第8話 開店初日、客が女公爵しか来ない
三枝宗一郎が異世界へ転移して六日目の朝、元食堂の一階には、大小さまざまな硬貨がテーブルいっぱいに並べられていた。
「……駄目だ。分からない」
宗一郎は腕を組み、銀色や銅色の硬貨を睨んだ。
隣に座るニーナが、朝から三度目になる説明を辛抱強く繰り返す。
「ですから、銅貨十枚で大銅貨一枚、大銅貨十枚で小銀貨一枚、小銀貨十枚で銀貨一枚です」
「そこまでは分かったんだよ。問題は、この世界でパン一個がいくらで、普通の人が一日にいくら稼いで、食堂の一食にどれくらい払うのが普通なのかなんだ」
「なるほど。三枝さんは硬貨の数え方ではなく、価値の感覚が分からないのですね」
「そう、それ」
日本円へ換算できれば話は早いのだが、当然そんな便利な相場表は存在しない。
宗一郎は昨日、城を出る際に仮採用五日分の賃金を受け取っていた。硬貨の枚数だけを見れば少なくないが、それが一週間暮らせる額なのか、三か月暮らせる額なのか、まだ実感がない。
「例えば、このパン」
宗一郎は朝市で買ってきた丸いパンを持ち上げた。
「大銅貨一枚でした」
「じゃあ、これを基準に考えるか。一食でパン二個分くらいなら高くない?」
「城下の安い食堂なら、大銅貨三枚から五枚くらいです。肉が多い店なら小銀貨一枚近くすることもあります」
「なるほどね」
宗一郎は木片へ数字を書こうとして、手を止めた。
文字が書けない。
「……ここでもか」
「私が書きますよ」
「悪いなあ。店を始めようとしてる本人が値札すら書けないって、かなり致命的だよね」
「そのうち覚えればよいではありませんか」
「四十二歳から異世界語の読み書きか。学生時代より真面目に勉強する羽目になりそうだな」
ニーナは楽しそうに笑いながら、宗一郎の代わりに木札へ文字を書いた。
本日の料理。
鶏肉と根菜の煮込み。
焼きパン。
葉野菜の和え物。
これで大銅貨四枚。
宗一郎としては、まず品数を増やしすぎないことにした。
飲食店経営の経験はない。
仕入れもまだ安定していない。
しかも一人で厨房を回さなければならない。
最初から十種類も二十種類も料理を並べれば、確実に自分の首を絞める。
「本当に今日から開けるんですか?」
ニーナが尋ねた。
「正式な届け出は?」
「昨日オズワルドさんが済ませてくれた。税のことも説明してもらったよ。半分くらいしか理解できなかったけど」
「大丈夫なのですか?」
「大丈夫じゃないから、あとでまた聞く」
「三枝さんらしいですね」
「分からないまま分かったふりする方が怖いからね」
この数日で、宗一郎は異世界にも税金があることを知った。
剣と魔法の世界へ来たからといって、税務から逃げられるわけではなかった。
むしろ戸籍も銀行口座もないだけ、日本より面倒である。
「異世界に来たらもうちょっと夢のある苦労をすると思ってたんだけどなあ」
「例えば?」
「魔王を倒せと言われるとか」
「魔王?」
「いないの?」
「少なくとも私は聞いたことがありません」
「じゃあいいや。いないならいない方がいい」
宗一郎は店内を見回した。
昨日の午後からニーナやガレス、それに騎士数名まで手伝ってくれたおかげで、埃だらけだった食堂は見違えるほどきれいになっていた。
六卓あるテーブルは磨き直され、ぐらついていた椅子は宗一郎が修理した。厨房の竈も火が入る。
店名だけは、まだ決まっていない。
「看板、どうするんです?」
「とりあえず『食堂』でいいよ」
「それだけ?」
「名前って難しいんだよ。変なのつけて十年後に後悔するより、思いつくまで保留」
「十年続けるおつもりなのですか?」
「そこまで深く考えて言ってないよ」
宗一郎は笑った。
それでも、「十年後」という言葉が妙に胸へ残った。
十年後、自分はこの世界にいるのだろうか。
日本へ帰っているのか。
そもそも帰る方法が見つかるのか。
答えは何一つない。
だから今日できることをやる。
それでいいと宗一郎は思うことにしていた。
「じゃあ、開けるか」
表の扉を開ける。
朝の空気が店内へ流れ込んだ。
城下町はすでに活気づいている。
大通りには荷車が行き交い、店先では商人が声を上げ、遠くから鍛冶場の金属音が響いてくる。
立地は悪くない。
昨日は騎士たちも「絶対来る」と言っていた。
レティシアなど、開店初日の一番客になると宣言していた。
「昼には忙しくなるかもしれないな」
「私もお手伝いしましょうか?」
「ニーナは城の仕事があるだろう」
「今日は午前だけお休みをいただきました」
「そうなの?」
「閣下が『宗一郎一人では心配だ』と」
宗一郎は少し眉を寄せた。
「俺、そこまで頼りなく見えるかな」
「料理以外については、かなり」
「否定できないのが悲しいなあ」
午前九時。
客は来なかった。
まあ、食堂なので朝から混むとは思っていない。
宗一郎は余裕を持って下ごしらえを進めた。
午前十時。
誰も来ない。
「まだ昼じゃないからね」
「そうですね」
午前十一時。
店の前を何人か通った。
中を覗いた者もいた。
しかし入らない。
「……少し嫌な予感がしてきた」
「まだ大丈夫です」
「ニーナ、気を遣わなくていいよ」
十一時半。
煮込みはちょうどよく仕上がった。
鶏肉は柔らかく、根菜にも味が染みている。
宗一郎が自分で味見しても悪くない。
それでも客は来ない。
十二時。
「おかしい」
宗一郎は店の入口で腕を組んだ。
「昨日、あれだけ騎士が来るって言ってたよな」
「言っていました」
「全員嘘つきだったのか?」
「騎士団に喧嘩を売るような表現はやめた方がいいと思います」
「じゃあ全員急用?」
「その方が穏当です」
十二時十分。
道の向こうから馬が一頭走ってきた。
宗一郎は嫌でも分かった。
乗っているのはレティシアだった。
「来た!」
「本当に来ましたね」
「いや、客が来るのはいいんだけど……公爵が馬で食堂に乗りつけるって、営業的にはどうなんだろう」
レティシアは店の前で馬を止めると、護衛より先に降りた。
「宗一郎!」
「いらっしゃいませ」
「うむ」
「ちゃんと客として来たんですね」
「約束したからな」
レティシアは店内へ入ると、昨日宣言した窓際の席へ迷わず座った。
「そこ、予約席じゃないですよ」
「今日は空いているではないか」
「まあ、それはそうですけど」
空いているどころか、他に一人もいない。
護衛として来たガレスが入口から店内を見回し、微妙な顔をした。
「……他の客は?」
「見れば分かるでしょう」
「いや、その……」
「言わなくていいです」
「閣下が一番乗りですね」
「うむ」
レティシアはなぜか誇らしげだった。
「私が最初の客だ」
「競争相手いませんでしたけどね」
「勝ちは勝ちだ」
「何と戦ってるんです?」
宗一郎は煮込みとパン、葉野菜を運んだ。
「大銅貨四枚です」
「安いな」
「そうですか?」
「城下なら、この量で五枚でもおかしくない」
「最初なので。味もまだこの世界の人に合うか分からないし」
「私は好きだぞ」
「公爵様は最近、俺が作れば何でも食べるでしょう」
「納豆は食べない」
「そこだけ頑固ですよね」
レティシアはさっそく煮込みを食べ始めた。
一口目で頷き、二口目からは話さなくなった。
「味、どうです?」
「美味い」
「塩加減は?」
「よい」
「肉、柔らかすぎない?」
「私はこれくらいが好きだ」
宗一郎は少し安心した。
少なくとも料理そのものが駄目なわけではなさそうだ。
問題は客が来ないことだった。
十二時半。
まだレティシアしかいない。
「おかわり」
「はい」
十二時四十分。
「もう一杯」
「食べすぎですよ」
「朝から仕事をした」
「普通の人はそれを理由に三杯食べません」
十三時。
レティシアはまだいた。
「公爵様」
「何だ」
「城へ戻らなくていいんです?」
「今日は領都視察の日だ」
「昨日まではそんな予定なかったですよね?」
「今朝入れた」
「それ、俺の店に来るためですよね?」
「結果として近くを通っただけだ」
「馬で城から一直線に来ましたよね」
ガレスが顔を逸らした。
レティシアが彼を睨む。
「副団長、何か言いたいことがあるなら言え」
「いえ。護衛として、閣下の通った道を正確に把握していただけです」
「余計な把握をするな」
「仕事ですので」
宗一郎は笑った。
しかし内心では、少し焦り始めていた。
午後一時を過ぎても客が増えない。
昨日までの騎士たちの騒ぎは何だったのか。
「もしかして料理が高い?」
ニーナが首を振る。
「高くありません」
「店構えが入りづらい?」
「普通だと思います」
「俺の顔?」
「それは……」
「そこで迷わないでくれる?」
「冗談です」
「ニーナも言うようになったなあ」
そのとき、店の外を通った親子連れが足を止めた。
小さな男の子が、厨房から漂う煮込みの匂いに引かれたらしい。
「母ちゃん、いい匂い」
「こら、行くよ」
母親は店内をちらりと見た。
そしてレティシアを見た瞬間、顔色を変えた。
男の子の手を引き、そのまま早足で去っていく。
宗一郎は瞬きをした。
「……今の」
ニーナも気づいたらしい。
ガレスまで気まずそうに咳払いした。
宗一郎はゆっくりレティシアを見る。
「公爵様」
「何だ」
「もしかして原因、あなたじゃないですか?」
「なぜだ!」
「今の人、あなた見て帰りましたよね?」
「私が何をした」
「何もしてないから困ってるんですよ」
レティシアは本気で分かっていないらしい。
宗一郎は外へ出た。
ちょうど通りかかった八百屋の主人に声をかける。
「すみません、ちょっと聞いていいです?」
「お、おう」
「あの店、入りづらいですか?」
主人は宗一郎の肩越しに店内を見た。
窓際にはレティシア。
入口近くには副団長ガレス。
外には公爵家の紋章をつけた馬と護衛騎士二名。
主人の顔が引きつる。
「……入りやすいと思うか?」
「やっぱり?」
「領主様が飯を食ってる店に、俺みたいな八百屋が入れるわけねえだろう」
「普通に入っていいんですよ」
「お前さんはそう言うけどな」
主人は声を潜めた。
「もし俺が隣の席で大きな音立てたり、汁をこぼして閣下の服にかけたりしたらどうする?」
「拭けばいいんじゃないですか?」
「首が飛ぶわ!」
「飛びませんよ!」
「お前さん、閣下に慣れすぎだ!」
八百屋の主人は逃げるように去っていった。
宗一郎は店へ戻った。
「原因が分かりました」
「何だった」
「あなたです」
「納得できん」
「この店の客層を全力で追い払ってます」
レティシアは不満そうに腕を組んだ。
「私は普通に飯を食べているだけだ」
「それは分かってます。でも一般のお客さんは、公爵と同じテーブルの並びで飯なんて食べられないそうです」
「同じ卓ではないぞ」
「そういう問題じゃありません」
「では、私は来るなというのか?」
その言葉だけ、少し調子が変わった。
先ほどまでの言い合いとは違い、レティシアは本当に不満そうだった。
宗一郎は困った。
店としては客が必要だ。
しかし、レティシアも客である。
しかも開店前から楽しみにしていたのを知っている。
「来るなとは言いませんよ」
「ではどうする」
「目立たなければいいんです」
「どうやって」
宗一郎はレティシアを上から下まで見た。
軍装。
公爵家の紋章。
帯剣。
外には護衛。
「まずその格好を何とかしましょう」
「これが普段着だ」
「世間の普段とずれてます」
「では何を着ろと?」
「普通の服」
「普通とは?」
「……そこからか」
ニーナが笑いをこらえている。
宗一郎は少し考え、レティシアへ言った。
「次に来るときは、軍装じゃなくて簡単な服で。護衛も店の中まで何人も連れてこない」
「護衛は必要だ」
ガレスが口を挟む。
「さすがにそこは譲れません。閣下に何かあれば困ります」
「じゃあガレスさん一人とか」
「私が?」
「普通のおじさんっぽくしてください」
「副団長に向かってずいぶんな注文ですな」
「できます?」
「……努力しましょう」
レティシアはなおも不満そうだった。
「それで客が来るのか」
「たぶん。少なくとも今日よりは」
「今日の客は私一人だぞ」
「だからですよ」
「なら、私がたくさん食べれば売上は増える」
「胃袋で経営を支えようとしないでください!」
店内に笑い声が響いた。
レティシアは少し考えた後、渋々頷いた。
「分かった。明日は普通の服で来る」
「毎日来る前提なんですね」
「駄目か?」
「……仕事に支障が出ないなら」
「出さん」
ガレスが小さく呟いた。
「本日も出ておりますが」
「副団長」
「聞こえましたか」
「聞こえるように言っただろう!」
午後二時を回ったころ、宗一郎は売れ残った大量の煮込みを前に立っていた。
今日の売上。
大銅貨十二枚。
すべてレティシアの三人前である。
「開店初日の客が公爵一人って、店としてどうなんだろうな」
「潰れはしませんでした」
ニーナが慰める。
「前向きすぎるよ」
「でも閣下はとても満足されていましたよ」
「公爵一人を満足させる高級店を作る予定じゃないんだけどね」
宗一郎は鍋の中を見た。
料理は余った。
だが、失敗しただけでもない。
何が原因か分かった。
値段にも問題はなさそうだ。
そして何より、一人とはいえ金を払って食べてくれた客がいる。
「まあ、初日ならこんなもんか」
会社員時代なら、初めて任された仕事が完璧にいかなかっただけで一日中落ち込んだころもあった。
四十二歳になると、失敗への付き合い方も少し変わる。
原因が分かったなら直せばいい。
それだけだ。
「残った煮込み、どうします?」
「夕方までなら大丈夫そうだから、店の外で少し安く出してみよう。それでも残ったら俺たちで食べる」
「騎士団へ持っていけば、一瞬でなくなると思います」
「それやったら、明日も城から全員来るだろう?」
「来るでしょうね」
「駄目だ。一般客を呼ぶんだ」
宗一郎は外へ出て、木札を置いた。
ニーナに書いてもらう。
『本日開店。煮込み、大銅貨二枚。持ち帰り可』
すると、しばらくして最初に足を止めたのは、先ほどの八百屋の主人だった。
「閣下は?」
「帰りました」
「本当だな?」
「確認してから来るのやめてください」
「じゃあ、一つくれ」
「ありがとうございます」
宗一郎は初めて、レティシア以外から硬貨を受け取った。
手のひらに落ちた二枚の大銅貨は、決して大金ではない。
それでも妙に重く感じた。
「親父さん、味が合わなかったら正直に言ってください」
「分かった」
八百屋の主人は器を受け取り、一口食べた。
しばらく黙る。
「……明日もあるか?」
「ありますよ」
「閣下は?」
「来ると思います」
「じゃあ時間をずらす」
「そこまで避けなくてもいいでしょう!」
その声を聞いて、通りの向こうから何人かが笑った。
一人が店へ近づく。
もう一人も続く。
日が傾き始めるころには、残っていた煮込みはすべて売り切れた。
宗一郎は空になった鍋を洗いながら、少しだけ口元を緩めた。
初日の昼、客は女公爵一人だった。
けれど夕方には、八百屋、鍛冶職人、荷運び人、子連れの母親が食べてくれた。
大成功にはほど遠い。
それでも、一歩目としては悪くない。
問題は翌日だった。
朝、宗一郎が店の扉を開けると、そこには地味な茶色のワンピースを着た長身の女性が立っていた。
銀色に近い髪を布でまとめ、剣も公爵家の紋章も見当たらない。
一瞬、誰か分からなかった。
「……公爵様?」
「声が大きい」
「いや、何ですか、その格好」
「普通の服だ」
「ちゃんと持ってたんですね」
「ニーナに借りた」
「借りたの!?」
レティシアはどこか得意げだった。
「今日は誰にも分からんだろう」
その背後、十歩ほど離れた場所には、帽子を深くかぶったガレスが立っている。
どう見ても護衛だった。
「ガレスさん、隠れる気あります?」
「これが精いっぱいです」
「剣が丸見えですよ」
「武器を置いて閣下の護衛をしろというのは無茶ですな」
宗一郎は朝から頭を抱えた。
だが、この日から店には少しずつ客が入り始める。
そして領都では間もなく、妙な噂が広がることになる。
大通りから一本外れた小さな食堂に、ときどき恐ろしく美人な三十五歳の女性が現れ、店主のおじさんと夫婦喧嘩のような言い合いをしながら飯を食べている、と。




