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009 

 それからしばらくしても明智と春風は戻ってこなかった。窓の向こうを見るところによると、本棚を前に二人で激論を交わしているようだった。何やってんだあいつら。

 その間の俺たち、つまり俺と秋月といえば、これまでからは予想できないほどに会話を交わしていた。

「――なぁ、秋月。明智とは付き合い長いのか?」

「ふぇ、え……えと、ね」

 少し話して分かったのが、秋月は話しかければちゃんと答えてくれるということだった。話しかけられることに――特に男子から――慣れていないのだろう、普通に話しかけてもこうして一度は必ず止まってしまう。だが、待っていれば必ず答えは返ってくる。

「……ちーちゃんとは、ずっと、かな」

「ふぅん。小学校ぐらいから?」

 要するに会話のリズムなのだ。話しかけて、少し待つ。明智のように答えがすぐに帰ってくると思わなければいいだけだ。

「……ううん。もっと前、から。お父さんがちーちゃんのお父さんと友達で……」

「じゃあ、幼馴染なのか」

 秋月の言葉を取らないように気をつけつつ、言葉を継ぎたす形で話す。

「……うん」

 秋月もそれを肯定する。

「じゃあ、俺と春風みたいなもんなんだな」

「……春ちゃんと?」

「ああ」

 短く答える。

「俺も、あいつとは長い付き合いなんだ」

 そう言って、俺は窓の向こうを見た。そこでは未だ春風と明智が何かしている。具体的には動き回る明智と、それを引き留めようとする春風の構図だった。

「俺らも親同士が友達でさ。『家を建てるなら一緒に隣同士に建てようぜ!』なんて約束したぐらいの。そんで俺と春風が同じ年に生まれたからって更に親はヒートアップ」

 思い出すだけで胸の奥に何かもやもやしたものが生まれてくる。

「『これは運命だな。じゃあ結婚させよう』なんて画策する始末」

「け、結婚……!?」

「親共が勝手に言ってただけだよ……とも言い切れないけどさ。ほら、この窓。さっきも春風やら明智やらが何やら言ってたが、俺と春風の部屋が向い合せになってるのは親共が画策した結果なんだよ」

 ついでに、互いの部屋に渡れるようにーだとか渡る際に落ちないようにーだとかも画策してたらしいが、そこまではもう言いたくない。親共が夜這いさせようとしてたなんて何で言わなきゃならんのだ。

「春ちゃんと、な……中ッ原君は、仲良かったん、だ……」

「んー……」

 そう言われると「はい」と答えにくいものがある。そりゃあ確かに周りを気にしないガキの頃は良かったが、思春期に入ってくるとどうしても必要以上に気にしてしまうものだ。実際、中学に入ってからは大してこれと言った会話をした覚えはないし、そんな流れのままあいつが陵星学院に行ったもんだから結局どうにもなってない。

「――春風とは高校からの付き合いなんだろ?」

「……え、う……うん」

 これ以上の春風とのことを聞かれても説明が面倒なので、秋月へと話題を投げた。

「あいつ、どんな感じだったんだ? 今でも信じられないんだが、あいつが女子高に行くだなんて想像もできないんだよ」

「あ、え、えとね……」

 秋月は一拍考える。

「春ちゃん、カッコよかったよ」

「カッコいい、か……。まぁ、分からんでもないな」

 春風は昔から周りを仕切る癖の様なものがあった。要するにガキ大将的なポジションではあったのだが、女子高だとそれが『カッコいい』になるのも何となく理解できなくはない。

「……私が、困ってたらすぐ助けてくれたの。あ……あと、絵を描いてる間も、黙って、待っててくれたり……」

 ぽつりぽつりと、その時を思い出しながらのように秋月は言った。

「へぇ……変わってねぇな」

「うん……春ちゃん、ずっとそんな感じ」

 秋月はこくりと頷く。その顔はどこか嬉しそうに見えた。

「はは」

 俺もそれに笑って返す。

「秋月はさ、絵を描いたりすんの?」

 さっき秋月自身が言ったことだ。俺は明智や春風の話じゃない、秋月自身の話を聞きたくなっていた。

「う、うん」

 秋月の答えは早かった。今までとはほんの少しだけの違いだったが、自信を持って答えているように思えた。

「あのね、これ……」

 更に、秋月はそう言って自分の鞄を開くと、中をガサゴソと漁り出した。そうして一冊のスケッチブックを取り出した。

「これに、描いてるの。それと、これが画材」

 続けて、秋月が取りだしたのは、俺の持つものよりも明らかに大きいペンケースだった。丸めて紐で縛るタイプの筆箱はパンパンに膨れていて、中に画材が詰まっていることがすぐに見て取れた。

「この中にはね、コピックのいろんな色があるの……。いつもはクロッキーぐらいなんだけど、時々色もちゃんと塗りたいから……。絵だけは、私の得意なことなの……」

 ペンケースから十数本のペンを取出し、そう喋る秋月は嬉しそうで、それを見ている俺も嬉しくなってくる。

「――なぁ、その中に描いたのがあるんだろ。見せてくれよ?」

 だから俺はそう聞いてみた。スケッチブックは持っていることを示しただけで、バンドで閉じられたまま。ペンケースと違ってそちらは中身を見せてくれてはいなかった。

「……だ、だめ!」

 しかし秋月は強い口調でそう答えた。そしてこれまた今までにないほどに首を強く振ってそれを拒絶した。

「(――う、)」

 とは言え、せっかくの話題である。秋月から振ってきた話題とも言えなくもない。ならばここを掘り下げない理由もないじゃないか。

「じゃあ、中身はいいけどさ。何か描いてみてくれよ」

「……だ、だめ!」

 秋月はさっきとまったく同じ言葉を言うと、口と目をぎゅっと閉じて首を振った。だが、それは先ほどより強くはない。

「……あんまり、上手じゃないから」

 そして、小さくつぶやくようにそう付け加えた。

「得意だって言ってたじゃないか」

「……あぅ」

 自分で振った話題であることは自覚しているようだ。それに、絶対に見てほしくないわけではなさそうで、胸に抱えている画材と俺とを交互に見ては手でいじっていた。

「ま、無理にとは言わないけどさ」

 押しすぎるのもよくない。折角、普通に話せるようになったのに、しつこくて引かれたらそれも台無しだ。

「……ぅぅ」

 それでも秋月自身は悩んでいるようだった。

 俺は絵が描けないから分からないが、やはり自分の作品を見られるというのは恥ずかしいものなのだろう。それが特に、同学年の男子に見せるとなれば尚更なのかもしれない。実際、秋月の顔は少し前に戻ったかのように真っ赤に染まっていた。

「……わ、」

 秋月は俯き、スケッチブックに視線を落とした。両手はスケッチブックの上に乗せられてあるペンケースに付けられたイルカのキーホルダーを転がしている。

「笑わない……?」

「笑わない」

 即答した。断言した。

「秋月が真剣にやってるってのは、分かったよ。それを笑うなんてできない」

 俺がそう言うと、秋月は丸まるかのように更に俯いた。手はまだキーホルダーを転がしている。心なしか、少し転がす速度が上がっている。

「……じゃ、じゃあ…………ちょっとだけ、ね」

 秋月の手がスケッチブックを止めるバンドに掛かった。

 どうしてだか、胸が高鳴る。

 秋月は一体どんな絵を描くのだろう。それだけが頭を埋めている。

「……え、と」

 恥ずかしいのか、緊張しているのか、秋月の手つきはぎこちない。バンドを外すだけでも相当な時間がかかった。

 そして、長い時間をかけてようやくバンドを外し終わり、スケッチブックを開こうとした。

 その時だった。

「たっだいまー」

「すまないな。時間がかかった」

 そう言って春風と明智が入ってきた。

 バチン、と音がした。見れば秋月のスケッチブックは固く閉ざされていた。バンドもすでに掛けられている。

 秋月はそのまま俯き、スケッチブックと画材を膝の上に置くと肩を小さくすぼめた。

 俺はと言えば、秋月のそんな様子と、入ってきた二人を交互に見て呆然とするしかできなかった。なんてタイミングが悪いんだ……。

「む。どうかしたか?」

 明智はそんなことを言ってくる。お前、せめてもう少し時間を稼いできてくれよ……。

「あー! 鈴! どうかしたの!? この男に何かされた!?」

 真っ赤になっている秋月に目ざとく気付いた春風がそう言ってくる。

「この男って言うな! いきなり胡散臭くなるじゃねえか! 何もしてねえよ!」

 ああもう。めんどくせえ。

「嘘おっしゃい! 鈴がこんなに小さくなってるじゃない!」

「落ち着け、春風。鈴は初めから小さいぞ」

「そういう話じゃなくて!」

「……あ、あぅ」

 春風は無駄にテンパっている。明智は相変わらず明智だ。秋月はその間でわたわたとしているが、何もできそうにない。

「あーあ」

 俺はそう言って、襖に背中を滑らせて座り込んだ。そして、手を伸ばしてテーブルの上の麦茶を取った。

「……ぬる」

 ようやく飲めた麦茶は素晴らしく適度に温かった。

 なんつーか。今の俺の状況みたいなもんだな。

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