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【短編】ソープランドへようこそ

作者: 越路 秋葉
掲載日:2026/10/15

――長野市権堂、裏路地の小さな石鹸専門店。


午後19時42分。


長野市権堂。


佐藤健一は、肩を落として歩いていた。


その日、上司に理不尽なことで怒鳴られた。


自分に責任のない案件だった。経緯を説明しようとしたが、「言い訳するな!」の一言で片づけられた。挙げ句の果てには、関係部署への謝罪まで押しつけられた。


もう、何もかも嫌だった。


権堂アーケードを抜け、いつもなら通らない裏路地へと足を向ける。飲食店の換気扇から漂う夕食の匂い。どこかの店から聞こえる笑い声。狭い路地に並ぶ古びた看板。


そのときだった。


見慣れない看板が目に入った。


ソープランド


佐藤は足を止めた。


「……え?」


古い木製の看板には、金色の文字が踊っていた。その下には、控えめな文字でこう書かれている。


――世界の石鹸、取り揃えております。


「いや、どういうことだよ……」


長野県には、いわゆる性風俗店としてのソープランドはないはずだ。


なのに、なぜ権堂のこんな裏路地に、堂々とソープランドを名乗る店があるのか。


しかも、看板の横に出された黒板には、白いチョークでこう書かれていた。


『本日のおすすめ マルセイユ石鹸』


「……石鹸?」


ガラス戸の向こうを覗くと、棚いっぱいに商品が並んでいた。色も形もさまざまな、小さな石鹸の数々。


どう見ても、石鹸屋だった。


佐藤は数秒迷った。


そして、仕事帰りの疲れと、ほんの少しの好奇心に負けた。


カラン、コロン。


「いらっしゃいませ」


出迎えたのは、30歳くらいの美しい女性だった。


艶のある黒髪を肩のあたりで揃え、白いブラウスに落ち着いた色のロングスカート、清潔な白いエプロンを身につけている。


整った顔立ちに、柔らかな微笑み。


「ええと……ここは?」


「はい。ソープランドです」


「……あの、そういうお店ではないんですよね?」


「そういうお店、とは?」


「いや、その……」


女性は一瞬きょとんとしたあと、事情を察したように微笑んだ。


「ああ、なるほど。ご心配なく。石鹸のお店ですよ」


「石鹸……」


「はい。国内外の石鹸を集めております。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」


佐藤は、ひとまず胸をなで下ろした。


同時に、妙な疲労感がこみ上げてきた。


「……なんだか、今日は本当に疲れました」


「まあ。お疲れなんですね」


女性は事情を尋ねるでもなく、静かに頷いた。


「よろしければ、ゆっくりご覧になっていってください。急いでお買い物をする必要もありませんから」


その声は、思いのほか落ち着いていた。


*


店内は、外から想像したよりも広かった。


壁際の棚には、日本各地の石鹸が並んでいる。


牛乳石鹸、米ぬか石鹸、炭石鹸。信州産の素材を使ったものもあれば、フランスのマルセイユ石鹸、イタリアのオリーブ石鹸、モロッコの黒石鹸まである。


小さな木札には、それぞれ産地や特徴が丁寧に書かれていた。


「すごいですね。こんなに種類があるんだ」


「ありがとうございます。父が始めたお店なんです」


「お父さんが?」


「ええ。世界中の石鹸を集めるのが好きな人で。今も買い付けに飛び回っていますよ」


女性は、少し困ったように笑った。


「先月はフランス、その前はモロッコ。今頃はトルコにいるんじゃないでしょうか」


「……お店は大丈夫なんですか?」


「父は、私が店番をしているから大丈夫だと思っているみたいです」


彼女は肩をすくめた。


「実際、こうして何とかやっていますけどね」


棚から薄茶色の石鹸を取り出す。


「こちらは米ぬか石鹸です。香りは控えめで、昔ながらの使い心地を好まれる方に人気があります」


「へえ……」


「こちらはラベンダーの香り。こちらはオリーブオイルを使ったものです」


女性の説明は、決して押しつけがましくなかった。


商品の特徴を話しながら、ときおり佐藤の表情を確かめる。何かを売りつけようという雰囲気はない。ただ、目の前の客が気に入るものを見つけられたら、それでいい。そんな接客だった。


佐藤は、石鹸を眺めながら小さく息を吐いた。


職場では、上司の怒鳴り声がまだ耳に残っていた。


自分は悪くない。そう説明したかった。


けれど、説明すればするほど「口答えするな」と言われるのが目に見えていた。


そんなことを考えていると、女性がふと口を開いた。


「お客様。今日は、ずいぶんお疲れのようですね」


「……顔に出てますか?」


「少しだけ」


女性は困ったように微笑んだ。


「無理にお話しにならなくても大丈夫ですよ。お買い物をしている間くらい、ゆっくりなさってください」


佐藤は、思わず女性の顔を見た。


仕事で失敗したと決めつけられ、言い分を聞いてもらえず、ただ一方的に怒鳴られた。


そんな日の終わりに、事情も知らない相手から「無理に話さなくてもいい」と言われる。


それだけのことが、妙にありがたかった。


「……じゃあ、この米ぬか石鹸をください」


「ありがとうございます」


女性は石鹸を薄紙で包み、紐を掛けた。


それから、もう一つ小さな包みを添えた。


「こちらは試供品です。北海道のラベンダー石鹸。お休みの日にでも、ゆっくりお使いください」


「えっ、いいんですか?」


「もちろん。石鹸は使っていただいてこそですから」


女性は、いたずらっぽく笑った。


「それに、せっかくうちのお店を見つけてくださったんですから」


「見つけたというか……偶然ですけどね」


「ふふ。それでも、ご縁です」


佐藤は紙袋を受け取った。


会計を済ませてから、ふと思い出したように尋ねる。


「ところで……どうしてソープランドって名前なんですか?」


女性は、ああ、と小さく声を上げた。


「やっぱり、そこが気になりますよね」


「そりゃあ、まあ……」


「父の趣味なんです。世界中の石鹸が集まる場所だから、ソープランド。『石鹸の楽園』という意味だそうですよ」


「……お父さん、ずいぶん思い切りましたね」


「私もそう思います」


女性は、くすくすと笑った。


「実は、開店したばかりの頃は大変だったんですよ」


*


「おい、あそこに何ができたんだ?」


店が開店したのは、今から数年前のことだった。


権堂の裏路地に突然取り付けられた、金色の看板。


ソープランド


開店初日、隣の飲食店の主人は、店先で腕を組んで首をひねった。


「この辺に、そんな店ができるなんて聞いてないぞ……」


向かいの居酒屋の女将も、看板と店の入口を交互に見比べた。


「ちょっと、あれ、どういうお店なの?」


「さあ……。でも、あの看板は、どう見ても……」


二人は顔を見合わせた。


その日の昼過ぎ、とうとう隣の飲食店の主人が、意を決して店を訪ねた。


「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが」


「はい、いらっしゃいませ」


店の奥から出てきたのは、開店準備をしていた店主の娘だった。


「ここ、ソープランドって看板が出ていますけど……」


「はい。石鹸のお店です」


「……石鹸?」


「国内外の石鹸を販売しています」


女性が棚を指し示すと、主人はしばらく黙り込んだ。


棚には、きれいに包装された石鹸がずらりと並んでいる。


「本当に、石鹸だけ?」


「はい」


「……いや、別に疑っているわけじゃないんですが」


主人は頭を掻いた。


「この辺りで商売するなら、近所の店にも一言あっていいんじゃないかと思いましてね。それに、あの看板じゃ、ちょっと誤解を招くというか……」


「申し訳ありません。父がどうしても、この名前にしたいと言いまして」


「お父さんが?」


「はい。今は海外へ買い付けに行っていて、留守なんです」


主人は、店内をもう一度見回した。


「……まあ、石鹸屋ならいいんですけどね」


そう言い残して店を出たものの、表情はまだ半信半疑だった。


その日の夕方には、裏路地の店々で噂になっていた。


「本当に石鹸屋らしいよ」


「じゃあ、どうしてあんな名前にしたんだ?」


「店主の趣味だって」


「趣味で済む看板かねえ……」


数日後、今度は向かいの居酒屋の女将が訪ねてきた。


「ねえ、お姉さん。本当に石鹸しか売っていないの?」


「はい。本当に石鹸だけですよ」


「じゃあ、ちょっと見せてもらおうかしら」


女将は店内を見て回り、ラベンダー石鹸を一つ買って帰った。


翌日、彼女はまた店にやってきた。


「昨日の石鹸、よかったわ。香りがきつくなくてね」


「ありがとうございます」


「それに、あんたのところ、いろんな石鹸があるのねえ。今度、主人にも買ってあげようかしら」


それがきっかけだった。


近所の店主たちも、少しずつ店に足を運ぶようになった。


飲食店の主人は炭石鹸を買い、居酒屋の女将はラベンダー石鹸を気に入り、近くの理髪店の主人はオリーブ石鹸を仕入れのついでに買っていくようになった。


もちろん、今でも新しい客が看板を見て立ち止まることはある。


そのたびに、近隣の店主たちは笑いながら言うのだった。


「大丈夫だよ。あそこは本当に石鹸屋だから」


*


「……そんなことがあったんです」


女性は、懐かしそうに笑った。


「最初は、近所の方たちにもずいぶん心配をかけました。でも今では、皆さんよくしてくださいます」


「なるほど……」


佐藤は、改めて店内を見回した。


壁いっぱいに並ぶ石鹸。その一つひとつに、遠い国の市場や工房から運ばれてきた物語がある。


そして、この店を守り続ける女性がいる。


「お父さん、今も買い付けに行っているんですよね?」


「はい。本人は、世界中の石鹸を集めるまでは引退できないと言っています」


「全部集めるなんて、無理でしょうに」


「私もそう言っているんですけどね」


女性は楽しそうに笑った。


「父は、まだ見ぬ石鹸が世界のどこかにあると思うと、じっとしていられないんだそうです」


「なんだか、すごい人ですね」


「ええ。ちょっと困った人ですけど」


そう言う女性の顔には、父親への愛情がにじんでいた。


佐藤は紙袋を持つ手に目を落とした。


たった数百円の買い物だった。


けれど、店の中で石鹸を眺め、女性と話している間だけは、仕事のことを忘れていた。


「……また来ます」


「はい。いつでもお待ちしております」


扉のベルが、軽やかに鳴った。


*


その夜、佐藤は久しぶりに湯船に湯を張った。


米ぬか石鹸を手のひらで転がす。少しずつ泡が立ち、柔らかな感触が指先を包んだ。


いつもなら、風呂に入っている間も仕事のことを考えてしまう。


明日の会議。上司への報告。押しつけられた謝罪の後始末。


けれど、その日は違った。


泡を立てている間だけは、何も考えずにいられた。


「……ああ、極楽だ」


もちろん、仕事の問題が解決したわけではない。


翌朝になれば、また職場へ行かなければならない。


それでも、今だけはいい。


佐藤は湯船に肩まで沈み、長く息を吐いた。


*


翌週の金曜日。


午後19時36分。


佐藤は、再び権堂の裏路地を歩いていた。


今度は迷わなかった。


古い木製の看板。金色の文字。


ソープランド


カラン、コロン。


「いらっしゃいませ」


カウンターの向こうに、あの女性がいた。


「あ、こんばんは。この前の米ぬか石鹸、よかったです」


「あら、それは嬉しいですね」


「今日は別のものを試してみたくて」


「では、今日はどんなお気持ちで?」


佐藤は少し考えた。


「……今週も、なんとか乗り切った気持ちで」


「それは、お疲れさまでした」


女性は、棚の奥から緑色の包みを取り出した。


「でしたら、こちらはいかがでしょう。オリーブオイルの石鹸です。ゆっくり泡立てていると、なかなか楽しいですよ」


「じゃあ、それを」


「かしこまりました」


女性は石鹸を包みながら、ふと思い出したように尋ねた。


「ところで、お客様。初めていらしたとき、何か誤解されていませんでしたか?」


佐藤は、思わず吹き出した。


「いや、まあ……看板が看板ですから」


「よく言われるんです」


「店名、変えないんですか?」


女性は少しだけ遠い目をした。


「父が大切にしている名前ですからね」


そして、いつものように笑った。


「それに、最初は驚かれても、こうして二度目に来てくださる方がいらっしゃるでしょう?」


「……確かに」


「私は、それが嬉しいんです」


佐藤は、紙袋を受け取った。


店を出る直前、ふと思い立って振り返る。


「また来ます」


「はい。いつでもお待ちしております」


扉のベルが、軽やかに鳴った。


*


それから半年後。


佐藤は、職場の後輩を連れて店を訪れた。


「先輩、ここ、本当に大丈夫なんですか?」


「大丈夫だって。石鹸屋だから」


「いや、店名が……」


「いいから入れ」


カラン、コロン。


「いらっしゃいませ」


女性は、いつもの笑顔で二人を迎えた。


「こいつ、最近仕事で落ち込んでるんですよ。何かいい石鹸、ありませんか?」


「まあ。それでは、ゆっくりご覧になってくださいね」


後輩は戸惑いながら、店内を見回した。


棚には、世界中から集められた石鹸が並んでいる。


日本の石鹸。フランスの石鹸。遠い国の市場で買い付けた石鹸。


それぞれに違う色や形、香り。


女性は後輩に、白い石鹸を一つ差し出した。


「こちらは、香りの穏やかな石鹸です。急いで答えを出さなくてもいい日には、こういうものもいいですよ」


後輩は、そっと包みを受け取った。


「……ありがとうございます」


その声は、少しだけ明るくなっていた。


店の外では、権堂の夜が深まっていた。


路地を行き交う人々の頭上で、ネオンが静かに瞬いている。


看板には、今日も堂々と掲げられていた。


ソープランド。


その下の小さな文字も、変わらない。


――世界の石鹸、取り揃えております。


店主の父親は、今頃また異国の市場を歩いているのだろう。


新しい石鹸を探し、見知らぬ職人と話し、いつか娘の店に並べる品を選んでいるに違いない。


そして権堂の裏路地では、娘が今日も店を開けている。


仕事に疲れた人も、誰かに傷つけられた人も、理由もなく気持ちが沈んでいる人も。


ほんの少しだけ立ち止まり、自分のために何かを選ぶことができる場所。


今日も店主は、訪れた客に穏やかに尋ねる。


「お客様。今日は、どんなお気持ちでいらっしゃいましたか?」


まぁ…権堂にそんな店はないんですけどね(笑)

これも性風俗ではないシリーズで

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