011 早朝、特訓開始
『おはよう。起きているか?』
疲れを取るために惰眠を貪っていた俺を現実に引き戻したのは携帯越しのそんな声だった。
「……寝たい」
『うむ。起きているようだな』
携帯を耳に当てたまま、時計を見る。見慣れない数字が浮かんでいた。午前四時。
外はまだ暗い。というよりは真っ暗だ。
「おい明智。いろいろ聞きたいことがあるんだが」
『なんだ? とりあえず私も氏に伝えることがあるが』
なんでも内容に返す明智。
「……こんな早朝から何の用だ」
『ああ。私も伝えようとしたことも正にその事だ』
「じゃあ先に言ってくれ……」
何となく予想はついていたが俺はあえて聞くことにする。
『朝練だ』
「…………」
『ん? どうした?』
「……ああ、予想通り過ぎてな」
『はは。氏がそれだけ私のことを理解してくれているということだな』
受話器の向こうの明智は明朗闊達に答えた。こいつ、今の時間にどんだけ元気なんだ。
『そういうわけで今、氏の家の前にいる』
「マジかよ!」
窓を開けて道路を見る。そこにはジャージ姿でドロップハンドルの自転車を横に携えた明智が立っていた。俺に気付いたのか手を振って返している。うわ、マジだ。ってかやる気満々じゃねーか。というか外は当たり前だが真っ暗だ。
『やはり朝は少し涼しいな。運動するなら朝早くに限る』
「早すぎだろ……。まだ昨日の疲れも抜けてねぇぞ」
昨日はあれから練習と称してひたすら走った。具体的には学校から片道で五キロメートルはある運動公園まで走って行き、着いたら着いたでまた走り、帰りももちろん走るという内容だ。「まずはジョギング程度で体を慣らすべきだ」という明智の意見に賛成したのは間違いないのだが、あそこまで走らされるとは思ってもいなかった。おかげで足は全体的に張っているし、今でも足の裏は痛い。
というかなんで明智は俺の携帯番号を知ってるんだ。あまりにも自然すぎて流そうとしてたじゃねえか。
『何。筋肉痛のうちに次の運動をすると効果があると聞いたこともある。それに時間がないのは氏も分かっているだろう』
「分かったよ……」
『うむ。では、このまま待っているぞ』
そう言い切って明智は電話を切った。
「――はぁ」
もう眠気は消え去っている。むしろ下手に二度寝でもしようものなら、遅刻は免れないだろう。
「行くか」
そう呟いて、俺は着替えることにした。明智もあの恰好だったから、俺もジャージでいいだろう。制服は一応持っていくか。戻ってきてから着替えればいいが、長引いた場合はそのまま言った方が早いかもしれないしな。シャワーは部活動用のがあったはずだ。教科書やノートはかさばるが、これも持っていくか。
そんなことを想いながら着替えて外に出ると、明智がさっきと変わらない様子で立っていた。
「待たせたな」
「いや。予想より早いぐらいだ」
「……それは待ったってことは否定しないのな」
近くで見れば、明智は大きなリュックを背負い、首にはストップウォッチを下げているのが分かった。長い髪は頭の高い位置で結ばれ、綺麗なポニーテールになっていた。見るからに運動部のマネージャーのような恰好をしている。それがまた妙に似合ってるから困ったものだ。
「どうかしたか?」
俺の視線に気づいたのか、明智が聞いてきた。
「ああ。お前を見てるとやる気が出てくるって思ったんだよ」
「ふふ。やる気を出して貰わないと、私も困るからな」
明智がどう感じたのかは分からないが、嬉しそうに笑った。
「お前がどう困るかは知らんが、やれるだけのことはやるよ。でなきゃこんな時間から何かしようとは思わないさ」
外はまだ暗く、陽はまだ昇っていない。腕時計を見れば、針はまだ四時半を指してすらいなかった。いつもならベッドで夢見ている時間だ。
「ま、やると言った以上は手を抜きたくもないからな」
「はは。殊勝な心掛けだ。感心する」
殊勝なのはお前だよ、と言おうとしたが、口まで出かかったところでやめた。こいつはそんなつもりが全くないだろう。そう言われて喜ばないことだって分かりきっている。
「で、移動はしないのか? まさかここで何かするってわけじゃないんだろ?」
家の前で運動するのも決して悪くはないが、色々と用意したのだからできれば場所を変えてしっかりとやりたいところだ。それに、家の前で騒いでいて妹が起きてくるのも避けたい。
「移動はしようと思っているが、もうしばらく待ってくれ。あと一人来る予定だ」
「あと一人って……」
予想通りだった。五分ばかりすると春風が姿を現した。
春風は眠たそうに眼をこすっていたが、その恰好は俺や明智と同じジャージ姿だった。
「おはよう、春風」
「ふぁ~……おはよ……」
「なんで春風が……」
そんな疑問に対して明智はあっさり答えた。
「私が頼んだのだ。春風にコーチをしてもらおうと思ってな」
「春風にコーチ!?」
「……何よ、悪い?」
俺の言葉に春風は不機嫌そうに答える。
「氏は知らないのだな。春風は陵星学院では陸上部に所属していたのだ。一年生の時はあまりに足が速いことで有名になり、ほとんどの部活動から勧誘を受けていた」
「ほとんどの、とは言い過ぎよ」
春風は眠たそうなまま、明智の言葉を軽く否定した。そして、「ふあぁ」と大きな欠伸を一つした。
しかし、明智の言うことだ。あながち嘘でもないだろう。確かに思い返せば、小学校、中学校と春風は足が速かった。中学校では特にそれが目立ち、短距離選手の少なかった陸上部に大会がある度に駆り出されていた覚えもある。
「それに、春風はリレーの第一走者として走ってもらうことになっている。バトンの受け渡しの練習もしないといけないからな」
「……そういうことか」
成程、納得だ。明智がわざわざ俺の家まで迎えに来たのも、春風も一緒に行くからだと考えれば納得がいく。
「ま、分かったでしょ。やるなら早くやるわよ。折角、早く起きたんだから、早目に行動しないと損でしょ」
そう言って、春風はもう一つ、「ふぁあ~」と大きな欠伸をすると、体を伸ばす。なんだかんだ言ってこいつもやる気のようだ。
「そうだな。それでは移動しよう」
明智はそう言ってくるりと向きを変えると、自転車を押して歩き出した。明智は目的地を相変わらず言わなかったが、俺と春風も何も言わずそれに続いて歩く。
そうしてやってきたのは、少しだけ歩いた場所にある海沿いの公園だった。
西滝嶋臨海公園。数年前にできたばかりの公園でグラウンドの隣には大きな図書館もある。その為、日中は平日休日を問わず多くの人の出入りがある。だが今は――
「ここだと人気も少なく、住宅地からも少し離れているからな。それに大きさもそれなりにある。練習には最適だ」
明智はグラウンドに入ると、振り返りつつそう言った。
明智の言う様に、日中は人の多いこの場所も、陽の昇る前の時間だとさすがに誰もいなかった。ただでさえ広いのに、がらんとしたグラウンドは余計に広く見えてくる。時折聞こえてくる『ざざ……ざざ……』という波の音が余計に静けさを演出している。
「では、まずは準備運動だ」
律儀にも明智はそう言った。静かすぎるグラウンドでその声は必要以上に響いた。
屈伸、前屈などの簡単な準備運動と軽いストレッチを終えると、春風が「それじゃあ」と話を切り出した。
「で、セイジ。あんた四百メートル走ったことあんの?」
俺はこれまでの体育祭や体育の授業を思い出す。それに加えて、昨日の練習も。しかし、思いつく限りで四百メートルという距離を走ったことは無い。
「たぶん無い。走ったことがあっても百メートルか二百ってところじゃないか? 勿論、四百メートル以上は走ったことがあるが、ちゃんとした四百メートル走ってのは無い」
自信を持って言い切れる。元々運動が得意な方と言うわけでもない。軽く思い返すだけで今までの短距離走に関しては網羅できる。
俺の言葉が予想通りだったようで、春風はつまらなそうに「ふぅん」とだけ言うと、明智を向いて右手を伸ばした。
「じゃあチカ、それで計ってて。で、あんたはまず走ること」
「走るってどこを?」
「は? 何言ってんのよ。話の流れ的に四百メートルに決まってるでしょ。見た感じここの公園、大体百メートル四方って感じでしょ。だから、ここをフェンスに沿って一周。それで四百メートル。チカにタイムを計ってもらうから」
春風の手は明智から移動し、フェンスを右から左へ、ぐるりと指差した。ようやく陽が昇ってきたのか、どうにか奥のフェンスまで見ることはできた。確かに百メートルずつはありそうだ。
「はいはい。分かった? まずはあんたのタイムを見てから考えるわ。んじゃよーい、」
「ちょ、待てよ!」
俺の返事を聞こうともせず、春風はフェンスを指していた手をそのまま掲げる。もう止まりそうもないその動きに俺は慌てて走る構えを取った。
そして、ちょうどその瞬間、
「どん!」
と、春風の声が公園に響いた。
その合図に慌てて駆け出す。ぎりぎりで体勢を整えれたおかげか、どうにかスタートを切ることはできた。
ザッ、ザッ、ザッ。と、地面を蹴る音が公園に響く。
少しずつ見えてきた周囲の景色が流れるように通り過ぎていく。バックネット、駐輪場、遊歩道。それら一つ一つを確かめる余裕もないほどに、俺はその隣を駆け抜けて行く。
「――ッ!」
一つ目の角。百メートル。
中々いいペースだ。疲れはまだ残っているが、足はそれでも動く。昨日走ったのが、運動のスイッチを入れてくれたように感じる。
だっ、だっ、だっ。と、リズムよく地面を蹴る。その一歩ごとに体は前に、景色は後ろに消えていく。
少しだけ涼しい朝の空気が顔を撫でる。ああ、こうして朝から走るのも悪くはないかもしれない。
そのままの勢いで二つ目の角を曲がる。これで二百メートル。丁度、角向かいには明智と春風が見えた。半分だ……!
――そう思った瞬間だった。
「……ぅはぁっ!」
一歩踏み出して、息を強く吐き出す。そして次の一歩で大きく息を吸う。
「……はぁ……はぁ……」
足が重い。腕も振れないほどに重く感じる。そして、それ以上に体が重い。
ざっ、ざっ、と軽快だった足音も、今ではそのリズムを半分以上に落としている。
「……ん……は――ぁっ!」
そして何より、息苦しかった。
涼しく感じていた朝の空気はもうどこにもない。口を抜けるのは残暑を思わせるほどの生暖かい、不快な空気。改めて感じる、残暑の空気が喉を満たしていく。一口吸う度に、それは急速に体全体を発熱させるようにすら思わせてくる。
あれだけ早く感じた百メートルが遠い。三つ目の角はまだ先にある。
体全体が熱い。汗が体中を濡らしていく。
脚は下から順に痺れを感じてくる。脹脛から太腿へ。一歩進むたびに脚から感覚が消え失せていく。
吐き出された汗が上下に着るジャージへと沁み込み、次第に重くなっていくという錯覚。
――いや、ある意味錯覚ではない。
現実問題、何かを原因にしたくなるほどに体全体の動きが鈍くなっていた。
「……はぁ、はぁっ!」
三つ目の角にようやくたどり着く。その頃には走る速度は完全に落ちてしまっていた。もはやジョギングと変わらないぐらいだ。
「はぁ……はぁ……」
ざっ……ざっ……、と息を吐くタイミングと足を踏み出すタイミングは既に同じだった。
それでも前に進むべく、精一杯足を踏み出すが、その一歩はとても短い。
遠くに見える明智と春風が、本当に遠くに見えた。その距離はもう五十メートルもないだろうが、それ以上にしか感じることが出来なかった。辿り着けないのではないか、とさえ思う。
腕はもはやほとんど振れていない。足も全く上がっていなかった。
ざざっ、ざざっ、と地面からは蹴る音というよりは擦る音が聞こえてくる。
「はぁ…………はぁ…………」
ゴールまであと十メートルほど。残った体力を振り絞り、そこを目指す。
「はい、ゴール」
冷たい声の春風の横を通り抜け、その合図を聞いたところで俺はそのまま倒れ込んだ。死ぬ……。
しかし、春風はそんなことをお構いなしに、労いの言葉をかけることもなく明智の元へと歩き寄る。あー、地面が冷たくて気持ちいい……。
「チカ、タイムは?」
「ふむ。一分十七秒五七だ」
俺にそのタイムが速いのか遅いのかもわからなかった。ただ、分かったのは死ぬほど疲れたということだけだ。
「ふぅん」
春風はこれまた予想通りだったのか、そんなリアクションを取った。
「大体平均通りのタイムだな」
そう答えたのは明智だった。なんでこいつがそんなことを知っているのか気になるが、明智なら知っていそうだとも思う。ああ、くそ。頭が回らなくなってきてやがる。酸欠だ。
「ま、そうね。セイジ。これが四百メートル。分かった?」
「――……はぁ……はぁ」
喉は声を出すというよりは、次の酸素を求めてでしか動いてくれない。だから俺は「分かった」と右手を掲げて示す。
「四百メートルはきついのよ。他の短距離とは違ってね。これから説明してあげるわ」
俺の目の前まで来て、春風は見下ろしながらそう言った。こいつ、俺が動けないからって偉そうにしやがって。
「まず、百メートル走と二百メートル走、それに三百はいいわ。飛ばして四百メートル。これらの違いって判る?」
「――……はぁ……距離?」
そんくらいしか出てこない。というか何も考えたくない。もうここで二度寝をしたい気分なんだ。
「……あんたね。もう少し考えなさいよ。ピーマンとパプリカの違いを聞かれて、色とか、名前とか答えてるようなもんよ」
「言いえて妙だな。さすがは春風だ」
「あ、明智……そこは褒めるとことじゃない……」
くそ、まだ息苦しい。もう少し待ってくれたっていいだろう。ボケだけじゃ話が成り立たねえぞ。
「ちなみに、ピーマンとパプリカの違いはだな、」
「春風、次に進めてくれ……」
放っておくと勝手に解説を始めそうだ。春風も黙って聞いてないで止めてくれ。
「――大きな違いは、無酸素運動と有酸素運動よ」
話が逸れかけていたのを理解したのか、春風は「ふぅ」とため息を付いてそう言った。
「百メートル、二百メートルだと、大体速く走るために息継ぎをしないで一息で走るわ。ま、陸上選手でもなければ二百メートルだとさすがに一息じゃきついとは思うけどね。でも、四百メートルともなれば陸上選手でもさすがに一息じゃ無理。だからどんな選手でも普通に息をしながら走ることになるわ。ここがまず一つ、絶対的に違う点ね」
春風は滑らかに説明をした。おそらく、あらかじめ頭の中で考えていたのだろう。
「で、次に違う点が、ペース配分が必要だってこと。あんたの走るのを見てたけど、あれは典型的に自滅する走り方」
「ふむ。確かに氏は二百メートルまではいいペースだったが、その後は見る見る間に速度を落としていっていたな」
「冷静に言われると、辛いものがあるな……」
そろそろ体力的にはきつくなくなってきたが、代わりに精神的に凹んできた。要するにアレだろ。ペース配分が最悪だったってことだろ。
「ま、セイジも分かってるみたいだから言わないけどね。たぶん、下手すればあのペース配分じゃ小学生と走ってても勝てなかったと思うし」
「春風、言わないと言いながら追い打ちをかけているぞ」
「あら、そう? これでもオブラートに包もうとは思ったんだけど」
「お前のオブラートはなんだ……? ラップか? 裏が透けて見えてんぞ」
むしろ馬鹿には見えないオブラートなのかもしれない。勿論この場合の馬鹿は俺じゃないと信じる。
「まずね、短距離を全力で走り切るためには倍の距離を走り切るだけの体力が必要なの。これは陸上のセオリーとして言われてることよ。つまり、百メートルなら二百メートル。二百メートルなら四百メートルってね。だから、あんたが四百メートルを全力で走ろうと思ったら八百メートルを走り切るだけの体力が必要になってくるってわけ」
「は、八百メートルって……」
四百メートルでこのグラウンドを一周だ。つまりその二倍。二週も走らないといけないのかよ! 一周であれだけきつかったのをもう一周なんて考えるだけで気が滅入ってくる。
「とは言ってもね、別にあんたが三日で八百を走れるだけの体力がつくなんて思ってないわよ。そんなことが出来たら誰も苦労しないでしょ。だから、あんたは四百メートルって距離に慣れてもらうわ」
「――どういう、ことだ?」
ようやく起こせるようになった体を起こして、そう聞き返した。
「つまり、こういうことだな。先程のように、開始半分で体力を使い切っていては後半抜かれてしまう。だから、全体的に走り抜けれるようなペース配分を身につける」
淡々と明智がそう述べた。
「そんなところね。もちろん、体力を増やすのも出来る限りはやってもらうけどね」
春風はそう言うと、屈伸運動を始める。そして、それを続けながら、言葉も続けた。
「とりあえず、四百メートルという距離に慣れること。ペース配分さえしっかりしてればタイムはある程度縮まるから。目標は、そうね……一分台ってところかしら。そうすれば、まず抜かれることは無いわ」
春風は屈伸に引き続き、腕のストレッチを始める。
「じゃ、ついて来て。走るわよ」
「おい待て……!」
俺の制止も構わず、春風はたったったと軽快に走って行った。うわ、マジではええぞ。
「さて、頑張ろう」
それに続いて明智も走って行く。春風ほどではなかったが、それなりに軽快なリズムの走りだった。
畜生。あいつら人の気も知らないで。俺はさっきまでその四百メートルを走ってたんだぞ。出来ることならもうここから一歩も動きたくない。てか、かえってシャワーを浴びて学校をサボる勢いで寝なおしたいぐらいだ。ああくそ。そんなことを考えてる間に春風は百メートル走り切ってやがる。あいつはどんだけ足が速いんだよ! いっそ言葉通り風になってどこかに飛んで行ってくれ!
「こらー! セイジ! 早く来なさいよ!」
そんなことを考えていたら、向かいのフェンスの前から叫ばれた。早朝ということでその声は必要以上に大きく響く。いくら住宅地から離れているとはいえ、この大きさだと周りに聞こえてるだろう。
「人の名前を大声で叫びやがって……」
立ち上がり、遠くの春風を見据える。
「百メートル……長ぇな、畜生」
よーい、どん。頭の中で適当な合図を出し、走り出す。まだ完全に回復しているわけじゃない。足はとてつもなく重い。
ふと見れば、いつの間にか空には太陽が高く昇っていた。
「……はぁ」
これから暑くなりそうだ。全く、気が滅入る。ぶっ倒れなきゃいいけどな。




