助けてくれたんだぞ。何故あそこまできつい言い方するんだ?」
「そりゃそうだろう。奴隷が主の命令を遵守できなかったんだ。体罰を加えないだけでも珍しいくらいさ」
青年の問いに、男は平然とそう答えた。しかしそれは青年の気に障ったらしく、彼は語気を強めて反論した。
「奴隷って……どうしてあんたがエルフを奴隷にしてるんだよ?」
「そりゃまあ、あいつの命は俺が握ってるんだからな。奴隷になるのは至極当然の流れさ。―――というかお前、さてはこの森のことを知らないな?」
聞き返されて、青年は控えめに頷く。すると男は頷いて、青年と向かい合った。
「そうだな……まあ、お前はあいつのことが気になるらしいから、あいつのことから話すか。あいつがこの森にやって来たのは確か、百六十年前だったな」
「百六十年……エルフなら不思議じゃないが」
エルフは千年もの寿命を持つとも言われている。そのために、エルフの成長速度は人間の一割程度で、数百年生きててもまだ若いままなのだ。
「まだ赤子だったあいつを拾い、この森で生きられるようにして、今まで育ててきた。だったら、奴隷としてこき使ってもいいだろ。というか、半ばそういう意図で拾ったんだしな」
「それって要は、あんたがあの子の親ってことだろ? あんたは自分の子供を奴隷にするのか?」
「子供? 違うな、それは」
青年の言葉を、男は鼻で笑った。その態度に、青年は腹を立てるが、男は構わず続ける。
「いいか? 子供というのは、やがて自立するものだ。親の元を離れて、自分で生きていける。だが、あいつは違う。あいつは俺がいないと生きていけないんだからな」
やがて巣立つのが子供で、永遠に依存するのは奴隷。男の言い分は、青年にすら実に理に適っているように思えた。
「例えば、あいつは食事が出来ない」
「食事が出来ないって……拒食症か?」
「いや、そんなんじゃない。食事をする機能がないんだ」
それから男は、この森について話し始めた。
「まず、この森には食料がない。そして俺は、この森から出られない。そうなったら、あいつを生かす方法が一つしかなくなる。―――俺の魔力をあいつに与えて、生き長らえるようにすることだ」
魔力。それは生命の源で、どんな生物にも多かれ少なかれ宿っている。もしも魔力を供給し続けたら、たとえ食事を摂らなくても生きていけるだろう。……理論上は。
「けれど、魔力のみを糧に生きるのは、魔術師の使う使い魔くらいだ。普通の生命が魔力だけで生きようとすれば―――そいつはただの人形に成り下がる」
つまりあの少女は、この男の魔力を得て生きている。そして他の方法では生きていけない。故に、彼女はこの男に隷属せざるを得ない。
「まあ、幸い俺の魔力は尽きないからな。俺が生きてる限り、あいつは生き続けられる。……さて、納得したか?」
「……」
説明されて、それでも青年は納得できなかった。何故なら、この男はあの少女を、自分に都合のいいように「改造」したのだから。普通の倫理観では、どう考えても許せないだろう。
「それと、この森についてだが……ここが「魔女の住む森」と呼ばれていることは知ってるか?」
「……ああ。だから俺も、ここに逃げてきた」
「なるほど、やはりな。逃亡者か」
どうやら青年は、本当に何者かから逃げてきたようだ。それが誰かは分からないが。
「ここの住人は二種類いる。一つは、俺のような「罪人」。もう一つは、「罪人」の「奴隷」。あいつは後者だな」
「「罪人」……ってことは、ここは刑務所みたいなものか?」
青年が尋ねると、男は「半分正解」と答えた。
「まあ、普通の刑務所とは規模が違うんだがな。それはまあいい。―――で、だ」
粗方話し終えたのか、一区切りつけるように声の調子を変える男。
「これからお前が、この場で選べる道は三つだ。一つは、さっさとこの森を出ること。さっきも言ったが、ここに食料はない。草木も食えないからな」
この森に生息する植物は、いずれも猛毒を有している。食べるのは不可能だろう。
「それか、このまま野垂れ死ぬのも一つの道だ」
食事が出来ず、しかし森から出られないなら、普通に考えるとそういう結末になるだろう。
「そしてもう一つは、あいつみたく俺の奴隷になる道」
それも嫌なら、エルフの少女と同じく、彼の奴隷になるしかない。
「さあ、好きなものを選べ」
提示された三つの選択肢は、逃亡か、餓死か、隷属。青年は、一体どれを選ぶのか。
「……世話になったな」
青年は男に背を向けると、走り去るように小屋から出て行った。
「た、ただいま戻りました~」
青年と入れ替わるように、エルフの少女が入ってきた。今度はちゃんと水を汲んできたようだ。
「あれ? さっきの人はどうしたんですか?」
「ああ、帰った」
「そう、ですか……」
呟く少女は、どこか残念そうであった。
「どうした?」
「いえ、久しぶりの人だったので……もう少しお話したかったです」
「はは、それなら安心しろ」
少女の言葉に、男は大層可笑しそうにそう言った。
「俺たちはこの森から出られないが、外の奴らは自由に入れるんだ。お前や、あいつみたいに、また誰かがやって来るだろうさ。―――尤も、それまでお前が生きていればいいが、まあエルフなら問題あるまい」
「はい……そう、ですね」
男は少女のことを「奴隷」と称したが、こうして二人並んでいると、それこそただの親子に見えてくるから不思議なものだ。
ここは、とある世界の辺境、「この世の端っこ」と呼称される土地である。濃緑の樹木が生い茂るこの森は、近辺に住む人間たちからは別の名前でも呼ばれている。通称「魔女の住む森」、と。―――そしてこの森には、幾重もの罪を犯した「罪人」と、そんな彼らを慕う少数の「奴隷」が、共に消滅までの時間を過ごしていた。そんな彼らの、気が遠くなるような日々は、一体どれほど続くのやら。