僕は悪くない
僕は悪くない
雨は途中コンビニで買った黒い合羽も意味をなさないほどに強く降り続いている。
僕は悪くない
雨はひしゃげた金属バットの汚れを洗い流し、そのときのことをまるでなかったかのような色をしている。でも、全て元通りというわけにはいかないようだ。
僕は悪くない
でも、雨はやまない。
家の玄関を開ける。すぐに洗面台へと向かい、汚れていないはずの掌を何度も何度も洗った。ばしゃばしゃと大きな音を立てて、僕の中で反芻する康平の叫び声をかき消したつもりでいた。そんなことをしても心にこびりついた血は落ちるはずもない。
「健二、次の試合も頼むぞ」
監督は試合前いつもそうやって僕を慰める。どうせ試合で使う気がないならわざわざ声なんて掛けてほしくない。
先に野球を始めたのは僕だ。
僕には何も取り柄がなかった。スポーツや勉強で活躍する同級生たちを羨ましいと思いながらも、常に彼らの失態や怪我を望む自分がいた。
嫉妬という言葉の意味を知るのはそれからまだ少し先になるのだが、僕に張り付いて離れようとしなかったあのぐずぐずとした感情はきっとそれに違いないのだろう。
ある日、いつも缶ビールを片手に野球中継を見ながらぶつぶつ文句を垂れている親父が、赤くした顔をさらに赤らめて喜んでいた。
どうやら贔屓にしている球団のエースピッチャーが完全試合を達成したらしい。
「完全試合ってなに?」
やってしまった。また怒られる。
以前野球中継を見ている親父にテストで珍しく高得点が取れたことを話しかけたときに烈火の如く怒られた記憶があり、それ以来出来る限り野球中継の時は話しかけないようにしていたのだが、久しく見た親父の嬉しそうな顔に思っていたことを口にせずには居られなかった。母もそれを聞いた瞬間僕のフォローをしようと何か言葉を発しようとしたのが見えたがそれよりも先に親父の口が動いた。
「完全試合ってのはな、バッターを一人も塁に出さんで勝つことなんよ」
親父はさらに嬉しそうな顔をした。こんな父の顔見たことがない。
「なんや健二、野球好きなんか」
「う、うん」
もちろん興味があったのは野球の方ではなかった。
それからは野球の話をたくさんしてくれた。というより刷り込まれたといった方がいいのかもしれない。
収入が決して多いわけではなかったが親父は僕を近所の野球チームに入れた。
練習はきつかった。きつくて何度も何度も泣いた。そのたびに練習して、やっと上級生達に交じって試合で投げさせてもらえるようになると、親父が試合に来るようになった。
試合でいいピッチングをするたびに、完全試合を達成したあの野球選手を見つめるような眼差しを僕に向けてくれた。
親父は将来、僕がプロ野球選手になるんだと信じていた。僕ももちろんそう思っていた。親父が言ってくれるんだから間違いない。プロ野球選手になって完全試合を何度もして、親父をあの時以上に喜ばせてあげるんだ。
僕は必死に練習した。
僕が所属していた近所の野球チームは小学生中心のチームなので、中学では野球部に入った。もちろん一年生の頃からエースとして試合に出た。そんな僕のことを面白く思っていない先輩も中にはいたらしいが、それを直接僕に言う先輩は一人もいなかった。
それほどまでに僕の実力は上がっていた。誰も僕に文句は言えない。僕のおかげでこの部活は成り立っているのだから。
「なあ健二、野球って面白いの?」
康平は僕の顔を見るなりそう話しかけてきた。
そこまで仲が良いわけではなかったが、今月の学級新聞で野球部が県大会優勝したときの記事が載っていたらしく、その中で二年生エースとして紹介された僕が気になったらしい。
「うーん。どうだろ」
「俺でもできっかな?」
「確か運動神経よかったよね。今何もしてないなら野球部入ってみればいいさ」
深い意味はなかった。どのスポーツでもそうだろうが中学二年になって始めたところで周りとの差を埋めることなんてできない。
また見下せる相手が増える。そう思っていた。
でも康平は違った。
天才という言葉はあまり使いたくないが、あいつはその部類の人間なのだろうとすぐに感じた。
その人の努力の評価ではなく元からある才能に対して評価する言葉が天才だ、と父に教えられた。その人自身を敬う言葉ではなく、その人を生み育てた親への言葉だとも言っていた。
親父は天才という言葉を嫌った。その代わり必死で努力する僕をたくさん褒めてくれた。
僕は自分の努力を否定したくなかった。
だからあいつは所詮天才なのだ。
その天才のせいで中学最後の大会はエースピッチャーとして投げることはなく、県大会の準決勝であっさりと部活を引退した。準決勝で浮足立ったチームメイトが続けて犯した失策がなければ、康平は完投した全ての試合で完全試合を成し遂げていただろう。
康平はスポーツ推薦で高校に入った。
僕にも何校か推薦が来ていたが、康平と同じチームで野球をするために一般入試でその高校に入ることにした。
どうしても勝ちたかったのだ。
「健二、次の試合も頼むぞ」
もうよしてくれ。
もちろんベンチには入った。でも、ただ入っただけだ。
たまに投げる試合も全て敗戦処理。それもへたくそな先輩ピッチャーどもの尻拭いという大役。相変わらず康平は負けなかった。
あいつ以上に走って、あいつ以上に投げ込んだ。
それでも勝てない。
あいつは天才だ。
雨が降っていた。
コンビニで黒い雨合羽を買い、近所の公園に隠していた金属バットを手に持って、家から出てきた康平の後ろを自転車で追いかけた。
僕は悪くない。
自転車に乗った康平を後ろから金属バットで殴った。何度も何度も殴った。
必死に抵抗していた。必死に叫び続けていた。
それらの全てはアスファルトに激しく打ちつける雨音に悉くかき消され、僕ですら何と言っているのか聞き取れないほどだった。
この時康平の努力は無駄に終わったのだ。
詳しいことは分からないが、監督が言うには本人が腐らずにしっかりとリハビリを続ければ日常生活に支障がない程度にまで回復するらしい。
しかしもう激しい運動は二度と出来ない。
今朝、見舞いに行った時に受け取った退部届をみんなに見せながらそう言った。
その瞬間僕はこの学校のエースになった。
そこから数カ月。康平は学校に一度も来ていない。しかしようやく甲子園まであと一勝のところまでまで上り詰めた僕らにそんな事構っている余裕なんてなかった。
あの日これ見よがしに退部届を見せつけ、まるで弔い合戦のごとく僕らを鼓舞しようとした監督ですらここ最近康平の名前を一切口にしなかった。
「健二、頼むぞ」
ここで勝てば甲子園だ。
地区予選の決勝ともなれば全校生徒が応援に駆け付け、耳障りな吹奏楽部の演奏が球場に延々と響き続ける。
僕はマウンドに上がるとまず最初に観客席を見渡して親父の姿を探すことにしている。これだけの広さだと見つからない事の方が多いのだが、それでも探さないと気が済まない。
親父が笑ってくれればそれでいい。
またエースとして投げることになったと告げた時、親父はとてもうれしそうな顔をしてビールを一口飲んだ。
「頑張れよ」
すでにバッターがこちらを睨みつけどっしりと構えている。
僕は親父の姿をまだ探していた。
今日だけは見てほしい。
親父の笑顔を見るためだけに頑張ってきたんだ。その為だったら僕は…
主審のすぐ上。
親父がいた。
笑っている。これで頑張れる。
僕は構えた。最初はストレート。親父は直球勝負が一番好きなんだ。
投げる前にもう一度親父の方を見た。
親父はこちらを見ながら隣で車椅子に乗っている康平の肩に手を置いていた。
はっとした。
康平は顔をくしゃくしゃにしながら僕に何かを叫び続けている。声は聞こえない。口元はそれでもはっきりと動き続けていた。
「頑張れ健二!頑張れ!」
僕は悪くない
僕は、悪くない。
立てなかった。膝から崩れ落ちた。両手の震えが止まらなかった。
空が見える。
喉がちぎれるほどの嗚咽も雲ひとつない空に届くことなく、激しく鳴り響く吹奏楽部の音に悉くかき消されていった。