005 放課後、屋上
はたして春風のその一言に効果があったのかは難しいところだった。
結果からするとあったのだろう。それ以降、秋月に話しかけようとする奴は誰一人としていなかった。春風も望んでいた予想通りの展開だったのだろう。だが、ひとつ誤算があったようだ。
その一方で、秋月ではなく春風に声をかけようとする男子が急激に増えていた。
春風の宣言した秋月のマネージャー行為と言うのは、逆を言えば、秋月をダシにすれば春風と会話することが出来るとも取れてしまうのだ。穿った見方をしてしまえば『鈴にはダメだけど、あたしには話しかけていいから』と言っているようにも取られてしまう。もちろん当の春風にはそんなつもりはない。
ただ、こいつは分かってない。一般的に見て、『秋月鈴』と『七ツ家春風』。どちらに男子の視線は向かうのか。口に出してしまえば春風にぶんなぐられそうだが、どちらかと問われてしまえば悩む要素がない。即答できるだろう。七ツ家春風だ。
出るところの出た身体。直接的に言えば、大きな胸にくびれたウェストと健康的なヒップ。見る限りスタイルに悪いところが存在しない。同学年で比較すれば間違いなくトップクラスだ。上の学年や先生まで含めてもそれは変わらないかもしれない。憎たらしいことに顔立ちまで整っているし、おまけ程度だが、肩口までで切りそろえられた髪もなかなか似合っている。
あくまで一般的に、標準的な高校生として、秋月と春風のどちらに視線が向かうかと考えれば間違いなく春風だろう。十人に聞けば八人はきっとそう答えるに違いない。
ちなみに俺は残り二人の方だ。こいつはもう見飽きてるんだ。下手すれば毎朝顔を合わせることになるし、少し前までは窓から外を見れば目が合う、なんてこともザラだったのだ。
とは言え俺の様な少数派はそんなにいない。残り一人の春風に見向きもしないような奴は、それこそ同レベルの彼女がいるか、女に興味のない奴に違いない。
そんな一般論をこいつは分かっていない。例えるなら、アイドルのマネージャーもアイドル並だったようなものだ。
結局、あれ以来春風の周りには人が絶えることがなかった。
それは日が変わった翌日も変わっていなかった。
少し遅めの時間に教室に到着した俺の目に入ったのは、俺の隣の席を中心に人口密度が急激に上昇している光景だった。見たところ知らない奴までいたので、おそらくは他のクラスにまで噂が伝っているのだろう。
全く持っていい迷惑である。とてもじゃないが、あそこに近づいていくのは至難の業だ。
春風に近づく野郎どもの建前はあくまでも『秋月と話すため』であり『春風と話すため』ではないのだ。この時ばかりは昨日の真田先生への感謝を撤回したい気分になった。おかげで自分の席に座ることすらままならん。
というか、机が元の位置にすらない。椅子なんてそもそもなかった。見渡せば黒々と健康的に焼けた馬鹿が椅子の上に立っていた。根拠はないが確信できる。あれが俺の椅子だろう。
「…………」
取り返そうと思ったが、どうせ置く場所がないという理由で諦めた。それにあの近くには居たくない。秋月の隣に座ることはいいのだが、それを囲む――厳密には秋月の前に立ちふさがる春風を囲む――男子共の隣にいるのは暑苦しいこと仕方ない。
「……はぁ」
自分の席に着くことを諦め、手提げ鞄だけを机に架けると踵を返す。仕方ないので、代わりに駿介の椅子にでも座っておこう。俺の席からは適度に離れているし、おかげで周りは閑散としていそうだ。ホームルーム前の予鈴が鳴ればこの騒動も落ち着くだろう。
「――――」
駿介の席へ向かおう。そう思ったその時、教室の後に立つ女子と目が合った。
その女子は、遠巻きにこの喧騒を観察しているようだった。
陵星学院の制服。見慣れない顔。一直線に切りそろえられた前髪と、赤い縁の目立つ眼鏡。すらっとした体格がとても特徴的な女子だった。その様子からして、昨日やってきた転校生の一人なのだろう。だが、彼女がうちのクラスに転入してきたのかどうかは覚えていなかった。
「(――あんな子、いたっけな)」
正直、転校生で誰がやってきたのか、自分のクラスでもそのメンバーを把握していなかった。幼馴染の春風ですら見逃していたほどだ。我ながら秋月をどれだけ凝視していたのかと思う。
目が合ったのは一瞬だけだった。彼女は人垣へ視線を移すと、すぐに興味をなくしたかのように視線を一周させ、誰にも気づかれることがないようなさりげなさで、それでいてかつ堂々とした様子で教室を出て行った。
「(――別のクラスだったのかな)」
俺はそんな風に考えながら止まっていた足を動かす。気が付けば駿介の席に向かおうとしていた足が完全に止まっていた。
それが、俺と彼女との、これからの騒動を考えると、あまりにも静かで、あまりにも落ち着いたファーストコンタクトだった。
「少し時間いいか?」
唐突に。そう声をかけられたのは、その日の昼休みが始まってすぐのことだった。
俺の手には弁当箱。どこで食おうかと考えていた俺は突然のその声に驚くことすらままならずキョトンとするしかなかった。
すぐ隣では、この四コマの午前の授業の間に構築された、秋月を守る春風、守られてカーテンに隠れる秋月、そして春風に群がる同級生という構図が展開されている。
休み時間の度に繰り返されたそれは、昼休みになるとその規模を増していた。春風の携帯番号やメールアドレスを聞き出す目的だった野郎共の集まりは、今では噂が広がったのだろう、それに加えて部活動の勧誘も加わって暑苦しさを倍増させていた。更に、秋月の机の周りには人が集まるにしても限度があるため、加わることが出来なかった者は教室の外や空いている場所で順番待ちをしている様子すら見える。
「…………」
予想外の出来事を受け入れることが出来ない俺はつい周囲を見渡してしまった。その結果手に入った情報がそれだ。俺の知りたいことはそんなことじゃない。そう突っ込んでもどうしようもない。
この、俺の目の前に立つ女――前髪が一直線に切りそろえられた、赤い縁の目立つ眼鏡をかけた女は誰で、何の目的で俺に声をかけたんだ。
周りの同級生たちは俺とその女のやり取りなど気に留めることもなく、相も変わらず春風に群れている。初めから俺たちなんで眼中になかったこともあるのだろうが、その女の言った言葉は数年来の友人同士が会話しているかのようにとてもさりげなく、知らない人物であればただの世間話の一つとして取ってしまうようなニュアンスが込められていた。
「――えっと、どういう意味だ?」
弁当箱を机に置いて、俺は聞く。ほぼ同時に腹が鳴った。
「氏の昼食は弁当か? 少し話がしたい。付き合って貰えないだろうか」
彼女はちらりと俺の弁当箱を見てそう言った。硬い口調の言葉ではあったが、とても自然なものだった。
「……その前後が繋がってない気がするんだが。俺の昼飯が弁当について話すことでもあるのか? 妹が作ったただの弁当だぞ」
「すまない、間の言葉が抜けていたな。では、改めて簡潔に纏めて言い直そう。屋上で昼食をとりつつ話をしたい。氏の妹君が作った弁当というのも興味を惹かれるところではあるが、それはまたの機会にしよう」
「……どういうことだ?」
「高校生の氏が妹に弁当を作ってもらう、などそうあることではないだろう? 一高校生としては興味が惹かれるのも仕方ないと思うが」
「いや、そっちじゃねえよ。というか掘り下げるな。なんか恥ずかしくなってきた」
妹に弁当を作ってもらうのって、そう珍しいことなのか? ……いや、まぁ、確かに周りに妹に作ってもらったってやつを見たことは無いけどさ。
「ああ、前者か。屋上で話そうというだけだ。どうもこうも、それ以上の意味はない」
「屋上以外はダメなのか?」
「人のいない場所ならどこでもいいが、私も他に心当たりがない。氏に心当たりがあるのなら任せる」
そう言われても、人気の無さそうな場所なんて他には思い当るところがない。
「――よし、では決まりだな」
「お、おい……」
俺の沈黙を肯定と取ったのか、その女は早々と移動を始める。その行動に呆気を取られる。おい、待て。こいつは俺がちゃんと付いてくると思い込んでいやがる。俺はまだうんともすんとも言ってないんだぞ。
と、心の中で突っ込みを入れている間にも、すでに教室を出ている。こちらを一度も振り向きもせずに。
「……」
なんだこれ。ここですっぽかすのは簡単だが、そうしたら俺が悪者みたいじゃないか。そうぼやいたところで、改めて腹の音が鳴った。
「……はぁ」
ちらりと横を見る。人垣はその密度を増している。なんだこれ。ラグビーでもやってんのかよ。
どうせ、ここで飯を食うのは至難の業だ。というか食いたくない。これ以上俺の腹を待たせるのも辛い。
「仕方ねーな、屋上か。しっかし、暑そうだな」
そう呟いて、人垣の向こうの窓の外を見る。そこには青々とした、夏の名残を残した空が広がっていた。
屋上に出ると予想通りの熱気が待ち構えていた。
「うおっ……」
あまりの熱気に、ドアを閉めようかと思う。だが、その瞬間にドアは誰かの手によって掴まれた。
「他に人はいないようだ」
「……そうかい」
下を見れば目の前の女はドアに足払いを掛けるかのように右足を差し込んでいた。お前は押し売りのセールスマンかよ。
諦めてドアを完全に開く。俺が諦めたのを確認したのか、女は一歩下がられると右手で外を促した。なんで誰もいないんだ。昼の屋上なんて格好の休憩スポットだろ。そうすればこんな焼けた鉄板の上の様な場所に出る必要もないのに。
「どうした? お腹が空いて具合でも悪くなったか?」
「そういうことにしておいてくれ」
そう言って、俺はその女の脇を抜け、屋上に出た。
予想通りの熱気と、予想以上に強い日差しに一瞬で気が滅入る。
「――なんだよ。屋上になんか呼び出して」
「氏に用があってな。なに、悪い知らせではない」
「別にいいよ。早くしてくれればなんだって。昼飯も食わずに来たんだ」
「それは私もだ。一食ぐらい抜いたところで問題はない」
まるでそれが当たり前であるかのように言う。俺は思わず目の前の女を上から下まで見た。
「お前に問題はなくても俺にはあるんだ。ダイエットダイエットと頭を抱える女子と違って、男ってのはな、体力維持のためだけじゃなくて成長するために栄養は必要なんだ」
「なるほど尤もだ。では手短に行こう」
「ああ、そうしてくれ」
そこまで言ってようやく気が付いた。この女子はそもそも何者なんだ。何の用事かはこれから聞けるだろうが、その素性は先に知っておきたい。
「ってかさ」
「どうかしたか? 場所を変えるか? 確かにここは暑いからな」
「んなこと、来る前からわかってたよ」
ここ以上に人気のない場所なんてあるわけがない。何せ、こんな日差しの強い中で屋上に出るような馬鹿なんて俺らぐらいのものだろう。
「というか、お前は誰? ふーあーゆー?」
回りくどく言うのも面倒なだけだったのでストレートに言った。今日会ったばかりの女子に『お前は誰だ』と言うのはどうかと思ったが、実際知らないし、知りたい情報だから仕方ない。しかし予想に反して、俺と対峙する女は呆気に取られたような表情を浮かべた。
「――ふむ」
顎に手をやるとそう小さく呟いた。
「ん? どうかしたのか?」
「いや、その質問は私にとって予想外だったのでな」
そう言って、少し考える素振りを見せる。
「ふむ。では改めて、になるが自己紹介をさせてもらおう。簡潔に言わせてもらえば、先日二年四組に転校してきた者の一人だ。明智という。以後よろしく頼む」
「ああ……って、二年四組?」
「うむ。二年四組だ」
明智と名乗った女は深々と頷いた。
「ふむ。やはり氏は私を気に留めてすらいなかったか。いや、記憶していないというよりは、認識してすらいなかったという方が正しいか」
「あーいや……」
否定はできなかった。というよりは自覚が少なからずある。事実確認をしていないため明智の言葉を完全に信じるのも憚られるのだが、昨日の春風とのやり取りもあるのだ。自分で言ってしまうのも何なのだが、昨日のホームルームの時は秋月に見蕩れてしまっていた。他の転校生は全く見ていなかった。顔見知りの春風を見逃すほどに。
「同じ授業を四つも受けていて気付かれていないというのも悲しいものだな。私は氏の斜め後ろの席だというのに」
成程。席は名前順だった。『あ―けち』だから『あ―きづき』の後ろなのか。
「……悪い。休みボケもきっとあったに違いない」
「いやいい。別に咎めているわけではない。むしろ、氏の自覚があるのであれば私としても話が早い」
明智は「本題に入ろう」と続けると、屋上のドアを閉めた。そしてドアの前に、俺を逃がさないかのように立つ。
「氏は、隣の席の彼女、つまり秋月鈴に気があるな?」
「ぶっ!? いきなり何だ!?」
噴出した。
「手短にしてくれ、と言ったのは氏ではなかったか? 私としても氏を驚かせないように事を運ぶパターンをいくつか別に想定していたのだがな。手短に、と考えた結果、このように言うのが一番適切だと思ったのだ」
「て、手短すぎだろ」
「なら今度からは事前にアンケートを取ることにしよう。それはさておき、間違いないか?」
「……なんでそう思ったんだ」
真っ直ぐな明智のその言葉に、言葉に詰まりつつどうにか返す。
「何、私は氏の斜め後ろ、詰まる所、鈴の真後ろの席にあたるわけだ。講義中に氏が熱心に隣へと視線を向けているのは私には丸見えなのでね」
俺とは打って変って明智は淡々と事実を述べた。そう、事実だ。否定できない。今日の午前中の授業の間、俺は秋月にばかり目線が行っていた。……ずっと見ていたわけじゃないぞ?
「……よく見てるな」
「否定をしない。男らしいな」
「あまりうれしくないぞ」
「私は感謝をされることを言ってないからな。こちらもありがとうと言われてうれしくはない」
「……で、そんな話をしてどうするんだ? 俺に秋月から手を引けって?」
少しではあったが心は平静を取り戻してきていた。そこで昨日の春風の言葉が思い出される。こうして呼び出したからには何らかの思惑があるは間違いない。
「ふむ。そう解釈するか。確かに、私と鈴は旧知の仲だが、私が鈴の恋愛に口を出すつもりはない」
明智は変わらない様子で、さらりと言った。その様子は、俺の言葉が予想通りだったという風にも見える。
「だったら俺にも口を出さないでほしいところなんだが」
「確かに氏の言うことは尤もだ。人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られても文句は言えない」
そう言って、明智は「ただ――」と付け加える。
「いいのか? それでは彼女が氏に振り向くことは間違いなくありえない。いや、それどころか、彼女の隣に座る氏であっても、彼女にとっては苦手な男子の一人、と認識されて終わってしまうだろう」
「……いいさ。別に。元々お前たちが転校してこなければそんな認識のままだったんだ。なかったことって考えればいいよ。それで今まで通り、普通の生活だ」
それに、それを言うならすでに手遅れだ。クラスの誰よりも、真っ先に逃げられたのは俺なのだ。秋月に苦手意識があるかどうかは置いておくとしても、あれだけの拒否反応を見せられたら俺自身が苦手意識を持ってしまっている。授業中に視線を向けてしまっているのも否定はできないが、それより何より、それ以上手を出そうとはもう思えないのだ。それが俺にできる精一杯の頑張り。所詮は一時の夢。隣の席なのを幸運に思う程度。
「――普通、か」
「いいじゃないかよ、普通。普通が一番だ」
「私とて普通を馬鹿にするわけではないよ。氏の考えは尤もだ」
「だったら口出ししないで欲しいな。……余計な期待を持っちまう」
そう言って俺は明智に背を向けると、空を見上げた。暑い。日差しが痛い。早く日の当たらないところに移動したい。弁当が痛んじまう。食わないで持って帰ったら妹になんて言われるか分からねぇ。
「では改めて聞こう。氏の考える普通とは一体どんなものなのだ?」
後ろから声がかかった。変わらない口調。俺を試すような声。
「――――そりゃあ簡単だ。何事もなく学校に通って、――変な女に付きまとわれることも、ひどい後悔もすることもなく学校を無事に卒業するってことだ」
「ふむ。なるほど。それが氏の考える普通か」
振り返ると明智は大きく納得するように頷いていた。
「なんだよ? こんなの大多数の高校生が入学と同時に考えるようなもんだろ? アクシデントが起こってほしいと願うのはまだ脳みそが中学二年生から出れてない奴だけだ」
「いや、氏の考えを馬鹿にするつもりなんかはない。氏の提言する普通はおそらく一般大多数においては通用する普通なのだろう。否定はできないし、私としても納得できる。そもそも、普通の定義なんてものはあり得ないものだからな」
「めんどくさい言い回しだな。何を言いたい」
思わず少し強い口調になる。弁当のお預け状態が原因だ。
「――ただね。氏の考えている普通、というのは確かに大多数の学生が持つものだろう。だが、それは全部同じと言えるか?」
「同じなわけないだろ。さっきお前が言ったように普通の定義なんてものはねぇし、全部が全部同じ考えだなんてありえないのが普通だ」
「その通りだ。普通の定義なんてものはできない。もっと言えば各人が思う普通も違っている」
よく分からなくなってきたぞ。『普通』がゲシュタルト崩壊を起こしかけている。普通に普通が普通で……。
「……」
「だったら、じゃあなぜそのような普通の形が生まれてくるのだと思う?」
「なぜ……って言われてもな。それこそ普通に考えて出てくるものだからわからねーよ。敢えて言うなら、何の違和感もなくすんなり思いつくことが普通なんじゃないか」
本当に分からん。適当なことを言った。なんで俺は昼飯も食わずに『普通』に関する論議をしないといけないんだ。しかし明智は俺のそんな心情もお構いなしに言葉を続ける。俺の昼飯の時間はいつになったらやってくるんだろうか。
「私が思うに、そうやって思われてくる普通というのは、ドラマや漫画、小説、その他さまざまな情報媒体から得られるものが大きいと思うのだ」
「メディアに影響される若者とでも言いたいのか? ……それこそ否定はしないが、それだけで片付けられるのはあんまり面白くないな」
「まだ話は終わってない。それに私もそのようなメディアに影響されて悪いとも思わないよ。ただ、そういった情報媒体で描かれる学校というのは、必ずしも普通の定義にあてはまるものではないのではないか? ボーイミーツガール、熱血部活動、学校を変えてしまうほどの生徒会、そしてまさにドラマのような恋愛。曲がり角を曲がればパンを咥えた少女とぶつかる。ほとんどがそう言ったものではないか? それが普通であるのか?」
「そんなもんが普通のわけないだろ。あんなもんは作りものだし、そうそう起きっこねえから作品として売れるんだ。巷にそんなものが溢れてでもみろ。誰も自分の家をわざわざ金払ってまで見たくはねえ」
「――だったら。では普通、とはどこからくる?」
「逆なんだろう。ああいうことは起きっこない。そう考えるから、その逆が普通になってしまうって感じで」
「うむ。氏の言うとおりだ。だが、それに形はない。つき詰まったところは自分の想像だ」
「なんなんだお前。さっきと言ってることが違うぞ」
「すまない。私は話の展開が少々苦手でね。だが結論としての方向性はブレるつもりがないので安心して欲しい」
「そうかい。だったらその結論ってのを早くしてくれ」
いい加減に暑い。空腹もそろそろ限界だ。
「ふむ。もう少し頑張ってみたかったのだが。なら言おう。結局、氏は自分の頭の中で考え出した、普通という形に収まろうとしているだけだ」
明智はびしり、と真犯人でも暴いた探偵であるかのように指を差してそう言い切った。
「――はぁ?」
「言ってしまえば自己満足。自分が考える普通がこうだから、自分はこれでいいのだ、と」
明智は饒舌に、俺に喋らせる暇も与えずに言葉を紡いでいく。
「氏がそれでいいと思うのならそれでいいだろう。だが、考えてもみるといい。なぜ大多数の人はそのような普通を思い浮かべる? 先に言ったように、ドラマの様な物語が現実に起こりえないからだ。しかし氏は違う。偶然ではあるが、私たちのような女子生徒が大勢転校してきた。身内贔屓かもしれないが、鈴は同級生の中では春風ほどに目立たないが十分に可愛いと思う。それに陵星と言えばお嬢様学校としてのブランドは高い。ああ、別に私が自分を自慢しているわけではないぞ? ともかく重要なのは鈴だ。そのように可愛い女子が自分のクラス、更には隣の席になった。それは運命の出会いとも言えるのではないか? 違うか?」
「……最後のはお前の思い込みだよ。俺が一方的に気になってるだけなのを運命の出会いとは言わねぇ」
「そうか。しかしな。その思い込みは根拠があるからだ。これも言っただろう? 私は氏の斜め後ろの席だ」
「ああ。だから俺のことが誰よりも見えてるってな」
俺は全く気付いてなかったけどな。
「氏だけではない。それ以上に彼女のことも見えている」
「後ろの席だったら、な」
むしろそのくらいしか目に入らないような気がする。
「氏が彼女を気にしているのと同じ、いやそれは言いすぎだな。多めに見積もってもそこまではない。物事は正確に行こう。私の見立てでは、彼女も多少は氏のことを気にしているということだ」
「……嘘だろ? さっきも言ったが、あんまり期待を持たせるようなことは言わないでくれ」
「自分自身に誓って嘘ではない。と言うよりは、私自身の主観なのだがね。残念なことに根拠がない。信じる信じないは氏の一存だ。だが先に言ったように、何もしなければ、それこそ氏の考える普通に収まってしまうだろう。そして、氏も彼女も、何事もなくこの学校を卒業してしまうだろう」
「…………」
沈黙。明智の言うことは納得できなくはない。考えないでも当たり前のことなのだ。転校生が125人もやってくる。そんなことは『普通』起こり得ることじゃない。そしてその中に偶然紛れていた心惹かれた女の子は男性恐怖症で、『普通』だと共学の学校にやってくることは有り得ない。ああそうさ。全部が俺の考えていた『普通』の外にあるものだ。それは明智的に言えばチャンスなんだろう。『普通』だった生活に訪れた、まさにドラマや漫画や小説で起こるような出来事なのだろう。俺もそれは否定できない。それでも――
「俺がどうこうできる、と思ってんのか?」
それとこれは別だ。チャンスが訪れたから手を出す。その発想は間違いじゃあない。ただ、既に俺はその道を一度通っている。そして失敗している。
「さあね? 私にもそれは分からない。憶測で結論を出すのはあまり好きじゃないんだ」
「……なんで俺にここまで口出しするんだ?」
「そうだな。見込みが少なくともあるから、だけでは説得に欠けるかな?」
「……本気か?」
「ああ、もう一度言うが、自分自身に誓って本気だ。大マジだ」
そう言った明智の顔は真剣そのものだった。眼光は鋭い。俺の心の奥底に直接飛び込んできそうなほどに。
「私は氏の信用には足りないか?」
そしてそのまま、探るように言った。俺がどう答えると予想しての質問だろうか。俺はその問いに応えるほどの答えはまだ用意していない。だから、出来るのは思ったことを言うだけだ。
「――悪い。今日会ったばかりの奴を信じろって言われも難しい。俺は秋月のことだって、お前のことだって何も知らないんだ。お前の様子は真剣そのものだ。信じてもいいとは思う。たださ、こうは言いたくないが、お前と秋月が共謀して俺をおちょくっているってのも可能性としては捨てきれない。ああいや、悪い。そう思ってるわけじゃないんだ。ただ……なんて言うかな。この話は俺にとってあまりにも都合が良すぎるんだ。だから、悪いが、疑っちまう」
うまく纏めることなんてできない。だから思ったままを言った。ほんの数分前に初めて言葉を交わした相手に。
「成程」
それに対する答えは短かった。だけど、その言葉はその長さ以上の意味があったように思えた。そして一拍の間をおいてもう一度「成程」と頷くと、明智は言葉を続けた。
「氏は素直だな。だから、私も誠意を見せないといけないな」
明智はもう一度大きく頷いた。
「私は鈴に彼女の苦手意識――要するに男性恐怖症を克服して欲しいんだ。私と鈴の付き合いは長い。彼女がそれで苦しんでいる姿も人一倍見てきている」
明智は淡々と、それでいて意志のこもった声で語る。
「氏なら、彼女の壁を砕くことが出来る、私はそう思ったんだ。――根拠は、特に無いのだがね」
「…………」
「氏と鈴が恋仲になれるように私は全力を尽くそう。だが、もし、それが果たせない時は私は責任を取る。それだけの覚悟が私にはある」
「責任って、何をするんだよ。というか、お前がそこまで本気になる必要だってそもそも……」
明智の顔は真剣そのものだった。
「いや。これは氏や鈴。私以外の誰かの人生に関わることだ。自分だけが安全な場所で見ているだけ、というのも私としては許せないし、氏としても納得はいかないだろう」
「べ、別にそこまでは」
納得いくかどうかは別としても、大体そんなものだろう。他人の人生に自分の人生を賭けるなんて、それこそが一番ぶっ飛んでいる。ある意味そこが納得いかない部分でもあるのだ。理解できるのと、実際に行うとでは違う。
「そうは言うが、失敗した際に、氏は思うはずだ。『これは誰のせいだ』と」
「そりゃ……」
俺のせいだよ。お前のせいにはしないさ。……とは言い切れないかもしれない。そんなものは実際にその時になってみないと分からないものだ。
「…………」
「だから私もそれなりの対価を賭けよう。もし、氏が上手くいかないときは、私が氏と付き合おう」
「……は?」
時間が止まった。思考が停止したとも言える。
「む。言い方が悪かったか。言い直そう。もし、氏の鈴へのアプローチが良い結果に終わらない時は、私が全責任を持って氏の面倒を見よう。生涯を添い遂げよう。つまり、彼女になろう」
この時の俺の顔はどんな表情をしていたのか。教えて貰えるものなら教えて欲しい。きっと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていただろう。狐につままれたというのはこういう時を差すのだろうなぁ。
「勿論、氏がそれを嫌がるのであれば無理にとは言わないし、氏にとって別の良い人が現れるようであればそれも結構だ」
「あ、あの……」
「どうした? 質問なら随時受け付けよう」
「えーと、あの。明智さん?」
「なんだ?」
「本気デスカ?」
そう言ってから気が付いた。この女は、冗談を言っているようには全く見えない。返ってくる答えも分かっている。
「無論、本気だ。何度も言うが、」
「自分自身に誓って嘘は言わない。だろ。分かった。俺が悪かった」
ここ数分、もう十分は経っているだろうか、それだけのやり取りしか行っていないが、分かったことがある。この女――明智は、全く以て冗談を言うつもりがなさそうだ。いや、それも違う。こいつは、冗談を言わない、のだ。いつだって本気。常に全力ど真ん中どストレート。おまけに剛速球とも来ている。とてもじゃないが打ち返すのにも難儀する。
「改めて問おう。氏には選択肢が二つある。何もせずにこれまでと変わらない生活を送るか。それとも、チャンスを掴むか」
「――――」
明智は答えを待っている。おそらく俺が答えるまで。例え何時間とかかろうとも。それを証明するかのように、風が吹きその長い髪が揺れたが、明智は微動だにせず、その仁王立ちのようにどっしりと構えた様子を崩さなかった。
緊張に喉が渇く。明智の真っ直ぐな瞳。曖昧な返事で済ませれる状況ではない。イエスかノー。どちらかを選ばなければならないのだ。
どうしてそうなった?
いや、なるべくしてなったのだろう。それこそ明智に言わせればそう言うだろう。
一年と半分を『普通』に過ごして、『普通』じゃない環境がやって来た。それだけなんだろう。
結局、ここで問われているのは、『今まで通りに過ごす』か『新しい環境に適応するか』なのだ。
暑さはすでに感じていない。感じる余裕がない。空腹も、もはや忘れ去っていた。ただ、喉が渇く。返事は一言。でも、それを口に出すのがとてつもなく重い。
「――信じていいのか?」
心ではまだ迷っていた。それでも言葉が出た。結局は、二学期になって環境が変わった程度のことなのだ。
「私自身に誓って。そして氏にも誓う」
俺の言葉は震えていただろう。それでも、明智の返事は揺れることなく凛としていた。ああ。こうなれば野となれ山となれ、か。
「――じゃあ任せていいんだな」
「ああ任せてくれ」
微動だにしなかった明智が動いた。動かしたのは右腕。その手で自分の胸を叩く。
「お前がそうしたって、らしく見えねぇよ」
「そうか。確かに、胸もあるわけではないからな」
「いや、そういう意味じゃ……」
「ならこうしよう」
そう言って、明智は一歩前に出て、その右手を差し出した。
「契約成立の握手だ」
差し出された右手は、綺麗だった。健康的に白く、そして細すぎないほどに細かった。残暑厳しい強い日差しの下、その腕はとても映えて見えた。
「よろしく頼むよ」
俺はもう迷うことなくその手を取った。
明智の手は予想以上に小さく、少し汗ばんでいた。




