第10話 酔った女公爵から『うちに来い』と言われた
レティシアを呼び捨てにした女、セシリア・ローデンは、残っていた豆と野菜のスープを一杯飲み終えるころには、三枝宗一郎の食堂について大体のことを聞き出していた。
聞き出された、と言った方が正しい。
「つまり宗一郎さんは、一週間ほど前に突然この地方へ現れて、街道で倒れていたレティシアを助け、そのまま城へ連れていかれて、数日で倉庫を整理し、厨房へ口を出し、最後には食堂まで始めたということ?」
「まとめられると、俺も自分が何をしているのか分からなくなってきますね」
宗一郎は空になった器を受け取りながら答えた。
セシリアは三十代後半に見える女性で、淡い赤褐色の髪を肩のあたりでまとめ、旅装の上から質の良い外套を羽織っている。話し方は気さくだが、身につけている指輪や鞄の金具は明らかに庶民のものではない。
何より、レティシアが彼女に対して遠慮をしていない。
「それでセシリアさんは、どういうお知り合いなんです?」
「王都で商会をやっているわ。ローデン商会というのだけれど、この北部にも何軒か店を出しているの」
「商人さんですか」
「一応ね。父の代から王家や貴族とも取引しているから、堅苦しい席へ呼ばれることも多いけれど」
レティシアが横から口を挟む。
「こいつの父親と私の父が古い友人だった。子供のころから顔を合わせている」
「なるほど。幼なじみみたいなものですか」
「その言い方は気に入らん」
「どうしてです?」
「セシリアと私が仲良しだったように聞こえる」
「仲良しでしょう?」
セシリアが即座に返した。
「十二歳のとき、私が王都の舞踏会で転んだら、あなた、相手の男の子を追いかけ回したじゃない」
「あれは、そいつがお前の裾を踏んだからだ」
「十三歳のときは?」
「何の話だ」
「私が泣いていたら、夜中にお菓子を持って部屋まで来たわよね」
「忘れた」
「十五歳のとき――」
「もういい!」
レティシアが声を上げる。
宗一郎は笑いをこらえきれなかった。
「公爵様にも、ちゃんと子供時代があったんですね」
「当たり前だろう!」
「いや、最初に会ったときから剣持って血まみれだったから、昔からあの状態だったのかなと」
「どういう想像をしている!」
セシリアが腹を抱えて笑った。
「気に入ったわ、宗一郎さん。レティシアにここまで普通に言い返す人、久しぶりに見たもの」
「俺としては普通に話してるだけなんですけどね」
「そこがいいのよ。普通に話せる人間が、この子の周りには意外と少ないから」
レティシアの顔から笑いが少し消えた。
「余計なことを言うな」
「あら、本当でしょう。みんな公爵閣下としてあなたを見る。昔から知っている私まで王都に住んでいるし、ガレスだって立場上、完全に友人ではいられない」
「私は困っていない」
「そういうところよ」
セシリアはさらりと言ってから、宗一郎へ顔を向けた。
「それで?」
「何がです?」
「二人はどういう関係なの?」
宗一郎は一瞬考えた。
「店主と客です」
「宗一郎!」
レティシアが机を叩いた。
「何で怒るんです?」
「それだけか!」
「他に何があります?」
「私はお前の命の恩人ではないのか」
「それ逆です。助けたの俺です」
「……そうだった」
「忘れないでくださいよ」
セシリアはますます楽しそうだった。
「レティシア、あなた完全に負けてるわね」
「勝ち負けではない」
「顔は負けた人の顔よ」
「黙れ」
宗一郎には何が勝負なのか分からなかった。
ただ、レティシアが普段より明らかに子供っぽくなっているのは面白かった。
普段は領主として、周囲から恐れられ、尊敬されている。
だがセシリアの前では、一人の三十五歳の女性に戻るらしい。
「セシリアさん、もう少し食べます?」
「いただこうかしら。ただ、今度はお酒も欲しいわね」
「酒ですか」
「ないの?」
「まだ仕入れてないんですよ。開店したばかりで、そこまで手が回ってなくて」
「なら私が持っている」
セシリアは革鞄から、小さな陶器の瓶を取り出した。
「王都から持ってきた果実酒よ」
「食堂に持ち込みは……まあ、今日は閉店後だからいいか」
「店主が柔軟で助かるわ」
「でも公爵様は駄目ですよ」
レティシアが眉を寄せた。
「なぜ私だけ駄目なのだ」
「怪我したばっかりでしょう」
「もうほとんど治っている」
「医者から飲んでいいって言われました?」
「聞いていない」
「じゃあ駄目」
「なぜお前が決める!」
「健康管理が雑すぎる人には誰かが決めないと駄目だからです」
セシリアが感心したように頷いた。
「宗一郎さん、本当にこの子のお母さんみたいね」
「やめてください。四十二歳独身男性です」
「では夫?」
宗一郎は危うく器を落としかけた。
「飛躍しすぎですよ」
レティシアも珍しく言葉に詰まった。
「セシリア」
「何?」
「帰れ」
「私は今来たところよ」
「王都へ帰れ」
「遠すぎるでしょう」
結局、三人で閉店後の食堂に残ることになった。
宗一郎は余った鶏肉と根菜を細かく刻み、卵と混ぜて焼いた。果実酒に合うかどうかは分からないが、空腹で酒だけ飲ませるよりはいい。
「これは何という料理なの?」
セシリアが尋ねる。
「名前なんてないですよ。余り物を卵でまとめただけです」
「またそれね」
「また?」
「レティシアから聞いたわ。あなた、『普通』『大したことない』『余り物』ばかり言うんですって?」
宗一郎はレティシアを見た。
「俺の話、してるんですか?」
「していない」
「今、してるって言われましたよ」
「必要な報告をしただけだ」
「誰に?」
「……セシリアに」
「それを世間では話したって言うんですよ」
レティシアは不機嫌そうに酒の瓶へ手を伸ばした。
宗一郎が先に取る。
「駄目です」
「一杯だけだ」
「怪我人でしょう」
「傷は塞がった」
「一杯だけですよ」
「二杯」
「交渉しないでください」
「一杯半」
「刻むな」
セシリアが笑いながら小さな杯を三つ並べた。
「宗一郎さんも飲むでしょう?」
「少しだけなら」
「弱いの?」
「普通です。ただ、こっちの酒がどれくらい強いのか分からないので」
「これは弱い方よ」
「その言葉、一番信用できないんですよね」
日本でも酒好きの「弱い酒だから」は、かなり幅がある。
実際に飲んでみると、甘酸っぱい果実の香りの後から、思ったより強い酒精が喉を通った。
「これで弱い方?」
「ええ」
「異世界人、肝臓強いな……」
レティシアは一杯飲むと、すぐ二杯目へ手を伸ばした。
「公爵様」
「一杯半までよいと言った」
「本当に半分で止めるんです?」
「当然だ」
結果から言えば、当然ではなかった。
一時間後。
宗一郎は、自分が重大な判断ミスをしたことを理解していた。
「宗一郎」
「はい」
「お前はなぜ私を公爵様と呼ぶ」
「公爵様だからです」
「レティシアでよい」
「急に距離が近いなあ」
「セシリアは呼んでいる」
「セシリアさんは昔からの知り合いでしょう」
「お前も知り合いだ」
「一週間くらいです」
「日数の問題ではない」
「かなり問題ですよ」
レティシアは頬杖をつき、明らかに普段より頬が赤い。
飲んだのは結局三杯だった。
一杯半という交渉は何だったのか。
「珍しいわね」
セシリアは楽しそうに杯を揺らした。
「この子、昔から酒には強いのに」
「怪我の後だからじゃないですか?」
「それもあるでしょうけど、たぶん気が緩んでるのよ」
「気が?」
「城では酔わないようにしているもの。部下の前だから」
宗一郎はレティシアを見る。
本人は卵料理を真剣な顔で食べている。
「美味い」
「ありがとうございます」
「もっと作れ」
「もう材料ないです」
「では明日」
「明日は店の営業です」
「私が食べる」
「お客さんに出す分がありますから」
「私も客だ」
「そこはちゃんと覚えてるんですね」
セシリアが宗一郎へ少し身を寄せた。
「ねえ、この子、面倒でしょう?」
「まあ、多少」
「宗一郎!」
「聞こえてたんですか」
「聞こえる」
「酔ってても耳はいいんだなあ」
「私は面倒ではない」
「野菜残すし、毎日来るし、四杯食べるし、十分面倒ですよ」
「だが払っている」
「金払えば全部許されると思わないでください」
レティシアは不満そうに唇を尖らせた。
三十五歳の公爵がする顔とは思えない。
宗一郎は思わず笑った。
「何がおかしい」
「いや、公爵様でもそんな顔するんだなと思って」
「どんな顔だ」
「子供みたいな顔」
「私は三十五だ」
「知ってます」
「お前は四十二」
「それも知ってます」
「七つしか違わん」
「急に何の計算です?」
宗一郎が聞き返すと、レティシアは少し黙った。
セシリアが横で口元を押さえている。
「セシリアさん、何で笑ってるんです?」
「別に」
「絶対何かありますよね」
「本人が言うまで黙っておくわ」
「何の話だろう……」
宗一郎には本当に分からなかった。
恋愛に鈍いという自覚はある。
四十二歳になるまで、何度か付き合った女性はいたものの、結婚には至らなかった。最後にまともな恋愛をしたのも、もう何年も前である。
それに相手は公爵だ。
知り合って一週間の異世界人へ、そういう感情を持つなど想像する方がおかしい。
「宗一郎」
レティシアがまた呼んだ。
「今度は何です?」
「城へ戻ってこい」
「はい?」
「この店を閉めて、うちに来い」
宗一郎は瞬きをした。
セシリアが持っていた杯を止めた。
「公爵様、もう酔ってますよね」
「酔っていない」
「酔ってる人はだいたいそう言います」
「本気だ」
「何で店を閉めなきゃいけないんです?」
「城の方が暮らしやすい」
「そりゃそうでしょうけど」
「厨房もある」
「ありますね」
「部屋もある」
「あります」
「私もいる」
「……はい?」
宗一郎は最後の一つだけ意味が分からなかった。
レティシア本人も、言ってから何かおかしいと思ったのか、少し黙った。
セシリアは完全に笑いをこらえている。
「最後のは必要です?」
「必要だ」
「何に?」
「……飯を食うのに」
「俺が作る側じゃないですか」
「だから必要だ」
「それなら厨房があれば十分でしょう」
「お前も必要だ」
「料理する人間として?」
「それだけではない」
宗一郎は眉を寄せた。
レティシアは酔っている。
とはいえ、冗談を言っているようにも見えなかった。
「じゃあ、何として必要なんです?」
聞いた瞬間、セシリアが「あら」と小さく言った。
レティシアは答えようとした。
しかし数秒後、机へ額をつけた。
「……眠い」
「そこで寝るんですか!」
「少しだけだ」
「城まで戻るんでしょう!」
「宗一郎が運べ」
「無理ですよ!」
「四十二歳だろう」
「年齢と腕力は比例しません!」
セシリアがとうとう腹を抱えて笑い出した。
「あなたたち、本当に面白いわね」
「笑ってないで手伝ってくださいよ」
「嫌よ。私は客だもの」
「こういうときだけ客になるのやめてください!」
結局、ガレスを呼ぶことになった。
店の外で待機していた副団長は、机に突っ伏している主君を見るなり、何とも言えない顔をした。
「閣下……」
「俺、一杯半までって言ったんですよ」
「三杯ありますな」
「止めたんですよ」
「止まりませんでしたか」
「止まりませんでした」
「いつものことです」
「いつもなの!?」
ガレスと宗一郎は協力してレティシアを立たせた。
すると本人が薄く目を開けた。
「宗一郎」
「はいはい。帰りますよ」
「一緒に来い」
「城まで送るだけですよ」
「違う」
「何が」
「うちに来い」
今度は、先ほどより小さな声だった。
酔っているせいなのか、妙に素直に聞こえた。
「お前がいると……飯が美味い」
「それ、料理の話ですよね」
「それだけではない」
また同じことを言う。
しかし、その続きを口にする前にレティシアの目が閉じた。
「公爵様?」
返事はない。
完全に寝た。
宗一郎は困り果ててガレスを見る。
「この人、普段からこんな感じなんです?」
「少なくとも、私の前ではありませんな」
今度はセシリアが答えた。
「だから言ったでしょう。気が緩んでいるのよ」
「俺の店で?」
「あなたの前で、じゃない?」
宗一郎は首を傾げた。
「何でです?」
「それを私に聞くの?」
「他に分かる人がいないので」
セシリアはしばらく宗一郎の顔を見てから、盛大にため息をついた。
「レティシアも大変ね」
「どういう意味です?」
「そのうち分かるわ」
「またそれですか」
「人に教えてもらって理解することじゃないもの」
ガレスがレティシアを馬車へ連れていく。
宗一郎も店の外まで見送った。
夜の通りには人影が少なく、昼の喧騒が嘘のように静かだった。
馬車へ乗せられる直前、レティシアがまた一度だけ目を開けた。
「宗一郎」
「はい」
「明日も行く」
「仕事に支障がないならどうぞ」
「……うむ」
満足したのか、そのまま眠った。
馬車が城へ向かっていく。
宗一郎は店先に立ったまま、その背中を見送った。
「うちに来い、か」
住み込みで料理をしてほしいという意味だろう。
たぶん。
そう考えるのが一番自然である。
それなのに、なぜかレティシアが言った「私もいる」という一言だけが妙に引っかかった。
「まさかな」
「何が?」
後ろからセシリアの声がした。
「まだいたんですか」
「失礼ね。最後の酒を飲み終えるところよ」
「酔っ払い二人の相手、大変なんですよ」
「あなた、案外世話好きね」
「総務だったので」
「それ、本当に便利な言葉ね」
宗一郎は苦笑しながら店内へ戻った。
洗い物が残っている。
机も拭かなければならない。
明日の仕込みも考えなければならない。
恋愛について考えている暇などない。
だからその夜、宗一郎はレティシアの言葉を「酔っ払いの戯言」として片づけた。
翌朝、その判断が少し甘かったことを知る。
店を開ける前からレティシアがやって来たのである。
しかも今日は一人ではなかった。
背後にはオズワルドとガレスが立ち、さらに二人の使用人が大きな木箱を抱えている。
「……何です、それ」
宗一郎が尋ねると、レティシアは昨日酔っていたことなど一切覚えていないような顔で答えた。
「城から持ってきた」
「何を?」
「鍋、食器、調理器具、それに食材だ」
「どうして?」
「お前の店は道具が足りん」
「いや、買い足そうとは思ってましたけど」
「だから持ってきた」
「公爵家の備品を?」
「私物だ」
「何でそんなに鍋持ってるんです?」
「知らん。倉庫にあった」
「また倉庫!」
宗一郎は頭を抱えた。
その横でガレスが小さく笑う。
「閣下は朝一番で、『宗一郎の店へ持っていく物を選ぶ』と倉庫へ向かわれまして」
「仕事は?」
「その後です」
「公爵様」
「何だ」
「昨日の夜のこと、覚えてます?」
レティシアの動きが止まった。
ほんのわずかだが、頬が赤くなった。
「……何の話だ」
「覚えてますね」
「知らん」
「『うちに来い』って」
「知らん!」
「『私もいる』って」
「言っていない!」
「言いましたよ」
ガレスが横を向いた。
オズワルドは空を見上げた。
使用人二人は必死に無表情を保っている。
レティシアは耳まで赤くなった。
「宗一郎」
「はい」
「昨日の私は酔っていた」
「でしょうね」
「だから忘れろ」
「分かりました」
「……本当に?」
「はい」
「全部?」
「全部」
レティシアは少しだけ安心した顔をした。
宗一郎はそのまま木箱へ近づき、中を確認し始めた。
「うわ、立派な鍋だな。これ本当に借りていいんですか?」
「……ああ」
レティシアは、なぜか少しだけ不満そうになった。
宗一郎にはその理由が分からない。
後ろでガレスが小さく呟いた。
「忘れろと言っておいて、本当に忘れられると不満なのですか……」
「副団長」
「何も言っておりません」
「言った!」
朝の食堂に、いつもの言い争いが始まった。
そして宗一郎が知らないところで、セシリアはすでに王都へ送る手紙を書いていた。
内容は短い。
――レティシアに、どうやら気になる男ができたらしい。
その一文が後日、思わぬ人物を北部へ呼び寄せることになるとは、このときの宗一郎は知る由もなかった。




