010 テスト、そして作戦
それから三人はやいややいやと騒ぎ、これでもかと騒ぐだけ騒ぐと、勉強もまともに出来たか分からない状況のまま帰って行った。女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだ。まぁ、ほとんど騒いでいたのは春風と明智だったのだが。
結局、そんな状況でまともに勉強できるわけもなく、俺は三人が返った後もその余韻に浸る間もなく勉強をすることになったのだ。
とは言うものの。
正直そこまで俺は焦っていなかった。
明智たち転校生とは違って、俺にとっては全て一度はやってきた範囲だ。それに、直前まで夏休みの課題もやっていた。各教科の先生曰く「夏休みの課題から多く出題する」とも言っていたし、直前まで実力テストの勉強をやっていたようなものなのだ。
だから俺は試験勉強もそこそこに早めに寝ることにした。何よりも眠かったのもある。今日は色々とありすぎたのだ。
試験当日の教室はと言えば、ここ二日と変わりなく、秋月の前に春風が立ちふさがり、その春風の周りをクラスメイトが取り囲むという光景が繰り広げられていたのは言うまでもない。こいつらは勉強しないでいいのか、と思ってしまう光景だ。
しかし、一点だけ違っていたことがあった。
クラスメイトが取り囲んでいたのは春風だけではなく、明智もその対象となっていたのだったのだ。
教室に入った瞬間にそれは目に付いた。明智は相変わらずの態度で自分の席から動こうともしていないようで、おかげで俺の席周辺は前日よりひどい人口密度になっていた。
最初驚きはしたものの、よく考えれば納得する。
まず第一に昨日の秋月連れ去り行為だ。春風だって秋月護衛宣言をして注目の的となったのだから、明智だってそうなってもおかしくはない。
次に明智自身だ。あいつは春風と違って自分のことを知っているとは思うのだが、あれはあれで目立つ容姿をしている。一直線にそろえられた前髪に、長く伸ばした後ろ髪。CMに出れるのではと思わされるほどに、赤縁の眼鏡も似合っている。スカートの丈と綺麗に合わさる様に履かれたニーソックスだって似合いすぎている。それに、眼鏡に隠されて分かりにくくはなっているが顔立ちだって整っているのだ。春風に比べれば少しマニアック寄りではあるものの目立たない理由がない。
更にタイミングもきっと悪かったのだろう。
明智の、その正に聡明そうな容姿は勉強に自信のないクラスメイトを夏の誘蛾灯の如く惹きつけていたのだ。誰も彼もが「明智さん。ここ教えてよ」や「明智さんって勉強できそうだよね」なんて言いながら近寄ってくるのだが、明智もまたそれを断ろうとは全くせずに真面目に教えたり答えたりするものだから際限がない。
結局その集団が散開したのはチャイムが鳴り、試験官を務める先生が教壇に乗ってからだった。
そんなことがあったものの、試験自体は無事に終わった。設問はほとんど埋めれたし、手応えもあるので結果は悪いものではないだろう。
それでも試験自体の疲れというものは来るもので、ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴ると同時に俺は机に突っ伏していた。
「はぁ……疲れた」
正直疲れた原因は休み時間毎に発生する席替えイベントのせいに間違いない。春風も明智も場所を変えればいいものの、二人ともそこじゃないといけないと思っているのかその場から動こうとはしなかった。もっとも、前者は秋月が席を動けなかったのと、後者は明智が動こうとしなかったことなので意味合いが変わってくるのだが、そこは突っ込んでも仕方のないことなので流しておく。
「あー、腹減った」
誰にでもなく呟いた。すると返事が返ってきた。
「昼だからな。空腹なのは仕方ないだろう」
見上げると正面に明智が立っていた。そして、どさりと机の上に風呂敷包みが置かれた。
「なんだこれ」
「開けての楽しみだ」
明智はそれ以上は何も言わず、すたすたと教室を出て行った。明智の取り巻きは、教室を出てから気付いたのか、急いで追いかけているようだった。
「何だったんだ?」
そう一人ごちつつ、包みを見た。結構大きい包みだった。
「……ん?」
眺めていると、ほのかにいい香りがした。もしや、この大きさとこの匂いからすると……。
風呂敷を開くとその予想は当たっていた。黒い、梅の花の絵が描かれた蓋が目に付いた。
弁当かよ! それも重箱って!
「うぉお」
見てしまったせいか、腹の虫が騒ぎ出した。これはまずい。試験で頭も使ったんだ。空腹も限界に達してきている。
ここで重箱を開こうかどうしようかと考えていると、包みの中から封筒が零れ落ちた。
手に取ると「中ッ原氏へ」と書かれている。明智の字を知っているわけではなかったが、この無駄に丁寧な明朝体テイストの丁寧な字は明智のものだという気がした。本当に根拠がないが。
開くと中には一通の手紙が入っていた。
本来ならこのあたりで何かの罠を疑うのが俺なのだが、この時ばかりは何も考えていなかった。何しろ空腹が限界だったのだ。目の前に餌を置かれた犬の気持ちがよく分かる。「待て」が無ければ飛びかかりたい。
だが、その「待て」の中身を確かめなければ飛びかかることも止めることも出来ない。
と、そう解釈して俺は何の気なしに手紙を読んだ。
そこには宛名と同じく丁寧な明朝体で書かれた短い文章があった。
『昼食だ。先日と同じ場所で先に食べておいてくれ』
これはどう解釈すればいいんだろうか。
俺に宛てているのは間違いはない。なら、『食べておいてくれ』というのは何を指しているのだろうか。俺は弁当を持ってきていない。今日は試験で半ドンなので家で食おうと思っていたのだ。|明智だってその旨を知っているだろう《・・・・・・・・・・・・・・・・・》。だとすれば、やはり当初の予想通りこの弁当を食べていいということになるのだろうか。
と、そこまで考えたところで俺の思考は停止した。
どうせこれ以上考えたって無駄だ。『先日と同じ場所』はどうせ屋上だろう。何となくだが、明智は屋上で昼飯を食うのが決まりだと思っているに違いない。そんで、屋上で話すこととなると秋月関係の話なのだろう。はっきりとは分からないが、何となくは分かる。それだけで十分だ。俺はそれ以上に腹が減っているんだ。弁当を食っていていいという許可さえ確認できれば後はどうでもいい。
そんな風に頭の中で勝手な理屈をつけた俺の行動は無駄に速く、机の横から鞄をひったくっては、重箱を抱えて教室を飛び出した。向かう先は決まっている。屋上だ。
屋上に出ると俺は日差しなんて気にすることもなく、重箱の包みを解いていった。開いて分かったのは、重箱が五段であることと、丁寧にも二人分の割りばしと丁度二人が座れる程度の広さのレジャーシートが入れられていたことだった。あいつ、初めから屋上で飯を食うつもりだったのか。
だったら朝のうちから言っておけ、とも思ったが、朝からあんな状況だと言いにくかったのかもしれない。まぁ、ただ、明智のことだからサプライズ的に行動しただけとも言い切れないのが難しいところだ。
レジャーシートを敷き、重箱を広げた光景は圧巻だった。
一番上の段には立派な魚の煮物に、間を埋める様に数の子や黒豆、ふわふわの卵焼きが敷き詰められている。
二段目には均等に切られた焼き豚、紅白の蒲鉾、焼いた海老に、昆布巻や酢の物が入っている。
三段目はこれまでの和風とは異なり、ハンバーグや唐揚げなどの揚げ物、それに瑞々しい彩り豊かなサラダなど洋風の料理が敷き詰めてあった。
そして四段目に入ると、半分に稲荷寿司、そして残り半分には俵むすびとご飯類が敷き詰めてある。
最後の一番下の段は何も入っていなかったが、代わりに醤油や小皿が入れてあった。一番下の段は何も入れないという決まりだったというのを思い出して納得しかけたが、これはどうなんだろうか。まぁ、デッドスペースの有効活用という意味ではいいのかもしれない。
これだけのものを目の前に並べられて(並べたのは俺だが)、もう我慢はできなかった。
普段であれば、『食べておいてくれ』と手紙に書かれてあっても相手を待つものだが、この時ばかりは胃袋がそれを許してはくれなかったようだ。
重箱にある全ての料理は美味かった。これまでに食べたことがないほどに美味かった。我が家の調理係であるところの妹には悪いが太刀打ちできるレベルじゃない。そのままホテル辺りで出しても通用するんじゃないかと思うほどだ。
そのあまりの美味さに、明智が食べるということも忘れて全部食べてしまいそうになっていたのもその証拠だ。実際思い出したのは全体の三分の二以上に手を付けてからで、残すにしては少し寂しくなってきたところではあったが、仕方ない。うん。美味かったから仕方ないんだ。
一通り食べ終わるとお茶が欲しくなった。さすがの明智もお茶を用意するのは忘れていたのだ。
「ま、食後の腹ごなしにはちょうどいいか」
「――おや、食後の運動か?」
そう思い、立ち上がり屋上の扉を開けたところで明智を出くわした。そして、明智は予想通りと言わんばかりにペットボトルのお茶を差し出してきた。こいつ、やっぱり全部わかっててやってやがるな。
「――さんきゅ」
とりあえずそう言って受け取ると、陣取った屋上の一角に戻った。
レジャーシートの上に座り、明智から受け取ったお茶を飲む。あーうめぇ!
「弁当はどうだった? 氏の口に合ったか?」
明智は俺の隣に座ると、明らかに減った重箱の中身を見てそう聞いてきた。
「ああ。美味かったよ。空腹は最大のスパイス、だとかいうが、それが無くてもかなり美味かったと思う。悪いな、だから結構食っちまった」
「ふふ。そう言ってもらえると作ったかいがあったな」
「へぇ。やっぱりお前が作ったの、」
か?
そこでふと頭に疑問が走った。
「待て。これ、全部お前が作ったのか?」
「ああ。そうだ。稲荷寿司なんかよく出来ているだろう」
そう言いながら、明智は稲荷寿司を一つ取って、口に運んだ。ああ、確かによく出来ていた。甘いお揚げにピリッと辛いわさびが絶妙に……。
「って違う! お前、何時から作ってたんだよ!」
これだけの量となればかなりの時間がかかったに違いない。それも一人でとなればどれだけかは想像が出来るものじゃない。
「ふむ。確か、四時ぐらいからではなかったかな」
「ちょ、四時って。お前、ちゃんと寝たのかよ!」
「ああ。それなら心配はいらない。私は九時には寝るように心がけているからな」
「早すぎだろ! って、違う! そんな問題じゃない」
別に明智が何時に寝ようが何時に起きようがどうでもいいんだ。
「明智。今日が試験だったのは知ってたよな」
「氏は何を今更言っているのだ。昨日私が言い出したことではないか」
「そりゃ分かってる。だから、なんだが。お前、試験前というか試験当日にこんな弁当作るなよ」
「ふむ? 何かまずいことでもあったか? いや、この場合は文字通り不味いものでも入っていたか?」
「いや、そういうわけじゃねーよ。ただ、試験当日ってのは、もうちょっと別のことを……」
「ああ。なるほど。氏はこう言いたいわけだな。『試験当日ぐらい勉強をするべきだ』と」
「んー……まぁ、そうなるのか。勉強をしろとは言わないけど、早朝からわざわざ弁当を作らないでもいいとは思うんだ。……思ったんだ」
何故だか、明智と話しているうちに自分が間違っているような気がしてきた。何だろうか。一般論を言っているはずなのに、それがこいつには当てはまらないような気がしてしまう。
「まぁ、安心してくれ。私の成績なら心配には及ばない。全教科で九割は取れているだろう」
「……そうか」
なんか、こんな気がしていたんだ。信じたくなかったけど。
「大丈夫だ。私の見たところによると、氏も八割は取れていたように見えたぞ」
「どこで見たんだよ!」
「回収する時にちらり、とな」
「その一瞬で分かったのかよ……」
やべえ、こいつには敵わん。一瞬でも隙を見せたら弱みを握られそうな気すらしてきた。
「後は筆跡の音だな」
「……は?」
「ん? 耳を済ませていれば聞こえてこないか? 個々人で筆圧やら書き順やらが異なるので、把握すれば誰が何を書いているか分かってくるんだ」
「人間業じゃねぇぞ!? ってか、一歩間違えればカンニングじゃねえか!」
「はは。知っているだけで実践したことは無い。まぁ、次に機会があれば氏も試してみればいい。狙いどころは英語のリスニングだな。あれは特にわかりやすい。四択問題だと特にな。分かった瞬間に多くの生徒は印をつけるので、そこさえ聞いてれば正解が分かるのだ」
「そこまで聞いてねえよ! そんな裏技知りたくなかったよ!」
ダメだ。こいつはやばい。色んな意味で。野放しにしておくのは危険だ。まぁ、だからと言って俺に何かが出来るとはこれっぽっちも思えない。くそ、俺はなんて無力なんだ。
そんな俺の苦悩もそ知らぬ振りで明智はひょいひょいと重箱に残された弁当を口に運んでいく。ひょいひょい、ぱくぱく。
あっという間に重箱の中は空っぽになってしまった。こいつ、俺より食うのが早いんじゃないか……?
「――さて、次の話に移ろう」
食べ終わり、ハンカチで口を拭いながら明智はそう言った。
「次の話? なんだよ。カンニングの方法でも教えてくれるのか?」
「それに関しては切に私も知りたいと思う次第だ。カンニングの最適かつ最大の効果を発揮する手段を思案すれば必ずと言っていいほど、カンニングの準備に費やす手間を考えるより初めから試験範囲を覚えておけばいいという結論に到達するのだ。単純なカンニングであればリターンに対してリスクが大きすぎるのも事実だしな」
「……お前って真面目だよな」
「そうでもないさ。私だって無駄な思案も多い」
それでもそれをわざわざ突き詰めて考える辺りが真面目だと思うんだが、まぁ突っ込まないでおこう。そう思っているのならそれでいいや。
「で、結局何なんだ? わざわざ屋上に呼び出したんだろ? どうせ秋月関係の話だとは思うが」
「ふむ。やはり氏は中々理解が早くて助かる」
にやり、と明智が笑う。
「褒めたってなにも出ねえぞ」
「何。見返りを求めているわけではない。強いていえば、やる気を出してくれれば私としては満足だ」
「そりゃ、お前次第だ」
お茶のペットボトルを傾ける。口に慣れた味が広がる。改めて思えば、こいつ、よく俺の好きな種類を知ってたな。
「ではこれを見て欲しい」
はらり、と目の前に一枚の紙が付きつけられた。
「何だこれ」
「説明はそこに書かれているのが全てだ。読む方が私の口で説明するより早いと思う」
「……はいはい。分かったよ」
なになに。
『滝嶋西高校体育祭 競技種目追加のお知らせ』
んー?
『陵星学院生徒の滝嶋西高への多数の転入により、体育祭における競技種目の不足、及び単一種目の長時間化が考慮されます。その為、新種目を導入し体育祭を円滑に進めることに決定いたしました。』
「……見ても分からん」
「そうか。なら仕方ない。私の拙い説明を聞いてくれると助かる」
「初めからそうしてくれてたらもっと助かったよ」
「何事も試してみないと分からないものだ」
そう言って、明智は自分のペットボトルの口を開けて、一口だけ飲んだ。お茶を飲む、その横顔はどこか様になっているような気がした。
「氏と鈴は仲直り、と言えば違うだろうが、先日ほどの両者間の壁は感じられなくなったように思う」
……よく分かってやがる。流石は明智、と言っていい。
「つまり、次に必要なのは、鈴の氏に対する興味を増やすことだ」
「成程。そこで体育祭ってわけか」
「氏は理解が早くて助かるな。そうだ。競技種目も追加される。氏をアピールするにはいい機会だと思うわけだ」
理に適っている提案だ。そもそも、高校生の男子なんてスポーツできる奴がモテるのだ。男子としては女子の気持ちまでは分からないが、運動できるのはカッコよく見えるのだろう。
「で、体育祭はいつなんだ?」
「来週の日曜だ」
「ああ、来週の日曜ね。…………………………は?」
来週の日曜。今日は水曜。週は日曜から始まる。月曜からという認識の奴もいるが正しくは日曜だ。そこをこの明智が間違えるはずがない。ってことは――?
「そう。つまり、四日後だな」
あっけらかんと明智は答える。
「あっさりと言うな! 一週間も時間が無いじゃねーか!」
「四日もあれば十分だな」
「今日を入れて四日だ! 当日までカウントすんな!」
「ふふ、言い直そう。三日と半分もあれば十分だ」
「言い直すな! むしろ撤回しろ!」
「ふむ。どうしてだ。どうしてそこまで頑なに拒否する?」
「そりゃ、決まってるだろ。俺はそこまで運動が得意なわけでもなんでもないんだ。それに三日しか時間が無いって何が出来るんだよ」
俺はこれまで勉強も運動も人並みにしかできた覚えがない。試験や模試を受ければ必ずと言っていいほど、校内でも全国でも志望校内順位でもほぼ中間しか取ったことがない。運動だってその例から漏れたことがない。その先を説明するのは面倒だし、何より自分があまりにも平均的な人間であることを再確認することになるので省略する。身長体重運動能力。その全てで十七歳男子の平均付近だと言えばわかりやすいだろう。
「何、問題はない。大丈夫だ」
「……お前のその根拠の無い自信の出所を知りたいよ」
「それは企業秘密だ」
予想外にベタな返し方だった。
「それにもう遅い。氏のエントリーはすでに済ませている」
「おい待て!」
「だから待てと言われてももう遅いのだ。それに、そう心配しないでいい」
「……何だろう。どこから突っ込んでいいのか分からなくなってきた」
胃が痛くなってきた気がする。なんだろうなぁ、全く。さっき食いすぎた弁当のせいであって欲しいよ!
「そういう時はまず最後まで話を聞いてくれると助かる。言っただろう。私は話の展開が苦手なのだ」
「そうだな……俺もテンパってたよ。とりあえず序論と結論だけじゃなくて、本論を入れてくれ。お前はできてるかもしれないが、俺は頭の整理をしたい」
「私も頭の整理はできてないさ。氏と同程度にはな」
ウソつけよこのアマ。お前がテンパってたらどうなるんだよ。
「……とりあえず話してくれ。お前が『大丈夫』って言うにはそれなりの理由があるんだろ」
こいつと話していると楽しいんだが疲れる。その理由はよく分からん。たぶん、説明が足りないからなんだろうなぁ。
「そうか。なら説明に入ろう。まずは氏をエントリーした競技だ」
明智はどこか不服そうにそう言った。話足りなかったのか。
「氏には最終競技に出てもらう事になった」
「おい待て。最終競技って、クラス対抗リレーのことだろ。それだったらもう決まってるぞ」
確かそのはずだ。夏休みに入る前から運動神経のいい奴同士でそれを話し合っていた。真田先生もそれに対して「早めに決まりそうなら登校日にでも提出しておいてくれ」と言っていたような気がする。
「だから言っただろう。追加競技があると」
そう言って明智は眼鏡をつい、と上げた。悔しいほどに様になっている。
「追加競技は次の六つ。『借り人競争』『パン食い競争』『大玉転がし』『長縄跳び』『バケツリレー』そして『スウェーデンリレー』だ。氏にはそのスウェーデンリレーに出てもらう」
聞いたことのある種目ばかりだった。だが、件のスウェーデンリレーだけは初耳だ。
「それ、どんな競技なんだ?」
スウェーデン風のリレーなのか? スウェーデンってどこだっけ。
「ふむ。やはり氏も知らなかったか。種目決めの際も知っている者があまりいなくてな」
明智はそう言って首をかしげた。そして、携帯を取出し、パパッと操作をする。
「『――スウェーデンリレーとは、陸上競技のリレー種目の一つ。一般に第一走者から順に百メートル、二百メートル、三百メートル、四百メートル、計一キロメートルを四人で走り、このタイムを競う。世界選手権や日本選手権での実施はなく、主に学校の体育祭や大学の記録会などで行われる。1910年代にスウェーデンで人気があった百メートル、二百メートル、三百メートル、四百メートルの「千メートルメドレーリレー」のことを「スウェーデンリレー」と発祥の地から名をとり呼ぶようになった。また、英語をつかう国ではスウェーディッシュリレーと言う。』と、ウィキペディアには書いてある」
「わざわざ調べないでもいいだろ……」
いちいち生真面目な奴だ。
「それで、その最終種目であるところのスウェーデンリレーってのに俺がエントリーされたってことか」
「ああ。アンカーだ」
「ぶはっ」
気を抜いてお茶を含んだところでオチを付ける奴だ。おかげでお茶を盛大に吹き出してしまった。
「な、なんで俺がそんな競技のアンカーなんだ!」
「理由は二つある、が、聞きたいか?」
「……聞きたくないが、聞かない理由はない」
もう出ることは決まってるんだ。その理由ぐらい知りたいに決まってる。ついでにそこに勝算があるのなら尚更だ。
「ふふ。それでこそ氏だ」
その答えに、なぜか明智は笑った。
「ではまず一つ。最終種目、そして距離が伸びていくリレーと言うのは次第に盛り上がっていくものだ。そこでアンカーともなればヒーローになれるのは間違いない」
「……勝てれば、だろ」
俺には勝てる未来は全く見えない。
「安心していい。少なくとも氏に恥をかかせるつもりはない」
「どういう意味だよ。アンカーだろ? それまでにどれだけリードをつけてても、抜かれたら最悪じゃないか。それが優勝に繋がる場面だったら尚更だ。ヒーローどころかヒール真っ逆様だぞ」
「何。単純だ。氏までにリードを付ければいい。それにスウェーデンリレーというのは距離が伸びていくリレーのことだ。リードがいくら詰められたとしても、それは分かりにくい。観客はそれぞれが同じ距離を走るものとして認識してしまう傾向にあるからな。百メートルで三十メートルの差が詰められるのと、四百メートルで三十メートルの差が詰められるのでは比率が異なってくるわけだ。特にスウェーデンリレーが浸透していないこの学校では尚更だろう」
その理屈は分からないでもないが、あまりにも極端な話じゃないか……?
「つまりだな。氏は普通程度に走れればいい。それまでに差はつけておく。抜かれなければいいだけだ」
あっさりと、それ以上ない難しい問題を言いやがった。
「無茶苦茶だな……」
「信じるのも信じないのも氏次第だ。だが、私は私自身に誓って、言ったことは貫こう。氏さえイエスと答えてくれれば、私は氏を勝たせるために全力を尽くす。例え、それが残り三日しかなくてもだ」
どうしてだろうか。こいつはいつだって本気だってことが伝わってくる。嘘は言っていない。俺を担ぐつもりはない。むしろ、別の意味で俺を担ごうとしている。俺という神輿を担ごうとしているのだ。
「……はぁ。乗りかかった船ってやつか。降りても後悔するだけなんだろうなぁ」
「船だけに航海するのかもしれないぞ。安全なクルーズを約束する」
「上手いことを言わないでもいい」
例え航海になったとしても遭難だけはしないだろう。きっとその時はその時でこいつがまた何かの解決策を見つけてくるのだろう。それだったら、確かにそうなるのなら――
「分かったよ」
乗ったっていい。断言できる。こいつの船は泥船じゃない。例え泥でも沈まない、溶けない泥だ。ついでに状況に応じて臨機応変に形も変えられる。
「やるよ。やらないよりマシだからな」
「ふふ。氏ならそう言ってくれると思っていた」
「ま、もうエントリーは終わってるんだろ。だったらすっぽかすわけにもいかねーしな」
と、自分でそう言ったところで思った。スウェーデンリレーって最終種目なんだよな……?
「なぁ、明智。そもそもなんだが、最終種目のアンカーなんかに俺が出てもいいのか?」
普通リレーのアンカーと言えば花形だ。それも最終種目となれば他とは比べようがない。そんなところに、理由も不純、運動能力も平々凡々な俺が出ていいのだろうか。出たい奴は探せばいくらでもできそうなものだが。
しかし、明智は俺のそんな心配をよそに、何でもないかのように軽く頷いた。
「ああ。問題ない。事実確認をしていないので、言い切れるわけではないが、スウェーデンリレーに出ようとする者はそういないようだ」
「そうなのか? 最終種目だろ?」
「うむ。確かにそうなのだが、重要なのは追加種目だということだ。元々足の速い、リレーに出たがる者は既にクラス対抗リレーにエントリーされている。競技種目の参加数制限があるわけではないが、直後に行われるリレーにまで連続で出ようとする者はどのクラスでもそういないようだった」
確かに思い返せば、足の速い奴はクラスにそう多くない。その上、思いつくクラスメイトは全てクラス対抗リレーに出ると言っていたような気がする。
「加えていえば、四百メートルとなれば距離も長いからな。あまり走りたがる人物がいないのも事実だ」
そう言って、明智は眼鏡をついと上げた。そろそろ覚えてきた。こいつがこの仕草をするときは、会話の調子がいい時だ。
その予想通り、明智は「そして、」と付け加える。
「走ろうと思う者が少ないということは、全体的な難易度も下がるということだ。つまり、走り切ることさえできれば、氏でも勝てる可能性は高い」
「……成程な。てか、お前、妙に詳しいな」
「ああ。私は体育祭実行委員になったからな」
「マジかよ! いつの間にそんなもん決まってたんだ……」
「一昨日のホームルームで言われたのだが、氏は気付いていなかったか。今日は試験終了後からその打ち合わせがあっていたのだ」
「俺だけ先に屋上へ行かせたのはそんな理由があったのか」
言われてみれば納得だった。確かに話し合いがあっていたとすれば丁度いい時間だ。
「理解してもらえたようだな。では、さっそく氏には動いてもらおう」
明智はそう言うと、シートの上に広げられた重箱を片付け始めた。重箱の中身は空になっている。こいつ、いつの間に食ってたんだ……。
「で、何をするんだ?」
片付け終わるのを待って俺は聞いた。
「まずは練習だ」
明智はきっぱりと言い切った。
「思ったよりシンプルだな。というかそんな当たり前のことでいいのか? あと三日しかないんだぞ」
「私も特別な練習方法や少年漫画的な特訓を思いつければいいのだが、残念なことに思いつけなかったのだ。それならば、基礎的なことをやるのがいいだろう。それに、四百メートルを走ったことがあるのと、走ったことがないのでは感覚も異なってくるはずだ。一度は走っておいて損はない」
「それも……そうか」
そう言われてみれば、四百メートル走としては走ったことがない。それ以上の距離でなら千五百メートルだったり、シャトルランだったりで走ったことはあるが、やはりペース配分という点では異なってくるだろう。それくらいは陸上の経験がない俺にでもわかる。
「では、行こうか。腹ごなしにも十分な時間が過ぎただろう」
そう言って、明智は最後にレジャーシートを丁寧に折りたたみ風呂敷の中へと仕舞い込むと、それ以上は何も言わずに屋上の扉を開けて校舎の中へと消えて行った。その一連の動作はあまりにも見事で、俺に有無を言わせなかった。
「――はは。ま、有無を言うつもりもないけどな」
そう呟き、明智に続いた。校舎の中は少し涼しい気がした。




