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004

 まるで時間が止まっているようだった。

 少なくとも空気は完全に停止してしまっていた。教室にいる誰もが、教壇の上に立つ女子へと注意を向け、固唾を飲んでその一挙手一投足を逃すまいとしている。


 真田先生から自己紹介を促された彼女は顔を真っ赤にしたまま俯き気味で静止してしまっていた。

「ん、むぅ……。な、名前ぐらいでいいんだぞ」

 そう、真田先生が促すが、彼女が動く気配はない。ちなみに、先生のその台詞も既に何度も繰り返されたものだった。

「あ……ぅ……」

 小さな、とても小さな声が聞こえてきた。か細い、鈴の鳴るような声だった。

 彼女の口が小さく動いているのが見て取れる。だが、そこから発せられるものは言葉になっておらず、そのほとんどが空を切っていた。その動作は、まるで空気を求めて息をしているような必死さもどこか感じた。

 彼女の口の動きを見れたのは、俺を初めとする一番前の列ぐらいのものだろうが、それでも彼女の必死さが伝わっていたのか、クラスメイト達は黙って彼女の言葉を待つことにしているようだった。

 改めて彼女を上から下まで見る。

 教壇の上に立っても、その身長は黒板の中ほどもない。となりに立つ真田先生と比べるとその身長はとても低い。パッと見だと中学生、いや小学生にも見えてしまいそうな気すらする。逆に、長くふわふわした髪は教壇に着きそうなほどに長かった。

 人形のようだな、と思った。彼女の髪はまるで箱から出したばかりの人形のようにウェーブがかりつつも整っており、制服も着付けに文句のつけようがないほどに皺一つなく着こなしている。

 俯き気味の為、その顔は髪に半分ほど隠れていたが、それを見る限りは可愛いと文句なしに形容できる。むしろ、彼女にとっては皮肉な話ではあるのだが、恥ずかしさに差した朱色はとても似合っていてドキリとさせられる。

 気が付けば俺は完全に彼女から目が離せなくなっていた。

「――あ…………あき…………づき…………」

 ぽつり、ぽつり、と彼女が口を開く。

 その声は、とても小さい。注意を向けていなければ聞き逃しそうなほど聞こえるか聞こえないかギリギリの音量だった。

 彼女もその自覚が少なからずあったのだろう。うぅ、とそのまま続けようとした言葉を呑み込むと、小さく息を吸う。

「あ、あきづき……すず……です」

 今度はしっかりと耳に届くほどの声。他のクラスメイトに届いていたのかは分からなかったが、俺の耳は彼女のそれを聞き逃さなかった。

 彼女も今度は納得がいったのか、そそくさと黒板を向くとチョークを手に取った。

 先生が板書する時の様な『カッ、カッ』と言った音はすることがなく、書いているのか書いていないのか分からないような、黒板を指でなぞるような音だけが聞こえる。何を書いているのかは彼女に隠れて見ることが出来ない。

 しばらくして、彼女が横にどけた。すると黒板に書かれた文字が目に入る。

 思わず、目をしかめた。

 いや、その内容に、ではなく、その小ささに。

 黒板には本当に小さく、まるでハガキの宛名でも書くぐらいのサイズの文字が描かれてあった。


『秋月 鈴』


「(――あきづき――すず)」

 心の中で読む。それは彼女が呟くように自己紹介したものと一致する。

「(鈴、って言うのか。なんか――そのまんま、だな)」

 彼女の小さな声、小さな文字。まるで鈴の鳴るような(・・・・・・・)と形容するのを誂えたかのように思える。

「よ、よろ、しく…………お願いします」

 その小さな声――本当に鈴の鳴る様に小さく、とても綺麗な声で彼女はそう言うと完全に視線を落とし、自己紹介が終了した。



 秋月が自己紹介を終えて、他の転校生が自己紹介をしている間もずっと俺の目線は秋月を追っていた。ただ、秋月本人は目を完全に伏せて地面に穴が開くほどに凝視していたので俺と視線が合うことは一度もなかった。

 秋月を初めとする転校生が案内されたのは、予想通りに俺の隣、教室の窓側に並ぶ新たに作られた机の一列だった。席は黒板側から名前順。『あ』で始まる秋月は一番前になった。その隣に座るのは何度か言ったと思うが、俺だ。

 この時ばかりは神に感謝した――と言うと大げさすぎるので、担任であるところの真田先生に感謝することにした。特別何かをしたわけではないだろうが、とりあえず誰かに感謝をしないといけないような気がする。ありがとう真田先生。次の数学の試験はそこそこ頑張ってみるよ。

 しかし、感謝をしているだけでは意味がない。

 視線を改めて左側へと向ける。教壇では真田先生が何か話をしているようだが俺の耳には入ってこない。五感は全て視覚に注がれていた。視線の先にはもちろん秋月が座っている。

 第六感が告げる。

 折角の隣の席。

「(ここは一声かけるべきシーンじゃないか……?)」

 別にいきなり自己紹介で宇宙人がどうのだとか未来人がどうのだとか言いだされたわけじゃないんだ。話しかけたからといって地雷を踏むことはまずないだろう。見る限り、いや見た限り秋月鈴はちょっとシャイで恥ずかしがり屋の女の子なだけなんだ。それは断言できる。だからこそ、ここで声をかけるべきだろう。こういう子は後になればなるほど声をかけるタイミングを失っていくものなのだ。気が付けば彼女は女子のグループの中で大事に箱に詰められていました、なんて後悔してもしきれない。俺に女子のグループを掻き分けてまで秋月にアタックする勇気はない。

 そんな、頭の中で至極勝手な自己判断による自己完結を終えた俺は、改めて視線を秋月へと集中させる。

 気が付けば時はホームルームを終えた放課後に入った直後の教室。すでに帰り支度をしているクラスメイトも多い。

 そんな中、秋月は机を見ていた。手を行儀よく膝の上に乗せ、机のほぼ中心をただじっと見つめていた。ただ、じっと。机に穴が開くんじゃないかと思うほどに、じっと。

 その様子に一瞬躊躇した。あまりにも声をかけにくい雰囲気だ。おそらく秋月は周囲で行われているであろう教室内の喧騒が頭に入っていないだろう。そもそもホームルームが終わったことにすら気付いていないんじゃないか。それが目に見えるほどに、秋月はじっと机の上に視線を落とし、周りのすべてから情報を断絶しようとしていた。

「(う……は、話しかけにくい……)」

 それでも、ここで諦めれば後で泣くのは目に見えている。降ってきたチャンスを棒に振るのはあまりにももったいない。早くしなければ、この石像と化している秋月も今が放課後ということに気が付いてしまうかもしれない。そうすれば見たところシャイな秋月のことだ。早々と教室どころか校舎を後にするに違いない。

 だから俺は意を決して、椅子を引くと、秋月に声をかけた。

「あの、お」

 ――あの、俺。中ッ原っていうんだ。よろしく。

 その言葉を最後まで言うよりも早く、途中で秋月はびくりと肩を震わせた。視線は変わらず机の上に落としている。怯えたようなその様子に、言葉は最後まで出ることなく止まってしまった。

「――――」

 ごくり、と唾を飲み込む。なんだろうか。妙な緊張感に背中が冷たい。


 ただ声をかけるだけだ――。


 名前を覚えてもらうだけじゃないか――。


 謎の緊張感を払いのける様にそう言い聞かせ、続きの言葉を口にしようとした。

「俺、」

「い」

 ほぼ同時だったように感じた。俺の言葉に被さるタイミングで、秋月は小さく言葉を落とした。それは自己紹介の時と変わらない小さな声だった。その予想していないバッティングに俺の言葉は止まりそれ以上の言葉が出ない。

 俺は秋月の言葉を待つことにした。俺の言うタイミングが悪かったのかもしれないし、俺が何か言うのを察知して、先に何か言おうとしてくれたところで被ったのかもしれない。

 だけど――続く言葉は違っていた。

「いやあああああああああああああああ!」

 それこそ予想だにしていない。耳を劈くような、甲高い叫び声。

「――う、うわぁっ!?」

 続いて、机が吹っ飛んできた。

 大げさな形容じゃない。事実だ。

 秋月の叫び声の後に見えたのは、机を俺の方に押し出すように弾き、自分はその反動で逆の窓側へと椅子ごと下がる秋月の姿だった。

 突っ込んできた机を抑えるために俺は咄嗟に手を出す。その瞬間に机が突っ込んでくる。がつん、と骨まで衝撃が響く。幸い、勢いがそこまで強くなかったので抑えることはできた。

 机を掴み安堵してふと見れば、つい数瞬前まで秋月がいた場所は空っぽだった。誰も座っていない椅子がこちらを向いて残されている。

「――え?」

 ようやく、声が出た。むしろ、絞り出されたという方が正しいかもしれない。


 秋月はどこに消えた?


 というか、どうして叫ばれたんだ?


 疑問が頭の中を埋める。

 椅子の後ろの窓は開いている。ぱたぱたと外から吹く風にカーテンが揺れている。

 頭の中が一瞬で真っ白になる。続いて空っぽの椅子が視界を埋める。まさか、落ちたんじゃないだろうな……。

 ふと浮かんだ最悪の展開に背筋が凍る。声をかけようとしたのが切っ掛けで窓から落下なんて、冗談にもならねぇぞ……。

 倒れ込んできた机を正し、それを支えに立ち上がる。視線は窓の先に固定されている。

「――――」

 ごくり、と喉が鳴った。正体不明の感情が頭を埋める。それでも、確認しないと――。

「ちょっと! あんた何やってんのよ!」

 一歩、踏み出そうとしたところで、横から声が飛んできた。

「――え?」

 その声に振り向く。

 瞬間、目の前が真っ暗になった。

「ってぇ!」

 後で聞いた話に寄れば、スイカ割りをした時の様な音が教室中に響いたらしい。

 痛かった。衝撃に首が真横に折れ曲がった。続いてばさりと音を立てて何かが床に落ちた。見れば、開かれたページからは英文が覗かせている。英語の教科書……違う、英和辞典だ。誰だこんな危険物を投げつけた奴は……。

 その答えはすぐ分かった。

 床から顔を上げ、改めて声の下方向を見ると、そこには見慣れない制服を着た女子が立っていた。右腕は見事なフォロースルーで振り切られている。明らかにこいつが犯人だ。俺を見る――睨むといっても差支えがないほどにその眼光は鋭い。甲子園出場のエースでもやっているかのような威圧感を感じさせられる。

 その女子は見慣れない制服、つまり陵星学院の制服ではあったのだが、その顔とその体つきには見覚えがあった。見飽きたそれだった。似た顔がいても困るのだが、顔はともかくこの出るところが出過ぎてしまった感のある高校生離れした体つきはこいつぐらいしか俺は知らない。見覚えのある度合いからいえば、駿介とは比べ物にならないほどだ。正直、もう見たくないほどに。

「……なんでお前がここに居るんだ」

「……ッ!」

 ダッシュで一連の騒動に石像と化していたクラスメイトをかき分けて走る『そいつ』。五メートルほどあった距離は一瞬で埋められた。最後に俺の視界に入ったのは振りかぶられたそいつの右の拳だった。

「いってぇ!!」

 視界が点滅する。脳が揺さぶられるほどのパンチ。この威力と手の速さは俺の知る人物で間違いない。

「なんでじゃないわよ! さっき自己紹介したでしょ!」

 知った声が頭に響いた。視界はぐらぐらと揺れる。目の前に立つ女の輪郭がはっきりとしてくる。

「……はぁ?」

「だから、あたしも転校してきたっての!」

 視界が落ち着いてくる。同時に思考も落ち付いてきた。

「……なんで?」

「なんでも何も、学校がなくなったんだからしょうがないじゃない!」

「いってぇ!?」

 腹部に強烈な痛みを覚える。こいつ、ばかすか殴りやがって。そもそも今回ばかりは何で殴られなきゃならないんだ。ただの八つ当たりじゃねえか。学校がなくなったのは俺のせいじゃねえぞ。

「そんな事より、あんた鈴に何してんのよ!」

「そ、そんな事とはなんだ。げほっ……人の脳細胞を数百万も、殺しておいて」

 ああ、やばい。こいつ本気でボディーを狙ってきやがった。見事に鳩尾に入ったようで息が出来ない。

「いいじゃない。どうせ明後日には全部生まれ変わってるわよ」

「その通りだが……それはお前が言う台詞じゃねえ。お前は俺の何なんだ!」

「信じたくないけど幼馴染。で、今は鈴のボディーガード」

「は?」

 俺の前に立つ女は、真顔でそう言った。いきなり何を言ってるんだこいつは。

「日本語が分からなかった? ボディーガードってのは身辺を警護する人のことよ」

「んなこと、分かってるっつーの! そもそもの意味が分からねぇんだよ!」

「そのまんまの意味よ。どうせ説明しないといけないから、早目に言っておくわ」

 そう言って、この傍若無人な女は一歩、黒板側へと前に出た。視線は教室の角に向いている。よく見れば、そこは少しカーテンが不自然な具合に盛り上がっていた。カーテンの下からはちっちゃな上履きが覗かせている。

「……そんなところにいたのか」

「――っ!」

 俺のその言葉に、ぴくりとカーテンが動いた。間違いなくその裏にいるようだ。良かった、窓から落ちたんじゃなくて。思わず安堵のため息が出る。

 そんな俺を完全に無視して、俺を殴った女はカーテンに隠れている秋月を背で隠すように進むと立ち止る。そして教室全体を見渡すように振り返った。

「……そこの馬鹿がちゃんと聞いてなかったみたいだから、もう一回自己紹介するわ。まだ残ってる人もいっぱいいるみたいだし」

「馬鹿とはなんだ。そう呼ばれるのは心外だ」

 そう呼んでいいのは俺の知る限り一人しかいない。後ろを向けば、その馬鹿が馬鹿面を下げてこちらをニヤニヤと見ていた。この辞書を投げつけてやろうか。

「――人の話を聞いてなかったんだからそう呼ばれても当然でしょ」

 視線を元に戻すと完全にゴミでも見るような目で睨まれていた。今のはお前の話を聞きたくなかったから逸らしたわけじゃない……なんて言っても通用しないんだろうなぁ。この女の視線で相手を殺せるとしたら、間違いなく脳細胞どころが頭が吹っ飛んで殺されているほどの強い視線だった。

「あたしの名前は七ツ家春風。七つの家に春の風で『ななつえはるか』。残念なことにあんたとは幼馴染なの。――ッハ」

 そう言ったときの表情と声は本当に嫌そうなものだった。そこまでは思ってはいなかったが、ここまで言われたら俺も嫌になってきたよ。

「……悪かったな」

「謝らないでいいわよ? 謝られる方が惨めだから。折角、別の高校に行けて離れれたと思ったのに」

 春風は吐き捨てるようにそう言った。言い終わってから本当に「ハッ」と鼻で笑っていたので本気で吐き捨てていたとしか言いようがなかった。こいつ、こんなキャラだったか?

「ま、馬鹿の話をするだけ時間の無駄なんだけど」

「自分から言い出したことじゃねえか……」

「本題はこの子」

「……とうとう無視しやがった」

 春風は俺の発言を完全に無視していた。まぁいい。俺も別にこいつとコミュニケーションを取りたいわけじゃない。俺が聞きたいのは秋月についてだ。

 春風はほんの少しだけカーテンの側へと下がった。カーテンの後ろに隠れているはずの秋月との距離が縮まる。

「この子は、」

 そこまで言って、口を閉じる。そして春風は教室を見渡した。それは、クラスメイトの顔ぶれを再確認しようとしている風に見えた。

 ぐるりと見渡した目が最後に俺へと辿り着く。その目には明らかに見下した、蔑みの彩りが浮かんでいた。

「――男性恐怖症なの。男の人がダメなのよ」

 その言葉に教室がざわついた。帰ろうとしていたクラスメイト達も今ではこちらに注目している。

 しかし、一方で俺は沈黙していた。

 言われてみれば納得のいくところがある。


 初め、教室に中々入ってこれなかったのも、中に入るように声をかけたのが男性の真田先生だった。


 自己紹介が上手くできなかったことも、転校前の陵星学院とは違い、この滝嶋西高が男子生徒の多くいる共学だからだろう。


 声をかけようと少し近寄っただけで叫ばれた上に逃げられたのも決定的だ。身を持って体感している。


 ――そして、今なおカーテンの裏から姿を現そうとしない秋月がそれを証明していた。


「もう一度言うわ。私は鈴のボディーガード。この子に不用意に近づいたりしたら、ただじゃおかないからね!」

 そう言って春風は目の前に座る俺を睨んだ。そうか、俺はもうその『不用意に近づいた男』の筆頭なわけだ。

 春風の後ろには、変わらず秋月がカーテンに隠れている。ちらちらとその頭を覗かせては、ひっこめるのを繰り返している。目の前で起きている状況にきっと秋月自身も付いていけてないのかもしれない。

 しかし、そんな様子も春風は知った様子ではなく、教室の隅に不遜な態度で仁王立ちしたまま辺りを見渡していた。例えるなら、子供を外敵から守る親鳥の様なものだ。ほとんど威嚇に近い。

 春風はしばらくそうして教室中を見渡したかと思うと、視線を緩やかに俺へと戻した。その視線は周囲に向けられたもののどれよりも強い。

 そして、大きく息を吸うと、

「もし、この子に何か用があるのなら、あたしを通すように! 以上!」

 と、叫ぶように言った。

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