彼氏の店を手伝っていた私に「客の前で彼女面するな」と言われたので、客としても行くのをやめました
「この写真、あなたが撮ったの?」
常連の女性が、卓上のメニューを指した。
焼きたてのホットサンドを、窓際で撮った写真だった。切り口から出る湯気が写るまで、何枚も撮り直したのを覚えている。
「はい。実物がおいしそうに見えるようにしたくて」
「おいしそうよ。これを見て頼んだもの」
嬉しくて、ありがとうございます、と答えた。
女性は食器を下げに来た将吾へ顔を向けた。
「お二人、付き合ってるんですか?」
「いや、手伝いに来てるだけですよ」
将吾は笑い、皿を重ねた。
私の手には、拭き終わった隣のテーブルの布巾があった。
否定する前に、女性が「あら、そうなの」と言った。
奥の席で客が手を上げたので、私はそちらへ向かった。
*
閉店後、椅子をテーブルへ戻してから、私は将吾に聞いた。
「さっき、どうして付き合ってないみたいに言ったの?」
彼はレジの金額を確かめていた。
「ああ。店ではそういうの、出さなくていいだろ」
「聞かれただけだよ」
「客の前で彼女面するなよ。内輪の店みたいに見えるから」
私は、椅子の背から手を離した。
「私、今日、何をした?」
「何って」
「写真を褒めてもらって、お礼を言った。それだけだよね」
将吾はレジを閉めた。
「そうやって、一つ一つ言われてもさ」
新堂将吾、二十九歳。
私が三年間付き合ってきた人は、困ったように頭をかいた。
私は浜岡穂乃香、二十七歳。平日は会社で働いている。
土曜日は、将吾のカフェに来ていた。
店を開けてから、もうすぐ一年になる。
開業前に物件を見に行ったとき、彼は窓の前で立ち止まった。
「ここ、いいな。午前中は光が入るんだ」
私も隣へ立った。
まだ何もない部屋に、四角い光が落ちていた。
「料理の写真、ここで撮れそう」
「撮ってくれる?」
「うん。何作る?」
その夜、彼の部屋でホットサンドを食べた。
味付けを迷っていた彼に、私は少し塩が強いと答えた。将吾は一口食べ、やっぱりか、と笑った。
二回目は、二人ともおいしいと言った。
写真を選ぶときも、一緒だった。
私のカメラの画面をのぞき込み、彼は皿の端まで写っている一枚を指した。
「これがいい。ちゃんと一食分って感じがする」
「じゃあ、これ」
店を持つ夢のために貯めたお金も、借りた物件も、彼のものだった。
私は会社を辞めるつもりはなく、開業して三か月だけ、土曜の昼を手伝うことにした。
給料をもらう仕事ではなく、開業直後だけ、恋人として手を貸すつもりだった。
その後は、必要なら人を探す。そう話していた。
最初の土曜日、一組目の客が帰ったあと、将吾は私と目を合わせた。
「来たな。本当に」
「来たね」
笑った私に、彼も笑った。
閉店後には残った材料でご飯を作ってくれた。帰り道に手をつないで、落ち着いたらどこへ遊びに行くか話した。
だから、三か月が過ぎて、もう少しだけと言われたときも引き受けた。
料理の写真を撮り直し、彼が営業中に見られない予約の問い合わせを、私がまとめるようになった。
平日の昼休みに返信文を作ることもあった。
五か月目に、土曜は月二回までにしたいと伝えた。
以前から参加していた写真サークルへ行きたかったし、家のことも溜まっていた。
「分かった。俺も、ずっと頼むつもりじゃないから」
将吾はそう答えた。
けれど、団体の予約が入ったから、今週だけ頼むと言われた。
次は連休で、その次は新しいメニューを始める日だった。
私が断った週は、一人で営業していた。
平日も、もともと彼一人で回している。
店が開けられないわけではない。それでも土曜日の昼は忙しいと、帰るころには疲れ切っていた。
今週だけ。
私も、その言葉を自分に使った。
二人で出かけるはずだった店の定休日には、彼が寝過ごした。
次の約束も、買い出しを済ませたら一日が終わった。
先月、私が「手伝う日を減らす話、どうなった?」と聞くと、将吾はもう少し売上が安定してからだと言った。
「今、店が大事な時期なんだよ」
目の前の将吾が、同じことを言った。
私は、腰につけていた店のエプロンを外した。
「店が大事なのは分かる。でも、私を大事にしなくていい理由にはならないよ」
「大事にしてないなんて言ってないだろ」
「じゃあ、今日、あの人に聞かれたとき、どうして否定したの」
彼は口を閉じた。
私は答えを待った。
「彼女に手伝ってもらってる店って見られたくないんだよ。俺が一人で始めた店なのに」
「始めたのは将吾だよ。でも、私が手伝ってるのも本当でしょう」
「仕事と恋愛を分けたいって言ってるんだよ」
私は、畳んだエプロンをカウンターに置いた。
「分かった。私も分ける」
将吾が顔を上げた。
「付き合うの、やめよう。店の手伝いも、もうしない」
「そこまで言ってないだろ」
「私は言ってる」
彼はカウンターのこちら側へ回ってきた。
「そんなことで、今までのことを全部捨てるのかよ」
その言い方が、悲しかった。
私は、一緒に試作した夜を捨てたくなかった。
楽しかった時間があったから、今日までここに来ていた。
「もう何か月も、同じ話してるよ。手伝う日も減らないし、二人で出かける約束もなくなる。今日は、付き合ってることまで否定された」
私は一度、息をついた。
「これ以上、何を待てばいいのか分からない」
将吾は、私が畳んだエプロンを見た。
「手伝いが嫌なら、客として来ればいいじゃん」
「あなたに会いに来てたんだよ」
言ってから、喉が詰まった。
私はバッグを取り、店の奥の棚からカメラケースを出した。
「今受けてる予約と、返信が必要なものは、明日まとめて送る。使ってる記録の場所も。一緒に確認してほしいなら、その時間は取る」
「頭冷やしてから、もう一回話そう」
「明日送るのは、引き継ぎの話だけだから」
彼の手元へ店の鍵を置いた。
帰り際、窓のそばのテーブルが目に入った。
カメラケースの持ち手を握り直し、私は店を出た。
*
翌日、予約の一覧と、返事を待っている問い合わせを将吾へ送った。
店のアカウントには彼のスマホからも入れる。これまで使っていた写真は、そのまま使っていいと伝えた。
夜に電話で記録の場所を確認し、私の端末からは店のアカウントをログアウトした。
「来週、土曜だけでも無理?」
最後に彼が聞いた。
「行かない」
「予約、入ってるんだけど」
「昨日話したよ。今後の分は、あなたが決めて」
電話を切ってから、私はしばらくソファに座っていた。
何もしたくなかった。
カメラを出す気にもなれず、夕飯には冷凍してあったご飯を温めた。
食べながらスマホを開くと、写真サークルのグループに次の撮影会の案内が来ていた。
駅の東側にある古い商店街を歩く。土曜の十時集合。雨なら延期。
今までは、行けそうならあとで返そうと思って、そのままになっていた。
私は予定表を開いた。
店の手伝いと入れていた欄を消した。
『参加します』
送ると、主催の人から久しぶりですねと返ってきた。
私は、よろしくお願いしますと答えた。
その日は早めに寝た。
翌朝、会社へ持っていく弁当を作りながら、土曜の天気を確かめた。
*
「浜岡さん、お久しぶりです」
集合場所で声をかけてきたのは、笠原征司さんだった。
二十八歳の会社員。サークルでは前に三回ほど一緒になった。
階段や建物の壁を撮ることが多く、私には同じ色に見える灰色の違いを、面白そうに話す人だった。
「久しぶりです。今日、何撮ります?」
「まだ決めてないです。前に来たとき、建物しか見てなくて、店が一つも開いてなかった」
「何時に来たんですか」
「朝六時」
「それは開いてないですよ」
「なので、今日は何か食べて帰ろうと思ってます」
参加者は六人だった。
主催の人が昼の再集合の時間と場所を伝え、それまでは好きなところを歩くことになった。
私と征司さん、それにもう一人が、駅とは反対側の路地へ向かった。
細い道に面した窓へ、向かいの店の赤いひさしが映っていた。
私が足を止めると、征司さんも振り返った。
「何かあります?」
「窓。この角度だと、赤いところだけ入るんです」
私はカメラを構えた。
窓の端に植木鉢が置かれていて、赤い反射に葉の影が重なっている。
一枚撮って、少ししゃがんだ。
「あ、本当だ」
隣で征司さんもカメラを上げた。
私は立ち上がり、自分の画面を見せる。
「こっちは、植木鉢も入ります」
「俺、赤いのは看板だと思った」
彼の写真では、窓の枠まで写っていた。
ゆがんだガラスの中で、ひさしの線が少し曲がっている。
「これ、いいですね。真っすぐじゃなくなってる」
「そっちの葉っぱの影も好きです」
あとから追いついた参加者も、二人の画面をのぞいた。
みんなで少し位置を変えて撮り、次の道へ進んだ。
昼は六人でそば屋に入った。
私は温かいそばを頼み、注文を終えてからもメニューを見ていた。
「追加します?」
隣の征司さんが聞いた。
「天ぷら、迷ってて」
「単品、ありますよ」
彼が端の欄を指した。
私は店員を呼び、かき揚げを追加した。
征司さんも少し迷ってから、なすを頼んだ。
「朝、何か食べました?」
「食べました。でも、歩いたらお腹すいて」
「俺もです。今日は店が開いててよかった」
そばが来るまでのあいだ、みんなで撮ったものを見せ合った。
食事のあと、征司さんと駅まで歩いた。
「今日は、お店のほうは休みなんですか」
彼は私に恋人がいて、そのカフェを手伝っていたことを知っていた。
前に撮影会の途中で帰るとき、私が話したのだ。
「手伝い、やめたんです。付き合うのも」
征司さんの足が少し遅くなった。
「そうだったんですね」
「はい。今日は、来たかったので」
「窓の写真、撮れてよかったです」
私は頷いた。
彼は何があったのかとは聞かず、駅の手前で、次の撮影会はどこだろうと話した。
帰宅してから、グループへ今日の写真を三枚送った。
赤い窓と、店先の自転車と、そば屋の暖簾。
ほかの人の写真も届き、征司さんは窓の一枚にコメントをくれた。
『帰って見直したけど、あの葉っぱの影、俺のは写ってなかったです』
私も彼の写真を開いた。
路地の奥にある階段が、思っていたより明るく写っていた。
『この階段、どこにあったんですか? 気づきませんでした』
彼が道順を返してくれた。
何度かやり取りしたあと、地図を送りますねと、個別のメッセージが来た。
私はお礼を返し、見つけられなかったのが惜しいと書いた。
『商店街の隣の通りにも、似た階段があります。前に撮ったの、送ってもいいですか』
『見たいです』
届いた写真の一枚には、階段の手前で曲がる細い道があった。
低い建物の上に、空が細長く見えている。
私は写真を拡大した。
この道を、実際に歩いてみたかった。
*
翌週の日曜、私は征司さんと駅で待ち合わせた。
誘ったのは私だった。
写真を見てから、あの道を撮りに行きたいと送ると、彼ももう一度行きたいと答えてくれた。
私たちは商店街を抜け、写真の路地へ入った。
同じ階段でも、光の当たり方が違う。征司さんは上から撮りたいと言い、私は道の曲がるところに立った。
先に撮り終えたほうが待ち、あとで写真を見せ合った。
「この上、何があるんでしょう」
「前は上がってないです」
「行ってみません?」
私が言うと、彼はカメラを肩へかけ直した。
「行きましょう」
上がった先には、小さな公園があった。
特に何があるわけでもなかったけれど、坂の下の屋根が並んで見えた。
征司さんは、屋根よりその端に立つ電柱を撮っていた。
「そこなんだ」
「浜岡さんは?」
「洗濯物。あの黄色いタオル」
彼が、私の見ているほうへ目を向けた。
「黄色、好きですか」
「少し。服だとあまり着ないけど、見ると撮りたくなります」
「俺は錆びたところが気になるんですよね」
「だから、階段」
「そう。全部きれいに塗られたら、ちょっと残念かも」
私は笑い、黄色いタオルの写真を撮った。
公園を出るころ、雨が落ちてきた。
予報では夕方からだったのに、空の半分が灰色になっている。
二人でカメラをしまい、近くの喫茶店へ入った。
「まだ昼にもなってないですね」
注文した飲み物を待ちながら、征司さんが窓を見た。
雨はすぐに強くなり、歩いている人が傘を開いている。
「今日はもう、撮れないかもしれない」
「ですね。さっきの屋根、見られてよかったです」
彼は鞄からカメラを出しかけ、手を止めた。
「電池、残り少なかった」
「予備は?」
「充電器に置いてきました」
「そこに置いておけば、なくしませんね」
「持ってこられないけどね。人には忘れないようにって言ってたのに」
「私、先週、レンズの蓋を探してました。ポケットに入ってました」
「それは俺もやります」
カメラをしまい、仕事の話になった。
征司さんは、平日は物流会社で配送の手配をしているという。
私は、会社では商品ではなく書類の写真ばかり撮っていると話した。
「記録用?」
「そう。内容が読めればいいんですけど、たまに影が入って。窓際に移したら、今度は光って読めなくなって」
「料理より難しいかもしれない」
飲み物が来た。
彼のコーヒーから湯気が上がり、私は思わず目で追った。
「撮ります?」
「今日は飲みます」
私は自分のカップを持った。
ミルクティーは熱かった。
少しずつ飲みながら、好きな映画や、買ったまま読めていない本の話をした。
映画はたいてい一人で見る、と征司さんが言ったので、私は少し迷ってから聞いた。
「笠原さん、付き合ってる人はいるんですか」
「今はいません。映画も、撮りに出かけるのも、一人のことが多いです」
私はカップへ目を落とした。
ミルクティーは、もうすっかり飲みやすい温度になっていた。
雨が弱まったころには、昼を過ぎていた。
二人ともお腹がすいて、その店でサンドイッチを頼んだ。
「今日、ずいぶん喋りましたね」
駅へ向かう道で、征司さんが言った。
「撮ってると、話が途中になるから」
「たしかに。このあと何て言おうとしたんだっけって、忘れることあります」
信号の前で止まった。
彼が、私を見た。
「また、一緒に行きませんか」
「行きたいです」
答えてから、私は次の週末に予定がないか思い返した。大丈夫だった。
「次は、予備の電池持ってきます」
「雨も、もう少し待ってくれるといいですね」
家に着いてから、私はカメラの電池を充電器へ入れた。
スマホを見ると、征司さんから、今日は楽しかったと届いていた。
私も同じ言葉を返し、昼のサンドイッチの話を続けた。
撮れた写真は少なかった。
それでも、来週も会えたらと思った。
*
それから、一緒に川沿いを歩き、古い駅舎を撮りに行った。
サークルの撮影会でも会い、解散したあと二人で食事をした。
征司さんは、食べる店を決めるときに迷った。
私は候補を二つ送るようになったけれど、彼が別の店を見つけてくる日もあった。
「今日は、こっちの麺が気になってて」
「いいですね。私、前に送った店は、また今度でも」
「じゃあ、次はそっち」
そうやって、次の約束ができた。
彼は私が食べたいものを覚えていて、私は彼が階段の途中で振り返るのを覚えた。
隣へ並ぶと、下から見ていたときとは違うものが見えた。
夜、会社から帰って、彼の写真を見ることが楽しみになった。
同じ日に撮ったものでも、私の写真にはないものがあった。
返信を考えながら、次に会ったら聞こうと思うことが増えた。
*
将吾から電話が来たのは、別れて二か月近くたった金曜の夜だった。
帰宅して洗濯物を畳んでいた私は、画面の名前を見て手を止めた。
引き継ぎのあと、彼から短いメッセージは来ていた。考え直してほしいと送られたときには、戻るつもりはないと返した。
何の用か確かめるため、電話に出た。
「穂乃香。少し話せる?」
「うん」
彼は、久しぶりだと言った。
私も、そうだねと答えた。
「店、最近どうなの」
沈黙が続いたので、私から聞いた。
「土曜、昼だけにした。席も全部は使ってない」
「そう」
「一人だと、注文と片づけが追いつかなくてさ。あと、予約の返事が遅れて」
私は、畳みかけていたタオルを膝へ置いた。
「渡した表は?」
「使ってる。でも、営業中に問い合わせが来ても見られないし、閉店したら仕込みがあるだろ」
「手伝う人は、探した?」
彼は少し黙った。
「自分でできると思ってたから」
予約希望のメッセージへ数日返事をしなかったら、客から、別の店に決めたと届いたという。
そのあとも返信が遅れ、前によく予約してくれた人から問い合わせが来なくなった。
常連に、電話だけにするか、予約を受ける方法を整理したほうがいいと言われた。
彼は、そのうちやると答えて、変えていなかった。
「この前、店に来て、空いてると思ったのに座れないって言われた。使ってない席、あるからさ」
私は店の椅子を思い出した。
二人で運んだ日、将吾は並べてから何度も位置を直していた。
「穂乃香がやってたこと、簡単だと思ってた。ごめん」
電話の向こうで、彼が息を吐いた。
「あの日も、変なこと言った。一人でやってるって言いたくて。写真も予約も、手伝ってもらってたのにな」
私は膝のタオルの角を合わせた。
「うん。悲しかったよ」
「やり直せないかな。もう、あんな言い方しない」
黙っていると、将吾が続けた。
「土曜だけでも、戻ってくれない? 前みたいに全部じゃなくていいから」
私は手を止めた。
彼は返事を待たず、私が予約を見てくれるだけでも助かると言った。
「私とやり直したいの? それとも、店を手伝ってほしいの?」
将吾の声が途切れた。
少しして、小さく答える。
「両方だよ。穂乃香が戻ってくれたら、俺も余裕ができるし」
「それから、二人の時間を作るの?」
「そうだよ。店が落ち着いたら」
私は畳み終わったタオルを隣へ置いた。
前にも、そう聞いた。
「戻らない。店が落ち着くまで待つのも、もうやめたから」
「今度は、ちゃんとする」
「私が今、何してるかも聞かないんだね」
彼は答えなかった。
「土曜に戻る話しか出てこないんだね」
将吾が私の名前を呼んだ。
私は、今後は店のことを頼まれても引き受けないと伝えた。
「写真も、もう撮らない。必要なら、お願いする人を探して」
「客としても来ないの?」
「行かないよ」
彼は、そうか、と言った。
電話を切ったあと、私は残りの洗濯物を畳んだ。
楽だったわけではない。昔の彼の声を思い出すと、まだ少し胸が痛んだ。
それでも、来週の土曜を空けようとは思わなかった。
翌日の予定を確かめてから、カメラの電池を鞄へ入れた。
*
その翌日は、サークルのみんなで川沿いを歩いた。
征司さんは新しいレンズを持っていて、撮ったものを何度も確かめていた。
私は、川の水に映る橋を撮った。
帰りに二人でそば屋へ入り、私はそば、征司さんはかき揚げ丼を食べた。
店を出たところで、彼が立ち止まった。
「浜岡さん。次は、カメラなしでも会いませんか」
私は彼を見た。
「どこに行きます?」
「ご飯とか。あと、この前話してた映画でも」
彼は少し迷い、言い直した。
「撮る場所が決まってなくても、会いたくなったんです」
嬉しかった。
私はカメラの入った鞄を持ち直した。
「私も。雨の日、喫茶店でずっと話してたでしょう。あの日も、楽しかった」
「俺もです」
彼が、こちらをまっすぐ見た。
「浜岡さんが好きです。付き合ってもらえませんか」
私も、好きだった。
写真を見て返事が来るのを待っていたし、帰り道には、もう少し一緒にいたかった。
彼が何を面白いと思うのか、これからも聞きたかった。
「はい。私も、笠原さんが好きです」
彼は一度口を閉じ、それから笑った。
「よかった。ここまで、何て言おうか考えてた」
「だから、ご飯のあと、静かだったんですね」
「気づいてました?」
「ちょっと。おいしくなかったのかと思って」
「おいしかったです。かき揚げ、また食べたい」
「じゃあ、また来ましょう」
駅へ歩き始めると、さっきより彼が近かった。
「名前で呼んでもいいですか」
途中で彼が聞いた。
「うん。私も、征司さんって呼びたい」
「じゃあ、穂乃香さん」
呼ばれて、思っていたより照れた。
少し黙った私へ、彼も照れた顔を向けた。
信号で止まったとき、私は空いている彼の手へ、自分の指を伸ばした。
征司さんが気づき、握ってくれた。
青に変わってからも、そのまま歩いた。
*
翌週は、カメラを持たずに映画を見た。
気になった台詞について、帰りの電車に乗る直前まで話した。
次の土曜は、午前中に家のことを済ませ、午後から二人で港の近くへ出かけた。
古い倉庫の前で、征司さんがカメラをこちらへ向けかけた。
「一枚、撮っていい?」
「私?」
「うん。さっき、すごく楽しそうだったから」
私は頷き、どう立つか迷った。
結局カメラを持ったまま、彼を見た。
「変な顔してない?」
「これから撮るから、まだ分からない」
笑ってしまったところで、シャッターが鳴った。
征司さんは画面を見てから、私へ差し出した。
写真の中の私は、口を開けて笑っていた。
髪が少し風で乱れ、カメラのストラップが斜めになっている。
「すごく笑ってる」
「うん。俺、この写真好き」
私も、好きだった。
送ってほしいと頼むと、彼は帰ったら送ると答えた。
「次、征司さんも撮らせて」
「ここで?」
「うん。あの壁、好きでしょう」
彼が振り返った。
倉庫の壁には、雨の跡と、塗り直した部分があった。
「好き。よく分かったね」
私はカメラを上げた。
彼は壁へ寄ってから、またその模様を見ていた。
「もう少しこっち。壁じゃなくて、私のほう」
彼が振り向いたところで、一枚撮った。
帰宅してから、送ってもらった写真を保存した。
私が送った征司さんの写真には、さっそく気に入ったと返事が来た。
『次の土曜、どうしようか』
続けて届いたメッセージへ、私は、行ってみたかった展示のページを送った。
征司さんは昼を食べたい店を教えてくれた。
地図を見れば、少し遠回りすれば両方に行ける。
『ここでご飯食べて、展示に行く?』
『そうしよう。時間調べるね』
私は予定表を開き、待ち合わせの時間を入れた。
保存する前に、今日の写真をもう一度見た。
カメラを抱えた私が、こちらを見て笑っていた。
~完~
お読みいただき、ありがとうございました。
料理をおいしそうに撮っていた穂乃香が、最後には自分の笑っている写真を気に入る。その一枚まで、見届けていただけて嬉しいです。
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