【短編】ソープランドへようこそ
――長野市権堂、裏路地の小さな石鹸専門店。
午後19時42分。
長野市権堂。
佐藤健一は、肩を落として歩いていた。
その日、上司に理不尽なことで怒鳴られた。
自分に責任のない案件だった。経緯を説明しようとしたが、「言い訳するな!」の一言で片づけられた。挙げ句の果てには、関係部署への謝罪まで押しつけられた。
もう、何もかも嫌だった。
権堂アーケードを抜け、いつもなら通らない裏路地へと足を向ける。飲食店の換気扇から漂う夕食の匂い。どこかの店から聞こえる笑い声。狭い路地に並ぶ古びた看板。
そのときだった。
見慣れない看板が目に入った。
ソープランド
佐藤は足を止めた。
「……え?」
古い木製の看板には、金色の文字が踊っていた。その下には、控えめな文字でこう書かれている。
――世界の石鹸、取り揃えております。
「いや、どういうことだよ……」
長野県には、いわゆる性風俗店としてのソープランドはないはずだ。
なのに、なぜ権堂のこんな裏路地に、堂々とソープランドを名乗る店があるのか。
しかも、看板の横に出された黒板には、白いチョークでこう書かれていた。
『本日のおすすめ マルセイユ石鹸』
「……石鹸?」
ガラス戸の向こうを覗くと、棚いっぱいに商品が並んでいた。色も形もさまざまな、小さな石鹸の数々。
どう見ても、石鹸屋だった。
佐藤は数秒迷った。
そして、仕事帰りの疲れと、ほんの少しの好奇心に負けた。
カラン、コロン。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは、30歳くらいの美しい女性だった。
艶のある黒髪を肩のあたりで揃え、白いブラウスに落ち着いた色のロングスカート、清潔な白いエプロンを身につけている。
整った顔立ちに、柔らかな微笑み。
「ええと……ここは?」
「はい。ソープランドです」
「……あの、そういうお店ではないんですよね?」
「そういうお店、とは?」
「いや、その……」
女性は一瞬きょとんとしたあと、事情を察したように微笑んだ。
「ああ、なるほど。ご心配なく。石鹸のお店ですよ」
「石鹸……」
「はい。国内外の石鹸を集めております。どうぞ、ごゆっくりご覧ください」
佐藤は、ひとまず胸をなで下ろした。
同時に、妙な疲労感がこみ上げてきた。
「……なんだか、今日は本当に疲れました」
「まあ。お疲れなんですね」
女性は事情を尋ねるでもなく、静かに頷いた。
「よろしければ、ゆっくりご覧になっていってください。急いでお買い物をする必要もありませんから」
その声は、思いのほか落ち着いていた。
*
店内は、外から想像したよりも広かった。
壁際の棚には、日本各地の石鹸が並んでいる。
牛乳石鹸、米ぬか石鹸、炭石鹸。信州産の素材を使ったものもあれば、フランスのマルセイユ石鹸、イタリアのオリーブ石鹸、モロッコの黒石鹸まである。
小さな木札には、それぞれ産地や特徴が丁寧に書かれていた。
「すごいですね。こんなに種類があるんだ」
「ありがとうございます。父が始めたお店なんです」
「お父さんが?」
「ええ。世界中の石鹸を集めるのが好きな人で。今も買い付けに飛び回っていますよ」
女性は、少し困ったように笑った。
「先月はフランス、その前はモロッコ。今頃はトルコにいるんじゃないでしょうか」
「……お店は大丈夫なんですか?」
「父は、私が店番をしているから大丈夫だと思っているみたいです」
彼女は肩をすくめた。
「実際、こうして何とかやっていますけどね」
棚から薄茶色の石鹸を取り出す。
「こちらは米ぬか石鹸です。香りは控えめで、昔ながらの使い心地を好まれる方に人気があります」
「へえ……」
「こちらはラベンダーの香り。こちらはオリーブオイルを使ったものです」
女性の説明は、決して押しつけがましくなかった。
商品の特徴を話しながら、ときおり佐藤の表情を確かめる。何かを売りつけようという雰囲気はない。ただ、目の前の客が気に入るものを見つけられたら、それでいい。そんな接客だった。
佐藤は、石鹸を眺めながら小さく息を吐いた。
職場では、上司の怒鳴り声がまだ耳に残っていた。
自分は悪くない。そう説明したかった。
けれど、説明すればするほど「口答えするな」と言われるのが目に見えていた。
そんなことを考えていると、女性がふと口を開いた。
「お客様。今日は、ずいぶんお疲れのようですね」
「……顔に出てますか?」
「少しだけ」
女性は困ったように微笑んだ。
「無理にお話しにならなくても大丈夫ですよ。お買い物をしている間くらい、ゆっくりなさってください」
佐藤は、思わず女性の顔を見た。
仕事で失敗したと決めつけられ、言い分を聞いてもらえず、ただ一方的に怒鳴られた。
そんな日の終わりに、事情も知らない相手から「無理に話さなくてもいい」と言われる。
それだけのことが、妙にありがたかった。
「……じゃあ、この米ぬか石鹸をください」
「ありがとうございます」
女性は石鹸を薄紙で包み、紐を掛けた。
それから、もう一つ小さな包みを添えた。
「こちらは試供品です。北海道のラベンダー石鹸。お休みの日にでも、ゆっくりお使いください」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。石鹸は使っていただいてこそですから」
女性は、いたずらっぽく笑った。
「それに、せっかくうちのお店を見つけてくださったんですから」
「見つけたというか……偶然ですけどね」
「ふふ。それでも、ご縁です」
佐藤は紙袋を受け取った。
会計を済ませてから、ふと思い出したように尋ねる。
「ところで……どうしてソープランドって名前なんですか?」
女性は、ああ、と小さく声を上げた。
「やっぱり、そこが気になりますよね」
「そりゃあ、まあ……」
「父の趣味なんです。世界中の石鹸が集まる場所だから、ソープランド。『石鹸の楽園』という意味だそうですよ」
「……お父さん、ずいぶん思い切りましたね」
「私もそう思います」
女性は、くすくすと笑った。
「実は、開店したばかりの頃は大変だったんですよ」
*
「おい、あそこに何ができたんだ?」
店が開店したのは、今から数年前のことだった。
権堂の裏路地に突然取り付けられた、金色の看板。
ソープランド
開店初日、隣の飲食店の主人は、店先で腕を組んで首をひねった。
「この辺に、そんな店ができるなんて聞いてないぞ……」
向かいの居酒屋の女将も、看板と店の入口を交互に見比べた。
「ちょっと、あれ、どういうお店なの?」
「さあ……。でも、あの看板は、どう見ても……」
二人は顔を見合わせた。
その日の昼過ぎ、とうとう隣の飲食店の主人が、意を決して店を訪ねた。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが」
「はい、いらっしゃいませ」
店の奥から出てきたのは、開店準備をしていた店主の娘だった。
「ここ、ソープランドって看板が出ていますけど……」
「はい。石鹸のお店です」
「……石鹸?」
「国内外の石鹸を販売しています」
女性が棚を指し示すと、主人はしばらく黙り込んだ。
棚には、きれいに包装された石鹸がずらりと並んでいる。
「本当に、石鹸だけ?」
「はい」
「……いや、別に疑っているわけじゃないんですが」
主人は頭を掻いた。
「この辺りで商売するなら、近所の店にも一言あっていいんじゃないかと思いましてね。それに、あの看板じゃ、ちょっと誤解を招くというか……」
「申し訳ありません。父がどうしても、この名前にしたいと言いまして」
「お父さんが?」
「はい。今は海外へ買い付けに行っていて、留守なんです」
主人は、店内をもう一度見回した。
「……まあ、石鹸屋ならいいんですけどね」
そう言い残して店を出たものの、表情はまだ半信半疑だった。
その日の夕方には、裏路地の店々で噂になっていた。
「本当に石鹸屋らしいよ」
「じゃあ、どうしてあんな名前にしたんだ?」
「店主の趣味だって」
「趣味で済む看板かねえ……」
数日後、今度は向かいの居酒屋の女将が訪ねてきた。
「ねえ、お姉さん。本当に石鹸しか売っていないの?」
「はい。本当に石鹸だけですよ」
「じゃあ、ちょっと見せてもらおうかしら」
女将は店内を見て回り、ラベンダー石鹸を一つ買って帰った。
翌日、彼女はまた店にやってきた。
「昨日の石鹸、よかったわ。香りがきつくなくてね」
「ありがとうございます」
「それに、あんたのところ、いろんな石鹸があるのねえ。今度、主人にも買ってあげようかしら」
それがきっかけだった。
近所の店主たちも、少しずつ店に足を運ぶようになった。
飲食店の主人は炭石鹸を買い、居酒屋の女将はラベンダー石鹸を気に入り、近くの理髪店の主人はオリーブ石鹸を仕入れのついでに買っていくようになった。
もちろん、今でも新しい客が看板を見て立ち止まることはある。
そのたびに、近隣の店主たちは笑いながら言うのだった。
「大丈夫だよ。あそこは本当に石鹸屋だから」
*
「……そんなことがあったんです」
女性は、懐かしそうに笑った。
「最初は、近所の方たちにもずいぶん心配をかけました。でも今では、皆さんよくしてくださいます」
「なるほど……」
佐藤は、改めて店内を見回した。
壁いっぱいに並ぶ石鹸。その一つひとつに、遠い国の市場や工房から運ばれてきた物語がある。
そして、この店を守り続ける女性がいる。
「お父さん、今も買い付けに行っているんですよね?」
「はい。本人は、世界中の石鹸を集めるまでは引退できないと言っています」
「全部集めるなんて、無理でしょうに」
「私もそう言っているんですけどね」
女性は楽しそうに笑った。
「父は、まだ見ぬ石鹸が世界のどこかにあると思うと、じっとしていられないんだそうです」
「なんだか、すごい人ですね」
「ええ。ちょっと困った人ですけど」
そう言う女性の顔には、父親への愛情がにじんでいた。
佐藤は紙袋を持つ手に目を落とした。
たった数百円の買い物だった。
けれど、店の中で石鹸を眺め、女性と話している間だけは、仕事のことを忘れていた。
「……また来ます」
「はい。いつでもお待ちしております」
扉のベルが、軽やかに鳴った。
*
その夜、佐藤は久しぶりに湯船に湯を張った。
米ぬか石鹸を手のひらで転がす。少しずつ泡が立ち、柔らかな感触が指先を包んだ。
いつもなら、風呂に入っている間も仕事のことを考えてしまう。
明日の会議。上司への報告。押しつけられた謝罪の後始末。
けれど、その日は違った。
泡を立てている間だけは、何も考えずにいられた。
「……ああ、極楽だ」
もちろん、仕事の問題が解決したわけではない。
翌朝になれば、また職場へ行かなければならない。
それでも、今だけはいい。
佐藤は湯船に肩まで沈み、長く息を吐いた。
*
翌週の金曜日。
午後19時36分。
佐藤は、再び権堂の裏路地を歩いていた。
今度は迷わなかった。
古い木製の看板。金色の文字。
ソープランド
カラン、コロン。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうに、あの女性がいた。
「あ、こんばんは。この前の米ぬか石鹸、よかったです」
「あら、それは嬉しいですね」
「今日は別のものを試してみたくて」
「では、今日はどんなお気持ちで?」
佐藤は少し考えた。
「……今週も、なんとか乗り切った気持ちで」
「それは、お疲れさまでした」
女性は、棚の奥から緑色の包みを取り出した。
「でしたら、こちらはいかがでしょう。オリーブオイルの石鹸です。ゆっくり泡立てていると、なかなか楽しいですよ」
「じゃあ、それを」
「かしこまりました」
女性は石鹸を包みながら、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、お客様。初めていらしたとき、何か誤解されていませんでしたか?」
佐藤は、思わず吹き出した。
「いや、まあ……看板が看板ですから」
「よく言われるんです」
「店名、変えないんですか?」
女性は少しだけ遠い目をした。
「父が大切にしている名前ですからね」
そして、いつものように笑った。
「それに、最初は驚かれても、こうして二度目に来てくださる方がいらっしゃるでしょう?」
「……確かに」
「私は、それが嬉しいんです」
佐藤は、紙袋を受け取った。
店を出る直前、ふと思い立って振り返る。
「また来ます」
「はい。いつでもお待ちしております」
扉のベルが、軽やかに鳴った。
*
それから半年後。
佐藤は、職場の後輩を連れて店を訪れた。
「先輩、ここ、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だって。石鹸屋だから」
「いや、店名が……」
「いいから入れ」
カラン、コロン。
「いらっしゃいませ」
女性は、いつもの笑顔で二人を迎えた。
「こいつ、最近仕事で落ち込んでるんですよ。何かいい石鹸、ありませんか?」
「まあ。それでは、ゆっくりご覧になってくださいね」
後輩は戸惑いながら、店内を見回した。
棚には、世界中から集められた石鹸が並んでいる。
日本の石鹸。フランスの石鹸。遠い国の市場で買い付けた石鹸。
それぞれに違う色や形、香り。
女性は後輩に、白い石鹸を一つ差し出した。
「こちらは、香りの穏やかな石鹸です。急いで答えを出さなくてもいい日には、こういうものもいいですよ」
後輩は、そっと包みを受け取った。
「……ありがとうございます」
その声は、少しだけ明るくなっていた。
店の外では、権堂の夜が深まっていた。
路地を行き交う人々の頭上で、ネオンが静かに瞬いている。
看板には、今日も堂々と掲げられていた。
ソープランド。
その下の小さな文字も、変わらない。
――世界の石鹸、取り揃えております。
店主の父親は、今頃また異国の市場を歩いているのだろう。
新しい石鹸を探し、見知らぬ職人と話し、いつか娘の店に並べる品を選んでいるに違いない。
そして権堂の裏路地では、娘が今日も店を開けている。
仕事に疲れた人も、誰かに傷つけられた人も、理由もなく気持ちが沈んでいる人も。
ほんの少しだけ立ち止まり、自分のために何かを選ぶことができる場所。
今日も店主は、訪れた客に穏やかに尋ねる。
「お客様。今日は、どんなお気持ちでいらっしゃいましたか?」
まぁ…権堂にそんな店はないんですけどね(笑)
これも性風俗ではないシリーズで




